第18話
【大陸暦一二二六年七月初旬】
七月に入ってまもなく、兄エリオットが私の部屋を訪ねてきた。
「リリアナ、少し話がある」
ひどく険しい表情の兄に驚きつつ、私は紅茶の用意をマリアに頼み、彼を応接セットへと案内した。
「どうされましたか、お兄様。そんなに怖い顔をして」
「軍の知人から聞いた話なんだが……」
兄は周囲を警戒するように、ぐっと声を潜めた。
「王太子殿下の政務内容が、不審な経路で外部に漏洩しているらしい」
その言葉に、私の背筋が凍るような緊張感で伸びる。
「それは……国家の機密事項ではありませんか」
「どの程度の情報が漏れたのか、詳細は不明だ。だが、王太子殿下に極めて近い人物が関わっている可能性が高い。辺境での統治時代、軍の連中とは深く協力してきた。彼らは信頼に値する。この情報の信憑性は高いだろう」
王太子付きの側近。傲慢だったフェリックスはすでに失脚している。
となれば、残る容疑者は一人しかいない。
『――ダミアン・クロウね』
アナの声が、確信を持って響いた。
「お兄様」
私は兄の大きな手を取り、真っ直ぐにその目を見た。
「本当にありがとうございます。この情報は、私たちの未来を左右する大切なものですわ」
「無茶はするなよ。……と言っても無駄だろうから、せめてヴィクトール殿下には必ず相談するんだぞ」
兄は困ったように笑い、私の頭を優しく撫でた。
◇
翌日、私はヴィクトール殿下と王宮庭園の四阿で密会した。人目を避けたこの場所は、今や私たちの作戦会議室となっていた。
「エリオット殿からの情報か」
私の報告を聞いたヴィクトール殿下は、鋭い眼光で頷いた。
「軍部に顔が利く方だとは聞いていたが、これほど致命的な情報を掴んでくるとはな。辺境で培った人脈、恐るべしだ」
「兄は、軍と強い信頼関係を築いていたようです」
「なるほど。ならばこの情報の信憑性は疑いようがない」
ヴィクトール殿下は腕を組み、険しい表情で思案に耽る。
「先日も話した通り、ダミアンの動きには不審な点が多い。エリオット殿の情報と照らし合わせ、徹底的に洗ってみよう」
「お願いします、殿下」
「ただし」
ヴィクトール殿下は私の手をそっと握り、真剣な眼差しで射抜いた。
「もし本当にダミアンが機密を漏らしているのであれば、それは重大な反逆行為だ。それだけに、動くには『言い逃れのできない証拠』が不可欠となる」
「分かっております。……必ず、綻びを見つけ出してみせますわ」
『ええ。どれほど完璧に見えても、焦りは必ず隙を生むものよ』
アナの声が、冷徹に後押しをしてくれた。
◇
それから三日後。再びヴィクトール殿下に呼び出された私は、焦げた紙片を提示された。
「手に入れたぞ。これだ」
「これは?」
「ダミアンが書き損じたメモを、ランプの火にくべたものだ。幸いにも火が弱く、完全に燃え切る前に私の配下が回収した」
黒く煤けた紙片には、確かに文字が刻まれていた。
王太子の政務内容、そして今月の貴族評議会で討議される予定の、極めて秘匿性の高い事項。
「王宮の機密文書は、たとえ書き損じであっても正規の手続きで処分するのが鉄則だ」
ヴィクトール殿下は、吐き捨てるように言葉を継いだ。
「しかもこの書き方……これは備忘録ではない。明らかに『第三者に読ませるための要約』だ。これをダミアンが外部に流すとすれば――」
「セシリア様、ですね」
「ああ。だが、これだけでは彼女との直接的な繋がりは証明できない。あの女は、決して己の手を汚さぬよう細心の注意を払っている」
『抜け目のない女。でも、駒は削れるわ』
アナの言葉通りだ。
「この証拠を国王陛下に提示すべきです。ダミアン様を失脚させれば、セシリア様の手駒はまた一つ消えることになります」
「……そうだな」
ヴィクトール殿下の表情に、複雑な色が混じる。
「だが、これで兄上はまた一人、信頼すべき側近を失うことになる。ますます孤立を深めていく」
「それは、殿下にとってもお辛いことですよね」
「……ああ。だが、これは私情を挟むべき問題ではない。国家の機密漏洩を見逃せば、この国が滅びる」
私たちは、国王陛下への直訴を決意した。
◇
翌日、謁見を願い出た私たちを、陛下は執務室で迎えてくださった。
病床にあるはずの陛下は顔色こそ優れなかったが、その双眸には王としての峻烈な光が宿っている。
「リリアナとヴィクトールか。何事だ、改まって」
「陛下。重大な、あまりに由々しき報告がございます」
ヴィクトール殿下が一歩前に出て、あの焦げた紙片を差し出した。
「これは、王太子付き側近ダミアン・クロウが、外部の第三者へ宛てて記したと思われるメモです。内容をご確認ください」
陛下は紙片を手に取り、じっくりと、そして何度も目を通された。重苦しい沈黙が部屋を満たす。
「……ダミアン。お前までもか」
漏れた陛下の声は、怒りよりも深い悲哀に満ちていた。
「陛下。この証拠だけでは流出先までは特定できません。しかし、側近が機密を外へ持ち出そうとしていた事実は揺るぎません」
私が一歩前に出て告げると、陛下は静かに目を閉じ、深く息を吐き出された。
「エドワードとダミアンを呼べ。今すぐにだ」
十分後。王太子エドワードとダミアンが、怪訝そうな表情で入室してきた。
王太子は露骨に不機嫌な様子で、ダミアンは相変わらず感情の読めない顔で恭しく拝礼する。
「父上、急なお呼び立て、一体何事でしょうか」
王太子の声には、隠しきれない苛立ちが滲んでいる。おそらくはセシリアとの逢瀬を楽しんでいたところを邪魔されたのだろう。
「エドワード、ダミアン。これを見よ」
置かれた焦げた紙片を見た瞬間、ダミアンの顔から血の気が引いた。
「これはダミアン、お前が書いたものだな?」
「そ、それは……」
「言い逃れはできん。筆跡鑑定も行うが、その前にお前の口から聞きたい。この情報を、誰に流した?」
陛下の低く威厳に満ちた問いに、王太子が困惑した声を上げた。
「父上、これはどういうことです? 私の側近が、機密を……?」
「そうだ、エドワード。お前が信じ切っている側近が、お前の政務を外部に垂れ流していたのだ」
「なんだと!? ダミアン! 貴様、私を裏切ったのか!?」
王太子の顔が激昂に染まる。
「殿下、誤解です! これは誰かが私を陥れるために――」
「では、この紙片の内容を説明してみろ」
陛下が冷たく突き放す。
「これは今月の貴族評議会で討議される最重要事項だ。これを知り得る者は、お前を含めた数名しかいない」
「……それは、政務の整理をしていた際の書き損じかと。ですが、それは確実に破棄したはずで……」
「嘘を吐くな」
ヴィクトール殿下の鋭い声が、ダミアンの言い訳を切り裂いた。
「お前が自らランプの火にくべるのを、私の配下がこの目で見届けているのだ」
「……っ!」
ダミアンの額に脂汗が浮かぶ。灰色の瞳は救いを求めるように泳いだ。
「ならばなぜ、不要な書類に機密の内容を精査して書き起こす必要がある? なぜそれをわざわざ焼いて隠蔽しようとした? 通常の書類なら、破棄箱に捨てれば済む話だろう」
陛下の追及に、ダミアンは唇を噛みしめ、絶望的な沈黙に陥った。
「誰に渡すつもりだった。答えろ、ダミアン」
有無を言わさぬ威圧感に、ついにダミアンの肩が小刻みに震え始める。
「私は……私は……この国を、変えたかったのです!」
沈黙を破ったのは、慟哭のような叫びだった。
「出自ですべてが決定される、この歪んだ制度を! 才能ある者が正当に評価される、そんな国にしたかった!」
「それと機密漏洩に、何の関係があるというのだ」
ヴィクトール殿下が冷徹に問いかける。
「私は……理解者を得ようとしたのです。セシリア様だけが、私の理想を理解してくださった!」
執務室の空気が、一瞬にして凍りついた。
「あの方だけが本気で国を変えようとしている! 私のような養子の成り上がりでも、能力があれば認められる世界を……!」
「だから、国家反逆という名の犠牲を払ったというのか」
「理想のためなら、多少の犠牲は厭わない!」
「貴様の言う『多少の犠牲』で、どれだけの国益が損なわれるか考えたことがあるのか。それは改革ではない。ただの反逆だ」
陛下の峻烈な宣告に、ダミアンは絶句した。
「ダミアン・クロウ。機密情報漏洩の罪により、王太子付き側近の座を剥奪する。即刻投獄し、情報の全容と漏洩先をすべて吐かせろ」
「お待ちください! セシリア様は、セシリア様は何も関わって――」
「セシリア・ローゼンタール嬢についても、詳しく事情を聞く必要があるな。彼女を呼べ」
王太子は、引き立てられていくダミアンを、ただ呆然と見つめていた。
「お前までもか……。お前までも、私を裏切るのか……」
その声には、怒り以上に深い絶望が滲んでいた。
数分後、セシリアが執務室に入ってきた。
柔らかな淡い桃色のドレスを纏い、不安げに揺れる翠緑の瞳を伏せたその姿は、殺風景な執務室に咲いた一輪の可憐な花のようだった。
「陛下、お呼びにより参上いたしました……。あの、ダミアン様がこちらにいらっしゃると伺いましたが、一体何が……?」
首を傾げ、何も知らない無垢な令嬢を完璧に演じる彼女に、国王が重々しく口を開く。
「ローゼンタール伯爵令嬢セシリア。ダミアン・クロウがお前に王太子の政務に関する機密を漏らしていたという疑いがある。申し開きはあるか」
「まあ……っ!」
セシリアは短い悲鳴を上げ、その場に崩れ落ちるように膝をついた。みるみるうちに瞳に涙が溜まり、頬を伝い落ちる。
「そんな。私は、私はただ……お忙しいエドワード殿下の力になりたくて……。殿下はいつも国のために心血を注いでおいでで、その重圧を少しでも分かち合いたいと思っただけなのです」
彼女は震える手で顔を覆い、断続的な呼吸とともに言葉を紡ぐ。
「ダミアン様は殿下の最も信頼厚き側近でしたから……。殿下が今日、どのようなご様子だったか、お疲れではないか、私がお会いした時にどのような言葉をかければお心が休まるのか。それを伺っていただけなのです。その中に、もしかしたら多少の機密が含まれていたのかもしれません。私、なんて軽率なことを……」
「セシリア!」
王太子がたまらず駆け寄り、彼女の細い肩を抱き寄せた。
「陛下、お聞きください! 彼女が機密を求めたのではありません。彼女はただ、私の身を案じていただけなのです。すべては彼女の献身的な慈愛に付け込んだダミアンの独断です!」
セシリアは王太子の胸に顔を埋め、か細い声で泣きじゃくった。
「怖い……。ダミアン様、どうして……。私はただ、殿下の支えになりたかっただけなのに……!」
その泣き声は、聞く者の保護欲を激しく揺さぶった。
執務室の入り口に集まっていた野次馬の貴族たちの間に、波紋のような囁きが広がる。
「見てくれ、あの震えようを。とても嘘をついているようには見えない」
「一介の養女に過ぎない彼女が、機密を手に入れてどうするというのだ。人脈も金脈もない彼女が、それを利用する術などあるはずもない」
「むしろ被害者ではないか。殿下への純粋な恋心を、側近に利用されたのだから」
貴族たちの「慢心」が、彼女を守る強固な盾となっていた。「女に政治は分からない」「後ろ盾のない娘に陰謀は練れない」という彼らの偏見が、彼女の無実を証明する強力な根拠へとすり替わっていく。
『……完璧ね。自分を「無力で無知な、ただ恋をしているだけの女」の枠に押し込めることで、容疑そのものを滑稽なものに見せているわ』
アナの声が苦々しく響く。
だが、セシリアは涙の合間のごく僅かな時間、ダミアンの方へ視線を送ったことに私は気づいた。それは憐れみではなく、「あなたは私のために沈みなさい」という無言の強制のように見えた。
「陛下……っ」
セシリアが、潤んだ瞳で国王を仰ぎ見る。
「私が不用意にダミアン様と接触したのがいけなかったのです。私の無知が、このような事態を招きました。どうか、私に相応の罰を! そうでなければ、殿下への申し訳なさで、心が張り裂けてしまいます……」
「セシリア! 君が罰を受ける必要などない! 悪いのは裏切ったダミアンだ!」
王太子が彼女を庇うように陛下を睨みつける。
陛下は深く、長く溜息をついた。
「……セシリア・ローゼンタール。証拠なき以上、お前を裁くことはせぬ。もうよい、下がれ」
「ありがとうございます、陛下。うっ、うう……」
セシリアは侍女に支えられ、エドワードに何度も振り返りながら、痛々しい足取りで退室していった。
その後、ダミアンが正式に連行される。彼は最後まで、自らの「正義」を叫び続けていた。
執務室に残された王太子へ、陛下が厳しく告げる。
「エドワード。お前は側近を二人も失った。どちらもお前の信頼を裏切ったのだ。己の不明を恥じ、より一層政務に励め」
「……はい」
しかし、王太子の返答には反省の色はなかった。それどころか、その瞳には歪んだ執着が宿っている。
「ですが父上。セシリアだけは、私を理解してくれる唯一の人なのです。彼女だけは、私を裏切りません」
陛下は、もはや言葉を失ったように息子を見つめることしかできなかった。
◇
執務室を出た後、私とヴィクトール殿下は廊下で立ち止まった。
「リリアナ殿。これであなたの立場は、さらに危うくなったと言えるだろう」
「理解しております。王太子殿下は、セシリアに救いを求め、盲信しています。私を遠ざける動きは、さらに加速するでしょう」
「婚約破棄も、もはや秒読みだな。覚悟はできているか?」
「はい。むしろ、ここからが本当の勝負ですわ」
二人の側近を排除した。セシリアの土台は確実に崩れ始めている。
私たちは無言で頷き合い、歩き出した。
向こうから、一人の令嬢が歩いてくる。
セシリアだ。彼女は先ほどまでの涙が嘘のように、穏やかな微笑みを浮かべていた。
「リリアナ様、ヴィクトール殿下。大変なことになりましたわね。でも、真実が明らかになって何よりですわ」
その声音には、一片の動揺も、罪悪感もなかった。
「――ええ、本当に。真実というものは、隠そうとしても必ずいつか暴かれるものですわね」
私も、最高級の淑女の微笑みを返した。
「ええ、そうあって欲しいものですわ」
セシリアは優雅に去っていった。その背中を見送りながら、私は心の中で静かに、けれど激しく宣言する。
(次は、あなたの番よ。セシリア)
◇
その夜、私はアナと勝利を共有していた。
「とにかく二人目、撃破だわ!」
『ええ。でも本命はまだ無傷。あの演技、思い出すだけで虫酸が走るわ』
(でも、確実に王太子は孤立している。貴族たちの不信感も高まっているわ)
私とアナ。かつては別の存在だと思っていたけれど、今は同じ目的のために高鳴る鼓動を共有している。
『次の段階へ進みましょう。婚約破棄を、私たちの「勝利の鐘」に変えるために』
窓の外では、満月が静かに地上を照らしていた。
戦いはまだ始まったばかり。けれど、私には味方がいる。
(必ず、望む未来を掴み取ってみせるわ)
私は深く、静かな眠りについた。
明日から始まる、さらなる激闘に備えて。




