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黎撃のインフィニティ  作者: いーちゃん
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第28話 part-c

[part-c]フィエリア


 夜、フィエリアの姿は再び重巡洋艦<ホワイトヘッド>にあった。

 本来なら立ち入りが禁止される時間だったし、ほとんどの兵士たちは明日の戦闘に備えているという理由もあって、警備は手ぬるいものになっていた。

 誰もいない廊下を進むと、奥には珍しい様式の部屋がある。

 入り口は2枚の障子で区切られており、音を立てずに開けばそこは畳の匂いがした。

 道場だ。

 30畳ほどのスペースには全て畳が敷き詰められており、簡素な造りで出来た道場の最奥――壁には虎と鷹を描いた水墨画の掛け軸がある。だが、この部屋にあるのはそれだけだ。他には一切の装飾も無く、弱い灯りが幾つかぶら下がっているのみである。

 掛け軸の前には、道着をまとう男が絵と向き合うようにして座っていた。こちらからは背中が見える。

 フィエリアは入り口でわずかに逡巡したあと、無音のまま畳の上へ足を踏み入れた。

 足を組んで座る男は、静かに眼を閉じて集中を高めているようだった。彼を邪魔しないよう、フォエリアは無言のまま男の後ろ――ちょうど5歩の距離を置いて静座した。

「フィエリアか」不意に、雲がかかったみたく低い声が響いて、フィエリアは思わず身を固くした。

「はい」

「このような場所があるとは教えていなかったはずだが」

「すみません。ですが、何となく」

「その答え方は、私の訊ねた問いに対する理由になると思うか」

「……いえ、なりません」

 フィエリアが真っ先に否定すると、エックハルトは何も言わなくなった。

 兄は昔から、中途半端な答え方が嫌いだった。返答は必ず「はい」か「いいえ」もしくは問いに対するものでなければならず、少しでも曖昧な答えを返すと、無言で相手を睨むのだった。特に幼少のフィエリアに対しては顕著だったし、彼女にとってみれば、彼の生む無言は苦痛そのものであった。まるで「目の前からいなくなれ」と言われたような気分になってしまうのだ。

「貴様は以前と変わらんな。何の進歩も無い。何の進化も無い。エルダの血が持つ誇りは、貴様からは何も感じられん」

「……はい」

 思わず膝を握りしめると、爪が自分の肌へ食い込むのが良く分かった。赤くなった三日月のような爪痕を見て、フィエリアは忸怩たる思いになる。

 エルダ家というのは、かつてドイツでも名のある血統だった――いわゆる中世の頃は君主に使えるための騎士として名を馳せ、それ以来、フィエリアの家系では武道や騎士道に優れた人間が良く生まれ、学問にも秀でた優秀な人間を数多く輩出した。

 しかしフィエリアの父は、若い頃こそ特別に優れていたものの、30歳を過ぎてから一変した人生を送ってしまった。

 高額の賭博にどっぷり浸かり、酒を浴びるようにたいらげ、女に手を出して周囲の人間関係までメチャクチャに破壊し、妻を失い、挙句の果てには別の女と子を為し、そして1人で行方を眩ませたのだ。そんな中、後妻である母だけはフィエリアとエックハルトを大切に育て上げてくれた。兄もそのことには感謝しているのだろうし、エルダの血を汚すまいとしているのも、全ては母を誇りに思っているのが理由であろう。

 畳で出来た広いスペースに、音のない無言が満ちた。

 何を語れば良いか、とフィエリアは思案した。否、むしろ自分は口を開いても良いものだろうかと思案した。

「剣の構えは憶えているか」

「は……? いえ、はい。憶えております。忘れるべくもありません」

「防具と面は入り口横の倉庫にある」

 言われた通りの場所へ向かうと、そこには女性用の小さめな防具と面、手ぬぐいが丁寧にたたまれた状態で置いてあった。

 身に付けるのは久々だ、とフィエリアは思った。フィエリアとエックハルトは母の影響によって、西洋剣技では無く剣道による武術を選んだ。ただ単に力と勝利を追い求めるのではなく、勝利以外の何かを求めるのが剣道なのだと母は良く言っていた。幼い頃はまったく理解の及ばなかったことだが、年齢を経れば経るほど母の指していた意味が良く分かる。精神を鏡のように研磨し、眼前の敵ではなく己に打ち克つこと――それこそが真の"力"なのだということ。

 武具を身に付けると、フィエリアは兄と対峙した。いまだ道着のままの彼を見て、

「兄様、防具は……?」

「構わん、抜け」

「危険です。万が一を考えると骨折では相済みません」

「貴様に案じられる筋合いは無い。容赦はいらん、掛かって来い」

 どうやら意思は変わらないらしい。

 どうなっても知りませんよ、と内心に呼びかけて、フィエリアは竹刀を構えた。真正面、両手で握る構えは、

「青眼の構え。敢えて央を狙わぬ、やや左に偏った攻めの姿勢だ」

「……はい」

 対峙するエックハルトの構えは八相――つまり自分の出方を窺う格好である。やや前に出た左足は、その気になれば一瞬で間合いを詰めることが可能であり、いわゆる陰の構えとも言われる。

 たっぷり5秒間の睨み合いが続いた。

 ……攻め込むタイミングは絶妙な時を選ばねばならない。

 フィエリアは柄を握る力を強めた。

 まだ幼い頃に憶えた知識がありありと甦ってくる。息を吸うとき、自分の繰り出せる動きは息を吐くときよりも僅かに遅れたものとなる――そのため、相手に呼吸を読まれないようにするのが剣道の定石だ。音を立てず、しかし呼吸を止めずに、自分の弱点を悟られぬよう動くべし。

 呼気を捨てたのち、フィエリアは気合と共に前へ踏み出した。

 前進するのは右足からの跳躍。タタン、という快音と共に繰り出された一撃は、しかし兄の竹刀に阻まれる。

 ――そこから先は何が起こったのか良く分からなかった。

 気付けば衝撃による音と痛みだけがあり、兄は背後に居る。

「……腕は堕ちたか。私を失望させるな」

 ゾク、という寒気を得るとともに、フィエリアは背後の兄を振り返った。竹刀一閃、白い髪の男は静かな口調で語る。

「敗因は自分で考えろ。今の貴様には何の望みも希望も無い」

「わ、わたしは……」

「明日の戦闘も出撃しなくていい。今の貴様はただの足手纏いだ」

「兄様!」

「これ以上、失望させてくれるな。二言は無い」

 それだけ言い残すと、兄――エックハルトは道場から去っていった。

 残されたのは無音と、小刻みな身体の震えと、畳が持つ異様なまでの冷たさだった。

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