第21話
【大陸暦一二二六年九月上旬】
穏やかな午後。私は書斎でページをめくる音を響かせていた。
婚約破棄から約一ヶ月が経ち、ようやくこの自由な日々にも慣れてきたところだ。
「お嬢様、お茶をお持ちしました」
「ありがとう、マリア」
マリアが置いてくれたティーカップから、湯気とともに芳醇な紅茶の香りが立ち上る。私は本から目を離し、温かなカップを手に取って一口含んだ。
『あなた、最近すっかりダラけてないかしら?』
脳内から、アナ――未来の私が呆れたような声を上げた。
(失礼ね。これは「優雅な読書時間」と呼ぶのよ)
『昨日もお兄様とバターたっぷりの焼き菓子を食べていたわよね? せっかく仕立てたドレスが入らなくなっても知らないわよ。太った公爵令嬢なんて……』
(余計なお世話よ。そもそも、あなたは私なのよ? 私が太れば、あなただって太るということじゃない)
『……っ! ちょっと、今すぐ食事制限よ!』
(あのね。我が家の優秀なコック長が、そんなヘマをするはずないでしょ。だから黙ってて)
アナを論破して満足げに微笑むと、再び本に視線を落とす。傍らで控えていたマリアが、不思議そうにこちらを覗き込んでいた。
「お嬢様……?」
「何でもないわ、マリア」
『でも、本当に大丈夫? このところ社交界にも顔を出さず、屋敷に篭りきりだけど』
(いいのよ。どうせもうすぐ、あちらから次の展開がやって来るのだから)
『……まあ、その通りね。そろそろ時間かしら』
私は窓の外へ目を向けた。庭園の木々が秋の風に吹かれ、カサカサと乾いた音を立てている。
マリアが部屋の隅で静かに刺繍を運ぶ、この平和な時間がずっと続けばいい――そう思った瞬間、扉が鋭くノックされた。
「失礼します。お嬢様、第二王子ヴィクトール殿下がお見えです」
執事の報告に、私は静かに本を閉じた。
『来たわね』
(ええ、予定通りよ)
立ち上がると、マリアが手際よくドレスの裾を整えてくれる。
私は深く、長く息を吐き出し、心を落ち着かせてから歩き出した。
「分かったわ。すぐに参ります」
◇
応接室に入ると、ヴィクトール殿下が父と向かい合って座っていた。
二人は和やかに言葉を交わしており、父の表情もどこか穏やかだ。私が入室すると、二人は示し合わせたように立ち上がった。
「失礼いたします」
「リリアナ殿。邪魔をしてしまい、申し訳ない」
殿下が丁寧に頭を下げた。その真摯な態度に、自然とこちらの背筋も伸びる。
「いいえ。わざわざお越しいただき、光栄です」
私が父の隣に腰を下ろすと、父は満足げに一つ頷いた。
わずかな沈黙が流れた後、父が重みのある声で口を開く。
「リリアナ。ヴィクトール殿下から、お前に大切な話があるそうだ」
「はい」
私が頷くと、殿下は真っ直ぐに私を見つめてきた。その青い瞳には、一点の曇りもない。
「リリアナ殿、単刀直入に申し上げよう。私と婚約していただきたい」
一瞬、室内の空気が止まった。
予想していた言葉ではあったが、いざ向けられると心臓が跳ねる。開いた窓から、遠くで小鳥のさえずる声が聞こえてきた。
「政略結婚であることは承知している。私には王位継承の可能性があり、あなたには名門公爵家の後ろ盾がある。互いに利のある組み合わせだ」
殿下は一度言葉を区切り、さらに踏み出すように私の目を覗き込んだ。
「だが――私はあなたを、単なる政略の道具とは思わない。あなたの意思を尊重し、あなたの才能を認め、あなたと対等に向き合いたいと思っている。共に戦おう、リリアナ殿」
その言葉には、一切の虚飾がなかった。打算も虚勢もない、剥き出しの誠実さ。
『誠実な男ね』
アナが珍しく、素直な感嘆を漏らした。
(……そうね)
私は殿下を見つめ返す。王太子が私に向けた、あの「記号」を見るような目とは何もかもが違う。あの方は私を「相応しい家柄の置物」としてしか扱わなかった。けれど、目の前のヴィクトール殿下は私という人間そのものを求めている。
「はい。お受けいたします」
私が答えた瞬間、殿下の強張っていた表情がふわりと緩んだ。その微笑みには、隠しきれない安堵と喜びが滲んでいる。
「ありがとう、リリアナ殿。君の信頼に応えられるよう、精一杯の努力を約束する」
「こちらこそ、よろしくお願いいたします」
傍らで、父が我がことのように微笑んでいた。
「リリアナ、ヴィクトール殿下は誠実で有能な方だ。お前はきっと、幸せになれるだろう」
「ありがとうございます、お父様」
『新しい人生が始まるわね』
(ええ。これが、私の選ぶ正しい未来よ)
窓の外では、秋風が木々を優しく揺らしていた。
◇
その夜、兄エリオットが私の部屋を訪ねてきた。
扉を開けると、兄は腕を組んで仏頂面で立っていた。
「リリアナ、ちょっといいか」
「どうぞ、お兄様」
兄はソファに沈み込むように座ると、真剣な面持ちで口を開いた。
「婚約、おめでとう」
「ありがとうございます、お兄様」
「……第二王子殿下は、まあ、良い方だな。さっき少し話をしたが、殿下は『リリアナを大切にする』と俺に約束してくれた。誠実さは認めよう」
言葉とは裏腹に、兄の表情はどこか納得がいかない様子だ。
「だがな。俺は明日、殿下に改めて釘を刺しておくことに決めた」
「釘、ですか?」
「妹を泣かせたら、王子だろうが何だろうが承知しない、とな」
私は思わず吹き出してしまった。
「お兄様、そんなことを仰ったら殿下に失礼ですわ」
「失礼で結構! そもそも、先に失礼を働いたのは向こうの兄だ。こちらの兄が多少失礼でも、お釣りが出るくらいだ」
兄の瞳には本気の光が宿っている。あまりの心配性に、可笑しさと愛おしさが込み上げる。
「お兄様は心配性すぎますわ」
「当たり前だ。お前は俺の大切な妹なんだからな」
エリオットは立ち上がり、私の頭にぽんと手を置いた。
「お前と第一王子の婚約が決まった時、俺は内心、不満で堪らなかった。だが当時の俺には発言権がなかった。……今は違う。だからリリアナ、もし何かあったら、すぐに俺に言え。いいな?」
「ありがとうございます、お兄様。けれど今回は『もし何か』はありませんわ。エドワード殿下の時は、私もまだ子供でしたけれど、今は違います。ヴィクトール殿下と、今度こそ正しい関係を築いてみせます」
『……いい兄よね』
アナがぽつりと呟いた。
(そういえば、未来のお兄様は、処刑の時は辺境にいらしたのよね? どうして王都にいなかったの?)
『ノルヴェリアとの国境の小競り合いが長引いて、軍部にお兄様が派遣されていたの。だから、最期に間に合わなかったのよ』
(……今回は、ノルヴェリアとの関係もなんとかしたいわね。ちゃんとお兄様に守ってもらえるように)
兄は扉に向かいながら、一度だけ振り返って言った。
「じゃあ、俺は戻る。おやすみ、リリアナ」
「おやすみなさい、お兄様」
扉が閉まった後、窓の外を見上げれば、静謐な月光が部屋を照らしていた。
◇
翌日の午後、婚約内定が正式に発表された。
王宮から各貴族のもとへ通知が送られる。私は自室で、マリアと共にその報を待っていた。
「お嬢様、王宮より正式な通知が参りました」
執事が持ってきた書状を受け取り、広げる。
『第二王子ヴィクトールとリリアナ・フォン・エスタークの婚約内定を、ここに発表する』
簡潔な一文だが、それは王国の勢力図が塗り替わる合図でもあった。
『これで、あなたは正式に第二王子の婚約者よ』
(ええ。ようやく次の一歩ね)
『貴族たちの反応が楽しみだわ。セシリアと王太子の組み合わせより、あなたとヴィクトールの組み合わせの方が、誰の目にも理想的に映るはずよ』
アナの言葉には、確かな勝利への確信が滲んでいた。
マリアが淹れてくれた紅茶を口に運ぶ。温かな熱が体に染み渡る。
「お嬢様、これから社交界が騒がしくなりそうですね」
「ええ。きっと、多くのことが起こるわ」
「お嬢様の味方が、たくさん増えると良いのですが」
「ありがとう。でもマリア、味方が増えるということは、それだけ敵も増えるということなのよ」
窓の外、流れる雲を見つめる。
「これから、もっと大変になるわ」
『でも、あなたは一人じゃないわ』
(ええ。あなたがいる。お兄様もお父様も、そしてヴィクトール殿下も……)
『そして、もちろんマリアもね』
私が微笑むと、マリアが不思議そうに首を傾げた。
「お嬢様……?」
「何でもないわ。ただ、これから全力で頑張らなきゃって、そう思っただけよ」
「お嬢様なら、きっと大丈夫ですわ。私もずっとお傍におります」
◇
その日の夕刻、私は父の書斎に呼び出された。
書類の山から顔を上げた父は、いつもより柔らかな眼差しで私を座らせた。
「婚約、おめでとう。ヴィクトール殿下は良い方だ。お前は最良の選択をした」
「はい、お父様」
「だが、これからは今まで以上に気を引き締めねばならん。ヴィクトール殿下は今、極めて難しい立場にいる。擦り寄る者、蹴落とそうとする者。多くの貴族がお前を利用しようとし、同時に敵視するだろう」
父の言葉は重く、鋭い。
「特に王妃陛下の派閥だ。王妃は実子であるヴィクトール殿下の即位を望んでいるが、同時に我が家の権力がこれ以上膨らむことを警戒している。お前を取り込むか、あるいは切り捨てるか。その見極めを誤るな」
「肝に銘じておきます」
「何かあれば、すぐに私に知らせなさい。エスターク家の威信を賭けて、お前を守る」
父が立ち上がり、夕日に染まる窓の外を見つめた。
「エリオットも、お前を守ると言っていた。我ら家族が、お前の盾となる」
「ありがとうございます、お父様」
私は立ち上がり、深々と頭を下げた。厳格な父が見せた、家族への深い愛情。それを背負って立つ覚悟が、ふつふつと湧き上がってくる。
自室に戻ると、空は燃えるようなオレンジ色から、深い藍色へと移ろっていた。
『さて。ここからが本番ね』
(ええ。貴族社会がどう揺れ動くか、見ものだわ)
『王太子派閥は血相を変えて焦るでしょうね。そして、王妃もいよいよ動き出すわよ』
(準備はできているわ。これが、私たちの復讐の始まりなんだから)
夜空に一番星が瞬き始める。
新しい人生。そして、新しい戦い。
私は夜の冷気を深く吸い込み、固く決意を固めた。




