第9話
パーティーが終わり、貴族たちが余韻を引きずりながら次々と帰路につく中、私は父と第二王子ヴィクトール殿下に密かに接触した。
「お父様、ヴィクトール殿下。少々お時間をいただけますか。重大な事件をご報告したいのです」
私の尋常ではない表情を見た父は、即座に重々しく頷いた。ヴィクトール殿下もまた、その切れ長の瞳に鋭い光を宿して私を見つめる。
『慎重にね、リリィ。証拠を完璧に突きつけないと、逆に私たちが窮地に立たされるわ』
(分かっているわ、アナ。……見ていて)
「エドワード殿下が召し上がる予定だったワインに、フェリックス様が何かを混入するのを、私はこの目で見ました」
私の言葉に、父の表情が一変し、険しいものとなる。ヴィクトール殿下は即座に状況を察し、低い声で判断を下した。
「兄上とフェリックス、それにダミアンも呼びなさい。――今すぐにだ」
◇
静まり返った王宮の別室に集められたのは、王太子、フェリックス、ダミアン、父、ヴィクトール殿下、そして私の六人だった。
フェリックスは何が起きたのか分からないといった様子で、人懐っこい笑顔のまま、きょろきょろと周囲を見回している。
「リリアナ、説明してくれ。こんな夜更けに、一体何事だ」
王太子の声は氷のように冷たかった。私に向けられた青い瞳には、婚約者への信頼ではなく、明らかな疑念と不快感が滲んでいる。
「はい、殿下」
私は震える手を押さえ、テーブルの上に一つのデキャンタを置いた。クリスタルの中で、深紅の液体が不吉に揺れる。
「これは本日、殿下のために用意されていたワインです。ですが……フェリックス様がこのワインに何かを混入するのを、私は目撃いたしました」
「は? ……あはは、何を仰っているんですか、リリアナ様」
フェリックスが驚いたように目を見開いた。その笑顔は相変わらず無邪気で、毒気がない。
「僕がワインに何かを? そんな恐ろしいこと、するわけないじゃないですか。見間違いですよ」
「見間違いではありませんわ。あなたが懐から小瓶を取り出し、液体を数滴、このデキャンタに垂らすのを確かに見ました」
「小瓶? そんなもの、持っていませんよ」
フェリックスは潔白を証明するかのように、両手を広げて見せた。確かにその手には、何も握られていない。
『甘いわね。こいつが小瓶を捨てたり隠したりする隙はなかったはずよ。リリィ、身体検査を提案しなさい!』
「ヴィクトール殿下、フェリックス様の身体検査をお願いできますか。まだどこかに小瓶を隠し持っているはずです」
「待ってください! 僕は何も――!」
フェリックスの声が、僅かに上ずった。ヴィクトール殿下は冷徹な合図を送り、衛兵にフェリックスを押さえさせる。
「失礼するぞ、フェリックス。潔白ならば何も問題はないはずだ」
衛兵が抵抗するフェリックスの上着に手を伸ばす。内ポケットの奥を弄ると、カチリと小さな音がした。
取り出されたのは、親指ほどの小さなガラス瓶だった。
「これは……!」
王太子の顔色が、一瞬にして変わる。同時に、フェリックスの顔からすうっと血の気が引いていった。
「ち、違う! これは、これはその……」
「これは何だ、フェリックス」
ヴィクトール殿下が静かに問うた。感情を排したその声には、逃げ場を塞ぐような圧倒的な威圧感があった。
「僕の……僕の胃腸薬です! 最近、どうにもお腹の調子が優れなくて、持ち歩いていたんです!」
「胃腸薬、か」
それまで沈黙を守っていたダミアンが、初めて口を開いた。鋭い灰色の瞳が、射抜くようにフェリックスを捉える。
「ならば、今ここで飲んでみたまえ。普段から服用している常備薬なら、何ら問題はないだろう?」
「え……それは、その……」
フェリックスが言葉に詰まる。唇が小刻みに震え、額には大粒の汗が浮かんでいた。
『追い詰められてきたわね。いい気味だわ』
(でも、まだ確証が必要よ。言い逃れさせないための……)
父が静かに、しかし断固とした口調で告げた。
「このワインと、小瓶の中身を直ちに調査させていただきます。もし同じ成分が検出されれば、リリアナの証言が真実であったということになる」
「お、お待ちください! 僕は本当に何も……!」
「フェリックス」
王太子殿下の声が、地を這うように低く響いた。
「お前が潔白なら、調査結果を待てばいい。だが……もしリリアナの言う通りなら、お前は主であるこの俺を毒殺しようとしたことになるのだぞ」
「毒殺だなんて! そんな滅相もない!」
フェリックスの声が裏返り、絶叫に近い響きを帯びる。その動揺ぶりは、もはや自白しているも同然だった。
「結果が出るまで、フェリックスを謹慎とする。部屋から出ることは一切禁じる」
ヴィクトール殿下の冷徹な命令により、フェリックスは衛兵に連行されていった。去り際、彼の背中が小刻みに、情けなく震えているのが見えた。
部屋に残された私たちの間に、胃の底が冷えるような重苦しい沈黙が流れる。
「リリアナ」
王太子が私を射抜くように見た。その瞳には、まだ拭いきれない疑念が色濃く残っている。
「君の証言が正しいことを祈るよ。……もし違っていたら、公爵令嬢といえど、無実の側近を陥れた罪に問われることになる」
(――っ!)
『大丈夫よ、リリィ。証拠はもう、私たちの手の中にあるわ』
(ええ。信じているわ、アナ)
◇
三日後、王宮の調査結果が下された。
ワインと、フェリックスが所持していた小瓶の中身。両方から、全く同一の成分が検出されたのだ。それは、極めて強力な下剤だった。
再び集められた別室で、フェリックスに先日のような余裕は微塵もなかった。
明るい茶色の髪は乱れ、目の下にはどす黒い隈ができている。
「フェリックス」
ヴィクトール殿下が、机に置かれた調査報告書を指先で叩いた。
「ワインと、お前が持っていた瓶から同じ成分の下剤が検出された。……これは、どういうことだ」
「そ、それは……きっと何かの間違いです! 僕は本当に、胃腸薬だと思い込んでいて……!」
フェリックスは、掠れた声で必死に弁解を繰り返す。
「間違い?」
父が初めて口を開いた。その声は氷の刃のように冷たく、圧倒的な威厳に満ちている。
「ならばなぜ、お前の小瓶とワインから、ピンポイントで同じ成分が検出されるのだ。偶然にしては、あまりにも出来すぎているとは思わないか」
「それは、その……」
フェリックス様が言葉に詰まり、視線を彷徨わせる。
「お前は本当に、兄上のワインに下剤を混入したのか」
ヴィクトール殿下が重ねて問うた。フェリックスは、力なく首を横に振る。
「違います! 僕は、そんな大それたつもりでは……!」
「では、何のつもりだったのだ!」
王太子が激昂し、椅子を蹴るようにして立ち上がった。その表情には、激しい怒りと深い失望が混ざり合っている。
「フェリックス。お前とは幼い頃からの付き合いだ。お前を側近に選んだのは、誰よりもお前を信頼していたからだぞ!」
「殿下……!」
「なぜだ! なぜ俺を裏切った!」
叫ぶような、しかし悲痛な問いかけ。その重みに耐えかねたように、フェリックスの肩が大きく震えた。
「僕は、殿下を裏切ったわけでは……ただ、ちょっと、お腹を下していただければと……」
「ちょっとだと?」
ダミアンが冷ややかに、突き放すように言った。
「殿下が腹を下して、それで何をするつもりだった。パーティーの最中に醜態を晒させて、笑い者にでもするつもりだったのか」
「違います! 僕はただ……!」
フェリックスが顔を上げた。その目には、大粒の涙が浮かんでいる。
「僕はただ、セシリア様に殿下を看病していただきたかっただけなんです!」
――部屋に、衝撃が走った。
ダミアンの眉が僅かに動き、父はより一層厳しい表情でフェリックス様を凝視する。
「セシリア……だと?」
王太子殿下が呆然とした声で繰り返した。フェリックスはその場に崩れ落ち、膝をついた。
「セシリア様はお優しい。殿下がお腹を下されたら、彼女ならきっと、夜通し献身的に看病なさる。そうすれば殿下は、セシリア様の真価に気づかれるはずだ……! 王太子妃に相応しいのは、リリアナ様ではなくセシリア様なのだと!」
『哀れね。本当に哀れだわ』
アナの声が、蔑むように響く。
『勝手にセシリアのためだと思い込んで、こんな短絡的なことをしでかすなんて。……いいように利用されていることにも気づかずに』
(本当に、セシリアは何も知らなかったのかしら?)
『分からないわ。でも、証拠がない以上、すべてフェリックスの独断ということになる。あの女は、そういう逃げ道を作るのが天才的なのよ』
「貴様……!」
王太子殿下の声が震えている。それは裏切られた怒りか、あるいは――。
「僕は、何も悪いことはしていません! ただ少しお腹を下していただくだけで、殿下は彼女の優しさに気づいて、そうすれば……!」
「そうすれば、何だ」
父が鋭い刃のような問いを投げた。
「そうすれば……セシリア様こそが王太子妃に相応しいと、殿下もお気づきになるかと……」
フェリックスの声は、最後には消え入るほど小さくなった。自分の言葉がいかに愚かで、破滅的なものだったかに、ようやく気づき始めたのだろう。
「セシリアを呼べ」
王太子の絞り出すような命令で、使用人が慌てて走り出した。
◇
一時間ほど後、セシリアが現れた。
淡い青のドレスは簡素なものだったが、プラチナブロンドの髪は丁寧に編み込まれている。
翠緑の瞳を不安げに揺らしながら、彼女は恐る恐る部屋に入ってきた。
「殿下、お呼びでしょうか……?」
視線が床に崩れ落ちたフェリックスに向けられた瞬間、セシリアは不思議そうに首を傾げた。
「フェリックス様? ……まあ、どうしてそんなに憔悴なさっているのですか?」
「セシリア。フェリックスが、俺のワインに下剤を混入したのだ」
王太子が、沈痛な面持ちで告げた。
「下剤? なぜ、そんなことを……?」
セシリアの瞳が大きく見開かれる。だが、その表情には微塵の曇りもなく、状況が全く理解できていないという純粋な困惑だけが浮かんでいた。
「それは……一体、どういうことなのでしょうか?」
「セシリア様!」
フェリックスが、縋るようにセシリアを見上げた。その目には、まだ彼女だけは味方でいてくれるという、愚かな希望が残っている。
「僕は、セシリア様のためにやったんです! 殿下がお身体を壊されたら、あなたが看病なさって、そうすれば殿下はあなたの優しさに気づかれる。王太子妃に望まれるはずだと信じて……!」
「……私のため?」
セシリアの声が、震えた。
ようやく事態を把握したかのように、彼女の顔から血の気が失せていく。
「まあ、そんな……」
瞬く間に、大粒の涙が彼女の瞳に溜まった。
「フェリックス様、なぜ、なぜそのようなことを……。私、そんなこと、一度も望んだことなどございません!」
涙がその白い頬を伝い、床に落ちる。セシリアは震える手でハンカチを取り出し、必死に涙を拭った。
「王太子妃? 私が……?」
フェリックス様の言葉を繰り返すと、彼女は信じられないと言わんばかりに絶望の表情で首を振った。
「そんな恐れ多いこと、考えたこともございませんわ。フェリックス様がそのような誤解を……。私、何か誤解を招くような、不適切なことを申し上げてしまったのでしょうか……っ」
自分を責めるように声を震わせる彼女の姿は、あまりにも痛ましく、そして「自然」だった。
涙に濡れた瞳、ドレスの裾を握りしめる細い指先、絶望に満ちた仕草。
それは、突然の悲劇に巻き込まれ、純粋な善意を歪められた悲劇の令嬢そのものだった。
『くっ……相変わらず完璧な演技ね。これじゃあ、誰も彼女を責められないわ』
(結局、セシリアが関与した証拠は……何一つ出ないのね)
「セシリア様! 僕は、ただあなたの幸せを願って……!」
「フェリックス様、お願いです。もうそのようなことは仰らないでください」
セシリアが、断腸の思いといった様子で首を振る。
「私は、ただ殿下のお役に立てればと思っているだけです。王太子妃だなんて……そんな……。リリアナ様こそが殿下の正当な婚約者でいらっしゃるのに……っ!」
その健気な言葉に、王太子の表情が目に見えて和らいだ。
「セシリア、お前は何も悪くない。フェリックスが勝手に思い込んだだけだ」
「殿下……」
セシリアが王太子を見上げる。その瞳には、まだ露が残っていた。
対照的に、私に向けられる王太子の視線は、依然として針のように冷たい。彼からすれば、私が側近を追い詰め、お気に入りのセシリアを泣かせた張本人に見えているのだろう。
『仕方ないわ。リリィ、今は耐えなさい。私たちがフェリックスを告発した以上、王太子にはあなたが悪女に見えているでしょうけれど』
父が静かに、場を収めるように言った。
「殿下、セシリア嬢に罪がないことは明白かと存じます。フェリックスが勝手に妄信し、暴走したのでしょう」
「そうだな、アルフレッド公」
王太子が頷いた。そして、冷酷な眼差しでフェリックスに向き直る。
「フェリックス・バーネット」
その声には、もはや慈悲の欠片もなかった。
「お前を王太子付き側近の座から即刻解任する。実家、バーネット男爵家での無期限の謹慎を命じる。二度と、俺の前にその面を見せるな」
「殿下……殿下! セシリア様は、セシリア様だけは何も悪くないんです! 僕が勝手に、僕が……!」
「黙れ」
王太子殿下の一喝で、フェリックスの叫びが途絶えた。
「そんなことは分かっている。ただ、お前の愚かな行為が、無垢なセシリアを深く傷つけた。その一点だけでも、お前の罪は万死に値する」
衛兵が、半ば引きずるようにしてフェリックスを連行していく。
陽光を反射していたはずの茶色の髪は艶を失い、いつも周囲を和ませていたあの笑顔は、もう二度と戻らないだろう。
「セシリア」
王太子が、この上なく優しい声でセシリアに歩み寄った。
「怖い思いをさせてすまなかった」
「いいえ、殿下……」
セシリアは涙を拭い、消え入るような声で答えた。その庇護欲をそそる姿に、王太子の表情がさらに緩む。
セシリアは何の罪にも問われないどころか、王太子からの揺るぎない同情と、特別な慈しみを手に入れたのだ。
証拠は何もない。フェリックスの独断という幕引きで、事件は終わった。
◇
事件の後、父が私の部屋を訪れた。
「リリアナ」
父は私の肩に、大きな手をそっと置いた。
「今回は、よく気づいたな。お前の証言がなければ、殿下は本当に、あのような異物を飲まされていたかもしれない」
「お父様……」
「だが、あまり無理をするな。お前は私の、たった一人の大切な娘だ。これ以上、危険なことに首を突っ込む必要はない」
父の声には、厳しい公爵としての面影はなく、娘を案じる温かな響きがあった。私は素直に頷いた。
「はい、お父様」
父は少し間を置いてから、窓の外に視線を投げ、厳しい表情で続けた。
「それから、セシリア嬢のことだが」
「……はい」
「以前、お前が彼女を疑った時、私は証拠がないと一蹴した。だが……」
父は、秋の夜風に揺れる庭園を見つめる。
「今回の件で、私も考えを改めた。……あの娘は、確かに殿下を、そして周囲の男たちを誑かす、極めて危険な女かもしれん」
(お父様……!)
「フェリックスが勝手に思い込んだだけかもしれん。しかし、あまりにもあの娘の周りでは、不可解なことが起こりすぎる。お前も気をつけろ、リリアナ」
「はい、お父様。肝に銘じます」
父は私の頭を優しく撫でた。
「お前は賢い娘だ。……きっと、うまくやれるだろう」
そう言い残して、父は部屋を後にした。
◇
深夜、私は自室の窓辺に立ち、銀色の月光を浴びていた。
「やった! 一人目、撃破したわ!」
誰もいない部屋で、私は小さく拳を握り、ガッツポーズを作った。
フェリックスは失脚し、王太子の健康は守られた。未来の惨劇へ続くルートを、一つ断ち切ったのだ。
『でも、本丸の首までは届かなかったわね。まだまだ序盤よ』
アナの声は、相変わらず冷静で厳しい。
「そんなこと、分かってるわ。でも、初めて勝ったのよ! 私たちが!」
『……そうね。リリィ、二人で掴んだ、最初の勝利だわ』
アナの声に、僅かな温もりが混じった。今夜、初めて私たちは本当に心を通わせ、勝利の美酒を(心の中で)分かち合ったのだ。
「次は、ダミアンよね?」
『ええ、次はあの男よ。フェリックスほど単純ではないわ』
窓の外では、満月が皓々と夜空を照らしている。
事件の後、王太子はますますセシリアに心を寄せていた。先ほど廊下ですれ違った際、殿下の視線は刺すように冷たく、まるで私こそが無実の側近を陥れた、蛇のような悪女であるかのような侮蔑を込めていた。
「セシリアは……やっぱり、王太子妃の座を狙っているのね」
『そうよ。あいつの目的は王太子妃、ひいては王妃の座に就くこと。そのために、邪魔なリリィを徹底的に蹴落とすつもりよ』
私は夜空を見上げた。王太子妃の座。彼女は私のすべてを奪うために、虎視眈々と牙を研いでいる。
『焦らないで、リリィ。一歩ずつ、着実に外堀を埋めていけばいい』
(ええ、アナ。私たちなら、きっと勝てる)
『そうね。今度こそ……絶対に』
アナの声に、重い決意が滲む。未来で冷たい処刑台に立った彼女の無念を。その絶望を、私が希望へと塗り替えるのだ。
窓の外、冷たい夜風が吹き抜け、枯れ葉が舞った。
フェリックスの失脚は、長く険しい戦いの、ほんの始まりに過ぎない。
次はダミアン。そして、真実の敵、セシリア。
その日まで、私たちは歩みを止めない。
運命を塗り替え、生き延び、そして最後に――必ず勝つために。




