第16話
【大陸暦一二二六年五月初旬】
王宮の庭園を散策していた時、私はまたしても「あの光景」を目にしてしまった。
王太子とセシリアが、色とりどりの花壇の前で並んで立っている。
二人は親しげに言葉を交わしながら、咲き始めた薔薇を眺めていた。
王太子がセシリアに何かを囁くと、彼女は愛らしく頬を染めて微笑む。
その笑顔はどこまでも柔らかく、王太子を見つめる瞳は幸せそうに細められていた。
何より私の胸を突いたのは、王太子エドワードの表情だった。
驚くほどに、穏やかだったのだ。
かつて婚約者である私に向けていた笑顔よりも、ずっと自然で、ずっと温かい。
セシリアと過ごす王太子は、心の底からこの時間を楽しんでいるように見える。
重責から解放され、肩の力が抜けた一人の青年としての姿が、そこにはあった。
私はその光景を、遠くから静かに眺めていた。
春の柔らかな陽光が二人を包み込み、まるで世界そのものが彼らを祝福しているかのように輝いている。
その輝きが眩しければ眩しいほど、私の胸はきゅうっと締め付けられた。
『また見ているの?』
アナの声が、突き放すように冷たく響いた。
『もう諦めなさいよ。王太子の心は完全に、あの女のものよ』
(分かっているわ……言われなくても)
私は小さく呟いた。
王太子の心がもう私にはないことなど、とっくに理解している。何度も突きつけられてきた現実だ。
けれど、それでも。
胸の奥には、澱のような痛みがこびりついて離れない。
幼い頃から共に歩むはずだった未来が、これほどまでにあっけなく書き換えられてしまった。その事実を飲み込むには、もう少し時間が必要だった。
『未練かしら?』
アナが皮肉っぽく問いかけてくる。
(……いいえ、違うわ)
私は小さく首を振った。
これは未練ではない。ただ、長年信じてきた「当たり前の未来」が音を立てて崩れていくことへの、拭いきれない戸惑いだ。
私は二人に気づかれないよう、静かにその場を後にした。
背後で聞こえる睦まじい笑い声を、春の風が遠くへ運んでいった。
◇
五月中旬。
約束されていた昼食会は、またしても延期された。
「殿下より、本日の昼食会は急遽延期との伝言を預かっております」
王宮からの使者が、申し訳なさそうに頭を下げる。
もう何度目だろうか。最近、まともに食卓を囲んだ記憶がない。
「理由は?」
「……公務多忙、とのことです」
公務多忙。既に飽きるほど聞いた言葉だ。
本当の理由は、聞くまでもない。王太子は、私と顔を合わせる時間すら惜しみ、避けているのだ。
その日の午後、王宮の廊下で偶然にも王太子と遭遇した。
「殿下、ご機嫌いかがですか」
私が声をかけると、王太子は一瞬だけこちらに視線を向け、事務的に頷いた。
「ああ」
たった一言。視線はすぐに逸らされた。
かつてなら「リリアナ、今日も綺麗だね」と微笑んでくださった。
「せっかくだからお茶でもどうだい」と、私の手を引いてくださった。
今の王太子にとって、私は視界に入れることすら煩わしい障害物でしかないのだろう。
「お忙しいところ、申し訳ございません。また改めてお時間を……」
「ああ、そうしてくれ。今は急いでいるんだ」
王太子は私を追い越して、足早に去っていった。
その背中は、まるで見えない敵から逃げ出そうとしているかのようだった。
静まり返った廊下で、私は一人、窓の外を見つめた。
降り注ぐ陽光が眩しい。その明るさが、私の心の影をいっそう深く際立たせていた。
『見たでしょ。もう完全に冷え切っているわ』
アナの声が、追い打ちをかけるように響く。
(ええ……)
『耳の痛い忠告をするあなたと話すより、甘い言葉しか言わないセシリアと過ごす方が楽しいのよ。あの無能な王太子にはね』
(アナ、そこまで言わなくても……)
『事実を言っているだけよ』
アナの断定に、私は反論する言葉を持たなかった。
◇
その夜、ヴィクトール殿下から至急の連絡が入った。
私は夜の静寂に包まれた王宮へ向かい、殿下の書斎へと足を踏み入れた。
「リリアナ殿。重要な、そして看過できない情報が入った」
ヴィクトール殿下が、かつてないほど真剣な表情で私を迎えた。
窓から差し込む青白い月明かりが、殿下の青灰色の瞳を鋭く照らしている。
「何があったのでしょうか」
「ダミアンが、ついに兄上へ『婚約破棄』を勧めた」
その言葉を聞いた瞬間、心臓が大きく跳ねた。
「婚約破棄……ついに、ですか」
「ああ。私の配下の者が密かに聞き出した。ダミアンは兄上にこう提案したらしい。――『リリアナ様との婚約を解消し、セシリア様を新たにお迎えになってはいかがですか』とな」
ヴィクトール殿下は腕を組み、険しい顔で夜の闇を見つめた。
「そして兄上は……その提案を、極めて前向きに検討し始めているようだ」
『ついに来たわね』
アナの声が緊張を帯びる。
『婚約破棄が、もう避けては通れない現実になろうとしているわ』
私は肺の奥まで深く、深く息を吸い込んだ。
覚悟はしていた。いつかこの言葉を突きつけられる日が来ると。
けれど、実際にそれを耳にすると、胸の奥が焼けるように熱くなる。
「リリアナ殿」
ヴィクトール殿下が私に向き直り、その瞳に強い意志を宿らせた。
「覚悟を決める時だ。婚約破棄が避けられないのであれば、あなたにとって最良の形でそれを迎えるべきだ」
「……はい」
私は真っ直ぐに殿下を見返し、頷いた。
殿下の仰る通りだ。もう逃げることはできない。
ならば、正面からこの理不尽を受け止め、エスターク家の、そして私自身の名誉を守り抜かなければならない。
「破棄の条件は、こちらが主導して有利に進める。向こうから言い出した以上、リリアナ殿の側に大きな交渉の余地があるはずだ」
「承知いたしました。……覚悟はできております」
書斎を出た後、私は自室の窓辺で夜空を見上げた。
星々が、冷たく、けれど静かに瞬いている。
『さあ、ここからは戦略会議よ』
アナの声が脳内に響き渡る。
(ええ。お願い、アナ)
私はソファに深く腰掛け、そっと目を閉じた。心の中で、もう一人の自分と対峙する。
『持参金の全額返還はもちろん、名誉の保証、そして公式声明には「双方の合意による相性の問題」と明記させること。これが最低ラインよ。いい? 泣き寝入りなんて絶対に許さないわ』
アナが断固とした口調で命じる。
(でも、婚約破棄という事実は消えないわ)
私はわずかに躊躇いを見せた。理屈では分かっていても、感情がブレーキをかける。
『何よ。まだ、あの男に未練があるの?』
呆れたようなアナの問いに、私はすぐさま答えた。
(違うわ。ただ、信じてきた未来が消えるのが、少しだけ怖いの)
『ふん。まあ、あいつは顔と地位だけは一級品だったからね』
(それなら、ヴィクトール殿下のほうが、ずっと……)
無意識のうちに漏れた言葉に、自分でも驚いた。
いつの間にか、私の心の中でヴィクトール殿下の存在は、単なる協力者以上の、大きな支えになっていたのだ。
『乗り換える気になった? それが正解よ。あんな無能な王太子、こちらから願い下げよ』
アナが満足げに笑う。
『ヴィクトール殿下は有能で、誠実で、何よりあなたを一人の人間として尊重している。王太子とは比べるのも失礼なくらいだわ』
(……ええ。その通りね)
私は頷いた。ヴィクトール殿下はいつも、私を対等なパートナーとして扱ってくれる。共に戦う仲間として、確かな信頼を寄せてくれる。
『だったら、さっさと準備を整えなさい。冤罪を被せられて破滅するんじゃない。対等な立場での「契約解消」として進めるのよ。私の知る悲劇の未来とは、もう違うのだから』
(そうね。泣き寝入りなんて、絶対にしないわ)
私は膝の上で、強く拳を握りしめた。
『その意気よ。ふんだくれるだけ、ふんだくってやりましょう。かつての未来では、すべてを奪われた。でも今回は、私たちが奪い返す番よ』
アナの声に、熱い力がこもる。
(ええ。今度こそ、幸せを掴んでみせる)
婚約破棄は、もはや絶望の終着点ではない。
それは、エスターク家の名誉を守り、私自身の本当の未来を手に入れるための出発点なのだ。
◇
翌日、私は父の執務室の重厚な扉を叩いた。
中から「入れ」という短く低い声が響く。
入室すると、父は山積みの書類を前にペンを動かしていた。顔を上げたその眼光は、鋭く私を捉える。
「リリアナか。どうした、改まって」
「お父様。重要なお話がございます」
私は父の正面に座り、姿勢を正した。肺いっぱいに空気を溜め、決意を言葉に乗せる。
「王太子殿下との婚約破棄が、現実のものになろうとしています」
父の表情がわずかに動いた。けれど、狼狽する様子はない。
百戦錬磨の当主として、すでに風向きを察していたのだろう。
「承知している」
父が静かに、重みのある声で応じた。
「最近の殿下の振る舞いは聞き及んでいる。遅かれ早かれ、この日は来ると覚悟していた」
「……はい。ヴィクトール殿下からの情報によれば、ダミアン様が婚約破棄を進言し、殿下もそれを真剣に検討されているとのことです」
「そうか」
父は腕を組み、深く沈思黙考に入った。
しばしの沈黙の後、父は力強く口を開いた。
「婚約解消の条件は、我がエスターク家に一分の不利も出ぬよう、私が陣頭指揮を執って交渉する。世間へは、円満な合意による解消と周知させる」
「お父様……」
「向こうから破棄を申し出たのだ。これ幸いと、有利な立場を逆手に取ってやろう。お前の名誉も、我が家の財産も、すべて私が守り抜いてみせる」
父の断固とした言葉に、私は深い安堵を覚えた。
父は、私を、娘を信じてくれている。そして、一族の誇りを守るために戦ってくれる。
「ありがとうございます、お父様」
「……お前のこれまでの苦労は分かっている。お前の判断を、私は全面的に信頼する」
父の瞳に宿る信頼の光が、私の心に火を灯してくれた。
「ところで、だ」
父はふと、声を潜めて話題を変えた。
「セシリアなる娘が、ダミアンに『貴族制度改革』とやらを吹き込んでいる件だが」
「はい。先日ダミアン様を問い詰めた際、確かにその言葉を口にしていました」
「それが、どうにも解せんのだ」
父は深く眉間に皺を寄せた。
「国内の有力派閥や急進的な政治組織を徹底的に洗わせたが、『貴族制度改革』などという過激な思想を掲げる勢力はどこにも見当たらん。少なくとも、あの小娘と繋がりを持ちそうな組織は存在しないのだ」
「では、セシリアは一体どこからその考えを?」
「分からん。だが、ただの伯爵令嬢が独力で『国家の根幹を変える』など、あまりに荒唐無稽だ。背後に強力な支援者がいるか、あるいは――何か常人には計り知れぬ策があるのか」
父の冷静な分析は、私の抱いていた違和感と完全に一致していた。
セシリアの野心は、単なるシンデレラストーリーなどではない。その裏には、底の知れない「何か」が隠されている。
「引き続き、調査の手は緩めない。お前も些細なことでも気づけば報告しろ」
「はい、お父様」
「それと……」
父がさらに声を落とす。
「王妃陛下の動向も気になるが……。まあ、今はまずセシリアとダミアンの件が先決だ。陛下のことは、また後ほど策を練ろう」
アデライーデ王妃陛下。王太子の継母にして、第二王子ヴィクトール殿下の母。
私とヴィクトール殿下が急接近している現状を、陛下はどう見ておられるのだろうか。
一瞬、不穏な想像が脳裏をよぎったが、私はそれを振り払った。今は目の前の敵に集中すべきだ。
「承知いたしました」
私は深く一礼し、執務室を辞した。
廊下を歩きながら、私はこれからの道筋を整理する。
婚約破棄は、もう秒読み段階だ。王太子の心は奪われ、側近は婚約者に対する裏切りを唆している。
けれど、私には味方がいる。
守ってくれる父と兄。支えてくれるヴィクトール殿下。そして、誰よりも心強い、未来を知るアナ。
この婚約破棄を完璧に「勝利」として着地させ、新しい人生へと踏み出す。それが今の私に課せられた使命だ。
窓の外では、春の陽光が王都の街並みを黄金色に染め上げていた。
季節が変わるように、私の運命もまた、劇的に変わろうとしている。
私は胸の前で拳を握り、自分に言い聞かせた。
もう、迷いはない。
エスターク家の誇りを胸に、自らの足で新しい未来を切り拓く。
その熱い覚悟が、静かに、けれど激しく胸の中で燃え上がっていた。




