第12話
【大陸暦一二二五年十一月下旬】
兄エリオットが王都へ帰還してから、およそ三週間。
秋の終わりを告げる乾いた風は冬の気配を色濃く帯び、王都の街路樹はすっかりその葉を落として寒空に枝を伸ばしていた。
この数週間、私はマリアを通じてセシリアの動向を密かに監視し続けていた。その結果、一つの確信を得ている。
次の標的は、間違いなく側近の一人――ダミアン・クロウだ。
そして今日、私は王宮にて第二王子ヴィクトール殿下と密会する約束を取り付けていた。
『緊張してる?』
馬車の揺れに身を任せていると、アナの声が鼓膜の奥で微かに笑った。
(ええ、少しだけ……。今日はこれからの運命を左右する重要な日だもの)
私は深く息を吸い込み、膝の上で指を組んだ。
今まではあくまで「偶然の助け」を頂いただけの関係だった。だが今日、私はヴィクトール殿下に正式な協力を要請する。彼を、共に戦う「仲間」として招き入れるのだ。
『釘を刺しておくけれど、第二王子は間違いなくあなたを警戒するわ。異母兄の婚約者が、弟である自分に個人的に近づく。普通なら、王位継承に絡む政治的思惑や、ハニートラップの類を疑うのが筋だもの』
「分かっているわ。でも、感情論ではなく証拠を提示すれば、あの合理的な方なら納得していただけるはずよ」
『ええ。その「証拠」が、あの王子の理性をどこまで揺さぶれるか……見ものね』
馬車が王宮の重厚な門をくぐった。侍従に案内され、私は小規模な謁見の間へと向かう。今日は大規模な社交の場ではなく、選ばれた数名のみが集う小茶会という名目の集まりだった。
室内には既に数人の貴族が集い、談笑の声を響かせている。
そこへ――扉の向こうから、一人の男性が静かに入室してきた。
第二王子、ヴィクトール・ゼフィール殿下。
黒髪を端正に整え、鋭い青灰色の瞳が周囲を冷静に射抜く。兄である王太子のどこか浮ついた甘い雰囲気とは対照的に、彼は抜き身の刀身のような、研ぎ澄まされた威圧感を纏っていた。
ヴィクトール殿下は私に気づくと、表情を崩さぬまま、微かに顎を引いて応じた。私はスカートの裾を持ち上げ、完璧な礼法で膝を折る。
「ヴィクトール殿下、本日はお招きいただき、心より光栄に存じます」
「リリアナ殿。ようこそ」
低く、地響きのように落ち着いた声。無駄な修辞を削ぎ落としたその一言が、彼の性格を象徴していた。
茶会が始まり、室内が和やかな空気に包まれる。私は機を見計らい、周囲の貴族との会話が一段落したタイミングで殿下に歩み寄った。
「殿下、少々お耳に入れたいことがございます。……人目のない場所で、お時間を頂けますでしょうか」
ヴィクトール殿下は一瞬だけ眉を動かし、私の瞳の奥にある「覚悟」を値踏みするように見つめると、短く頷いた。
「承知した。別室へ案内させよう」
◇
案内されたのは、王宮の奥まった場所にある、華美な装飾を排した実務的な応接室だった。
扉が閉められ、室内には壁際に二人の護衛が控える。第三者に会話を漏らさないための、最小限の体裁だ。
ヴィクトール殿下は窓際に立ち、逆光の中で私と向き合った。その瞳には、隠しようのない警戒の火が灯っている。
「単刀直入に聞こう。兄上の婚約者が、私に何の用だ? 政治的な駆け引きなら、他を当たることだ」
予想していたよりも遥かに直截的な拒絶。アナの懸念通り、彼は私を「兄の陣営からの探り」か「自分を抱き込もうとする公爵家の差し金」と疑っているようだ。
『落ち着きなさい、リリィ。まずは先日の貸しに対する謝辞から入り、事務的に事実を積み上げるのよ』
私は小さく頷き、一歩前へ出た。
「殿下、まずは以前、社交界での濡れ衣事件において私を救ってくださった件、改めて深く感謝申し上げます」
「あれは事実を正しただけだ。礼を言われる筋合いはない」
殿下は事務的に答える。付け入る隙を与えない、鉄壁の態度だ。
「……あれ以降、私は独自に調査を進めてまいりました」
私は静かに、しかし確かな声で続けた。
「その結果、私への陥れ、そして先日の下剤入りワイン事件。そのすべてに、セシリア・ローゼンタールという令嬢が深く関与しているという確信に至りました」
ヴィクトール殿下の瞳に、かすかな変化が生じた。
「……セシリア嬢か」
その呟きには、単なる令嬢の一人として片付けるには、あまりに重い含みがあった。
「殿下も何か、お気づきのことが?」
「現時点では、兄上に取り入りたい野心的な令嬢の一人だ、としか見ていない。だが……」
殿下は言葉を切り、私を鋭く射抜いた。
「もし彼女が他派閥の道具だとしたら話は変わる。王家とエスターク公爵家の結びつきが弱まれば、この国の均衡は崩れ、国政は不安定化する。私はそれを懸念している」
『なるほど。この男、自分の利益より国全体の安定を優先しているわね。王太子とは器が違うわ』
アナが小さく感心したように言う。私はその言葉を背に、用意していた資料をテーブルの上に広げた。
「殿下のご懸念は尤もです。ですが、私の調査では、セシリア様は特定の派閥の傀儡などではありません」
「何だと?」
「彼女は、セシリア・ローゼンタールという一個人の意思で、これらすべての謀略を主導しています」
私はマリアから得た情報の数々を提示した。
専属侍女マリアが弟の治療費を盾に買収されていたこと。日記を盗み見られ、私の交友関係や弱みがセシリアに筒抜けであったこと。金銭の授受の記録、そしてマリアの自白書。
「マリアは現在、私の協力者としてセシリアに偽の情報を流す二重スパイの役割を担っています」
ヴィクトール殿下は黙って資料を手に取り、一枚一枚、穴が開くほど精査し始めた。
「……侍女を買収し、個人の情報を執拗に収集していたというのか。公爵家の機密ではなく、あくまでリリアナ殿個人の情報を」
「はい。その私的な情報を使って、私が令嬢を侮辱したという濡れ衣事件を仕組んだのです。マリアの証言によれば、セシリア様は事件の直前、私の交友関係について、特に私が批判的な意見を持っている貴族は誰か、と詳しく尋ねていたそうです」
続けて、私はワイン事件の「看病計画」についても詳細を述べた。
フェリックスの恋心を利用し、王太子に醜態を晒させ、そこを彼女が献身的に看病することで王太子の心を射止める――という卑劣なシナリオを。
すべてを話し終える頃、ヴィクトール殿下の表情はかつてないほど険しくなっていた。
「……フェリックスの支離滅裂な妄想だとも思っていたのだが。セシリアにとっては兄上の体調異変すらも、己の寵愛を得るための舞台装置に過ぎなかったというのか」
「はい。そして今、彼女は側近のダミアン・グレイ様に急接近しています」
ヴィクトール殿下は腕を組み、深く考え込んだ。
部屋を支配するのは、張り詰めた沈黙。やがて殿下は顔を上げ、私を真っ直ぐに見つめた。
「率直に問う。なぜ、婚約者である兄上ではなく、この私に協力を求める? 兄上にこれを報告すれば、婚約者として守ってもらえるはずだろう」
避けては通れない、致命的な問い。
『正直に言いなさい、リリィ。ここで取り繕えば、すべてが水の泡よ』
私は視線を逸らさず、心の奥底にある「絶望」を静かな怒りに変えて答えた。
「王太子殿下では、この問題に対処できないと判断いたしました」
「…………」
「殿下はセシリア様に心酔し、彼女の言葉を真実として受け止めておいでです。もはや私の言葉は、嫉妬に狂った女の戯言としてしか届きません」
ヴィクトール殿下の瞳に、一瞬だけ同情に似た色が浮かんだ。
「兄上の執着ぶりは、私も聞き及んでいる。あなたの立場は、想像以上に過酷なようだ」
(そうよ。未来ではその執着の結果として、アナが処刑されたのだから)
私は改めて殿下に頭を下げた。
「これは私情ではありません。殿下が仰った通り、国政の問題です。王太子殿下が特定の、それもこのような陰湿な手段を用いる女性に操られれば、この国は内側から腐敗します。それを防げるのは、殿下しかいらっしゃいません」
殿下は再び窓の外を見た。その視線の先には、病に伏せる国王の住まう離宮があるのだろう。
「父上の病をいいことに、兄上は独断で政務を進めようとしている。……認めたくはないが、今の兄上の統治能力には大きな不安がある。そこにつけ込む者がいるというのなら、捨て置くわけにはいかない」
ヴィクトール殿下はゆっくりと私に向き直り、右手を差し出した。
「承知した。協力しよう、リリアナ殿。あなたの提示した情報は、私にとっても非常に価値がある」
「ありがとうございます……殿下」
私は安堵と共に、その手を取った。力強く、そして冷静な熱を持った手だった。
「ただし」と、殿下が言葉を添える。
「表向きの接触は最小限に留める。あなたは兄上の婚約者だ。私たちが親しくしていれば、あらぬ噂が立ち、セシリアにつけ入る隙を与えることになる」
「重々承知しております。連絡方法については殿下にお任せします」
「次はダミアン、だったな。奴はフェリックスのように単純ではない。慎重に動くぞ」
『案外、いいパートナーになりそうね』
アナが、今日初めてヴィクトールを認めるような声を出した。
◇
王宮を後にした馬車の中で、私はようやく背もたれに深く体を預けた。
『大戦果ね。これで後ろ盾は、父、兄、そして第二王子の三人。外堀は埋まりつつあるわ』
「ええ。でも、まだセシリア自身の罪を暴く決定打がないことに変わりはないわ」
『分かってる。次はダミアンを利用するのよ。彼がどれほどセシリアを想っていようと、その歪んだ感情を私たちが逆手に取るの』
私は窓の外、冬枯れの景色を見つめた。
王太子殿下は、きっと最後まで私を信じてはくださらないだろう。
だが、それで構わない。
私には、戦うための剣があり、守ってくれる盾がある。そして、隣にはもう一人の私がいる。
ヴィクトール殿下という強力な「王家の眼」を得た今、セシリアの陰謀は、もはや影の中に隠れ続けることはできない。
焦らなくてもいい。けれど、必ずすべてに決着をつけてみせる。
私は冷たさを増す風を感じながら、その決意を深く胸に刻み込んだ。




