第30話 part-b
[part-b]フィエリア
<フィリテ・リエラ>艦内にある長い廊下には、黒髪をした少女の姿があった。
通路の脇、やや窪んだエリアには5人がけのベンチが設置してある。歩き疲れたフィエリアは腰を落とすと、静かに手を組んで閉じた。
前かがみの姿勢になると、気分がさらに落ち込んでいくのが良く分かった。かといって背中を反って我が身を大きく見せるような、そういう気分でも無い。足下に視線をやると、やや右方向に影が立った。
漂ってきたのは珈琲の香りで、それが誰であるかは一瞬で理解できた。
白衣の女性はフィエリアの横へ座ると、
「どう? ウチの新商品なんだけど。豆の割合を変えてみたのよ」
「……前のよりは良い香りがしますね」
一口だけ啜ってみる。彼女が以前から利用している豆に特有な甘みと、深い苦味が同時に広がった。
「味は微妙です。もう少し甘い方が私は好きでした」
「食堂で売り出そうと思ってたんだけど、これじゃ駄目ね。商品開発部は何やってんのかしら」
「材料費はウチの予算から出してますよね? 横領ですよ、それ」
「連合の予算審査ってザルだから。といっても、ウチに充てられている予算は限られてるけどね。こんなデカい艦と、最新鋭機と、たった3人の操縦主だけ与えられて、いったい何をしろっていうのかしら。戦争でも止めろっていうのかしらね」
笑っちゃうわ、とだけ言うとキョウノミヤは軽く鼻を鳴らした。
戦争を止める、か――とフィエリアは漠然と思案する。そんなことが簡単に出来るならきっと誰も苦労しないだろう。どの機体よりも強いAOFを作り、誰よりも強い操縦主にそれを与え、ひたすら敵を制圧すれば戦争は終わる。それだけ考えれば平和なんて容易に実現できそうだが、現実はそんなに甘くない。敵にも強力なAOFがあるし、そして優秀なパイロットはレナ・アーウィンだけでは無いのだから。
否、とフィエリアは思考を一転した。
我々は本当に戦争を終わらせるつもりがあるのか、と。
我々は戦争を終わりに導くことが出来るのか、と。
そもそも終わりとは何か、と。この世界で起こっている戦争は本物なのか、と。
ただ目の前にあるギスギスした世界が嫌で、その責任を『戦争』という漠然とした概念に押し付けて、闇雲に力を振っている人間ばかりではないのか。本当は戦争なんてどうでも良くて、止める気など全く無い人間が正義を盾にして、泥臭い争いを繰り広げているのではないのか。
そう思うと、フィエリアの気分はさらに落ち込んだ。
もしかすると自分も、ただ闇雲に力を振り回しているだけの人間の一人なのかも知れない。
「兄が私を避けている理由が……なんとなく理解できた気がします」
「聴かせてもらおうじゃない」
「私には、兄と比べて覚悟や理念が足りないからだと思います。崇高な理念も無く、戦火に身を投じる覚悟も無く……ですから兄から見れば、私は稚拙な覚悟で戦っているように映るのでしょう。だから、兄は私を遠ざけているのだと思います」
「本当にそう思っているのかしらね。重要なのは根拠よ」
「私は間違っていますか?」
逆に質問すると、キョウノミヤは自分の爪を見ながらうーんと唸った。
「35点ってところかしらね。あの人が採点者なら20点も下らないかも」
「え?」
「貴女は根本的なところを誤解している。つまり自分に自信が無いからそうなる――もっと自分を外に押し出していく生き方をしないと、将来厳しいかもね。自己投企って言葉知ってる?」
「自己……なんです? それ」
「自己投企よ、ジャン・ポール・サルトルの言葉。簡単に言うと、生きていく上で必要なのは自分自身をまるでサイコロみたいに投げられるか、ってことね。不確定な未来に向かって自分を投じない限り何も進まない。話は逸れたけど、あなたのお兄さんは決して貴女のことを嫌いになったワケでは無いと思うわ。何度か一緒に仕事をしたことがあるけれど、個人の感情で動く人ではないもの。あの人は大人よ」
キョウノミヤは静かな声で言うと、一息だけ置いて言葉を続けた。
「戦争を始めたのは大人の勝手な都合――そんな不始末を片づけなきゃならないのが、戦争とは全く無縁な人たちだっていう事実が我慢できないのよ、彼。これだけ言ってあげたんだから、あとは自分で考えなさい」
それと――とキョウノミヤは立ち上がって、白衣のポケットから7インチの端末を取り出した。
見れば、外で繰り広げられる戦況をリアルタイムで見ることができる。衛星やブリッジに設置された高感度カメラが映す光景は、フィエリアが予想していたよりも無残なものだった。
巨大な橋の上には、高速でしのぎを削る白と黒の2機がある。
「一番良いのは、お兄さんに直接訊いてみることね。そろそろウチの艦も前に出るから、あなたは自分の意思に従って、自身を投げ込みなさい。私はそうするわ。サイコロみたいにね」
いいわね、と残して、キョウノミヤは廊下の向こうへ消えて行った。
手元に置かれたコーヒーが冷めるまで、まだ時間はありそうだった。




