第14話
【大陸暦一二二六年三月初旬】
長い冬が終わり、王都にようやく春が訪れた。
王宮の庭園を散策していると、柔らかな春の陽射しが心地よく頬を撫でていく。梅の花がほころび始め、冬の間は雪に閉ざされていた花壇にも鮮やかな彩りが戻ってきた。本来なら心が浮き立つ季節のはずなのに、私の胸には重い石を抱えたような違和感が居座っていた。
中庭に差し掛かった時、遠くに見覚えのある二つの人影が目に入った。
王太子エドワードと、セシリア。
二人は花壇の前で立ち止まり、親密そうに言葉を交わしている。ふと、王太子が花を一輪摘み取って、セシリアに差し出した。
「セシリア、この花は君によく似合う」
殿下の声が、春の風に乗って届いてくる。それは優しくて、穏やかで、聞き惚れるほどに温かい声だった。
「まあ、殿下ったら。本当にお優しいのですね」
セシリアが愛らしく頬を染めて微笑む。その笑顔は春の日差しのように暖かそうで、王太子を見つめる瞳は幸せそうに細められている。
王太子は手ずから、セシリアの髪にその花を飾った。セシリアは嬉しそうに「ありがとうございます」と礼を言い、上目遣いに殿下を見上げた。
二人の間に流れる空気は、あまりにも自然で、優しさに満ちていて。
私は、その場に釘付けになった。
かつて、エドワード殿下が私に向けていた笑顔。婚約が決まった時、初めて二人きりで庭園を歩いた時、殿下が私の手を取って「君と一緒なら、未来が楽しみだ」と言ってくれた時の、あの輝くような笑顔。
それと全く同じものが、今、セシリアに向けられている。
胸が、きゅうっと締め付けられた。
『見たでしょ』
アナの声が、氷のように冷たく響く。
『もう王太子の心は、完全にセシリアに向いているわ』
(でも……殿下は、私の婚約者で……)
『婚約者? 形だけでしょ。心はもう、あの女のものよ』
私は遠くから、その光景をただ見つめることしかできなかった。春の光が二人を包み込み、まるで世界が彼らを祝福しているかのようだった。絵画のように美しい場面。
けれど、その美しさが、今の私には鋭い刃となって胸に突き刺さる。
「君といると心が安らぐよ」
王太子の囁きが聞こえた。
「私も、殿下とご一緒できて幸せですわ」
セシリアの甘い返答。
私はもう、それ以上聞いていられなくなり、静かにその場を離れた。足早に歩きながら、込み上げてくる胸の痛みを必死で押し殺す。
『婚約破棄の前兆よ』
アナが断言する。
(……分かっているわ)
私は唇を強く噛んだ。分かっている。父も、兄も、ヴィクトール殿下も、そう言っていた。婚約破棄はもはや避けられない。向こうから言い出させ、条件闘争で名誉を守る。それが最良の道だと、頭では理解している。
でも。
(エドワード殿下は、私の……私の婚約者なのに)
その思いが、どうしても消えない残り火のように、心のどこかで燻っていた。
◇
三月中旬。予定されていた昼食会が、当日になって延期された。
「殿下より、本日の昼食会は延期したいとのことです」
王宮からの使者が、申し訳なさそうに伝えてくる。
「理由は?」
「公務多忙とのことです」
公務多忙。最近、耳にタコができるほど聞く言葉だ。昨年の春頃までは、王太子は私との時間を何より優先してくれていた。「リリアナと話す時間が、政務の一番の息抜きになる」と微笑んでくれていたのに。それが今では、会わないための便利な口実として使われている。
(殿下、本当にお忙しいのかしら……)
その疑念への答えは、その日の午後に残酷な形で示された。
執務の帰り道、ふと庭園に目をやると、そこにはセシリアと連れ立って散策する王太子の姿があった。二人は楽しそうに笑い合い、時折顔を見合わせながら、ゆったりとした足取りで歩いている。
公務多忙、ではなかったのだ。
『ほら、見たでしょ』
アナの声に、隠しようのない皮肉が滲む。
『あなたとの約束を反故にしてまで、セシリアとの時間を優先している。これでもまだ、信じるつもり?』
(……)
何も言い返せなかった。反論する言葉など、もうどこにも残っていない。
数日後、ようやく開かれた昼食会。私は王太子と向かい合って座った。かつては話題が尽きることがなかったこの時間も、今は重苦しい沈黙が場を支配している。
「殿下、春の訪れですわね。庭園の花々も咲き始めて……」
「ああ」
勇気を出して話しかけても、殿下の返事は素っ気ない。
視線すら、私に向けられることはなかった。皿の上の料理に目を落としたまま、まるで私がそこに存在しないかのように振る舞う。
「梅の花が綺麗に咲いていましたわ。殿下もご覧になりましたか?」
「そうか」
会話が、一歩も先へ進まない。以前なら「梅の花が好みか? ぜひ一緒に見に行こう」「新しい品種を庭師に手配させようか」と、王太子のほうから楽しげに話を広げてくれたのに。今は何を言っても、冷たい壁に撥ね返されてしまう。
結局、食事が終わるまで、心が通い合うような会話は一度もなかった。
自室に戻った私は、そのままソファに崩れ落ちた。窓の外には春の陽光が降り注いでいるのに、私の心だけが冬に置き去りにされたまま凍えている。
『もう終わりね、この婚約は』
アナが冷静に、トドメを刺す。
(でも、私から誤解を解けば、まだ……)
『無駄よ。王太子の心はもう、あの女に捕らわれているわ。あなたがどれだけ努力しても、ダミアンがその端からすべて捻じ曲げて吹き込んでいくんだから』
(それでも、殿下は私の婚約者だわ)
『婚約者? その「婚約者」が、あなたを処刑台に送るのよ。忘れたの?』
アナの鋭い言葉が、胸の奥底を深く抉った。
◇
三月下旬、貴族会議が開かれた。
国王陛下の体調が思わしくないため、最近は王太子エドワードが政務を代行する機会が増えている。今日の会議も、王太子が議長を務めていた。
議題は、王都の治安強化について。ここ数ヶ月、王都西区で盗賊団による被害が深刻化しており、民衆の不安は限界に達していた。
「殿下、西区での盗賊被害は看過できぬ段階にあります。警備隊の早急な増員と、予算の拡充を……」
内務担当の老練な貴族が、切実な表情で進言する。具体的な被害データを示し、対策を求めていた。しかし、王太子は興味なさげにひらひらと手を振った。
「警備の甘い小規模な商店が狙われたという話だろう。そんな些末なことより、王都の美化こそが急務だ。新しい噴水広場の建設を最優先すべきではないか」
会議室が、一瞬で水を打ったように静まり返った。
盗賊被害を「些末なこと」と切り捨て、噴水広場を優先すると主張する王太子。並み居る貴族たちが、一様に呆れと困惑の表情を浮かべるのが手に取るように分かった。
「しかし殿下、民衆の安全こそが第一では……」
「民衆が真に求めているのは、誇りを持てる美しい王都だよ」
王太子はどこか得意げな表情を浮かべて続けた。
「王都を美しく整えることで、民衆の心は豊かになる。そうなれば犯罪など自然と減るはずだ。美しいものに触れれば人の心は清らかになる。だからこそ、まずは噴水広場だ」
理想論としては美しいかもしれない。だが、今この瞬間も恐怖に怯える民衆を無視してよい理屈にはならない。貴族たちが顔を見合わせ、小声で囁き合う声が聞こえてくる。
「優先順位が……」
「民衆の安全より美観だと仰るのか」
「あまりにも浮世離れした発想だ。王国の将来が危ぶまれるな」
私はヴィクトール殿下と密かに視線を交わした。殿下もまた、苦々しげに眉をひそめていた。
会議が終わった後も、廊下には貴族たちの不安な声が満ちていた。
「王太子殿下の判断能力、果たして大丈夫なのか……」
「理想に目が眩み、現実を見ておられない」
「あの方に国を任せるのは、あまりにも危険だ」
『失政のレベルが予想以上ね』
アナが冷酷に呟く。
『民衆の安全より見栄えを優先するなんて、為政者としては失格よ。しかも、自分の判断が唯一無二の正解だと信じ込んでいる始末……。救いようがないわね』
(でも……本当は、殿下は優しい方なのよ。民衆の幸せを願う気持ちに嘘はないはずだわ)
『優しい? あれが?』
アナが嘲笑う。
『ただの現実逃避よ。難しい問題から目を逸らし、自分にとって都合の良い「綺麗なこと」だけをやろうとしているだけ。それを「優しさ」と呼ぶなんて、リリィ、あなたまでおめでたい頭になってどうするのよ』
私は何も言い返せなかった。事実、今の王太子の判断は、国を預かる身として致命的に間違っているのだから。
◇
三月下旬のある午後、私は自室で一人、窓の外を眺めていた。
またしても昼食会は中止になった。理由は同じ「公務多忙」。でも、真実は分かっている。王太子はもう、私との時間を苦痛に感じているのだ。
部屋に差し込む春の光が明るければ明るいほど、私の心の影は色濃く際立っていく。
婚約破棄は避けられない。それはもう、決定事項なのだ。父も、兄も、ヴィクトール殿下も、その日に向けて着々と準備を進めている。不当な破棄に対する条件闘争。エスターク公爵家の名誉を守るための戦い。
頭では、理解できているはずだった。
けれど、心がどうしても追いつかない。
(もし私から、誠心誠意説明して誤解を解けば……まだ、やり直せるかもしれない)
そんな甘い幻想が、消えずに残っていた。エドワード殿下の心が変わったのは、すべてダミアンの讒言のせいだ。私が真実を伝えれば、きっと以前のように……。
『無駄よ』
アナの声が、私の甘い考えを容赦なく切り裂く。
『もう王太子の心は、あなたにはない。あなたが何を言おうと、ダミアンがすべて毒に塗り替えて届けるわ。それに……』
アナは一呼吸おいて、核心を突いた。
『あなた、まだあの男に未練があるの?』
(そうじゃない。ただ、幼い頃から一緒にいた人が、こんなにも変わってしまったことが……)
『理解できない? 悲しい?』
私は答えられなかった。悲しいのか、それとも、信じてきた未来を失うのが怖いだけなのか。
エドワード殿下は、私の運命だった。王妃になり、彼を支え、この国を守る。それが私の人生のすべてだと信じて疑わなかった。
その確かな未来が、今、砂の城のように崩れ去ろうとしている。
『まあ、せいぜい悩みなさい。どうせ向こうから破棄してくるんだから。その時、取り乱して泣き言を言うのだけはやめてよね』
(……分かっているわ)
私は立ち上がり、執務机に向かった。
父が用意してくれた資料――婚約破棄における法的根拠、過去の事例、請求すべき権利のリスト。それらを一行ずつ目で追いながら、私は自分に言い聞かせた。
最良の形で破棄を迎え、私自身の、そしてエスターク家の未来を守る。それしか、生き残る道はないのだ。
窓の外では春の陽光が王都を照らし、新しい季節を謳歌している。
もう、迷ってはいけない。前を向くしかないのだ。
けれど、心の奥底で、掠れた小さな声がまだ響いていた。
(殿下……)
私はその声を、意識の底へと無理やり沈めた。
◇
数日後、マリアが緊迫した様子で報告を持ってきた。
「お嬢様、重要な情報です」
「何かしら?」
マリアは周囲を気にしながら、声を潜めた。
「ダミアン様とセシリア様が、今夜、王宮の離れにある応接室で密会する予定です」
心臓が、大きく跳ねた。
「今夜なの?」
「はい。セシリア様が直接指示を出すのを聞き届けました。『いつもの場所で、今夜九時に』と」
『チャンスよ』
アナの声が、狩人のように鋭く響く。
『密会現場を押さえて、会話を暴くの。これ以上ない証拠になるわ』
(でも、どうやって? 見つかったら……)
『まずはヴィクトール殿下に報告。彼を巻き込むのよ。策を練りましょう』
私はマリアに向けて力強く頷いた。
「分かったわ、マリア。ありがとう。引き続き、悟られないよう慎重にお願いね」
「はい、お嬢様」
マリアが退室した後、私はすぐにヴィクトール殿下へ緊急の連絡を入れた。すぐに密談の場が設けられた。
◇
夕暮れ時。王宮の奥、人目につかない書斎でヴィクトール殿下と向かい合った。
「ダミアンとセシリアが、今夜密会を?」
「はい。マリアが掴んだ、確かな情報ですわ」
ヴィクトール殿下は窓の外を見つめた。空は燃えるようなオレンジ色に染まり、夜の影が忍び寄っている。
「単に現場を見るだけでは足りない。会話の中身を聞き取れるか?」
「二人が使う応接室は狭く、室内に隠れる場所はありません。ですが、隣の続き部屋との扉をわずかに開けておけば……」
「危険だ。もし見つかれば、奴らがどんな暴挙に出るか分からん」
「それでも、これは千載一遇の好機です。ダミアン様とセシリア様が共謀している決定的証拠を掴めるかもしれません」
ヴィクトール殿下はしばし黙考し、決然と頷いた。
「分かった。ただし、私も同行する」
「殿下が?」
「ああ。確かな証人が必要だ。それに、万が一の時にリリアナ殿を危険に晒すわけにはいかない」
殿下の青灰色の瞳には、私を守るという強い意志が宿っていた。
「今夜九時。応接室の付近で合流しよう。マリアにも手引きを頼んでくれ」
「はい」
私は深く息を吐き出した。今夜、すべてが大きく動き出す。
王太子の心は、もう戻らない。それは受け入れた。けれど、私には共に戦う道連れがいる。ヴィクトール殿下、父、兄、そしてマリア。
(……さようなら、エドワード殿下)
心の中で、一度だけ過去の愛に別れを告げた。
『さあ、リリィ。次はダミアンの仮面を剥ぎ取るわよ』
アナの声が、決意を促すように響く。
(ええ。今夜、決着をつけるわ)
窓の外、太陽が完全に沈み、深い闇が降りてきた。
春。それは新しい始まりの季節。
王太子との絆は潰え、婚約破棄の足音はすぐそこまで迫っている。
けれど、それは絶望の始まりではない。私たちが勝利するための、反撃の幕開けなのだ。
ダミアンとセシリアの密会。その闇の会合を、今夜、白日の下に晒してみせる。
私は拳を握りしめた。
もう、後戻りはしない。




