第26話 part-g/part-h
[part-g]レナ
最後に何か言いたかったな、とレナは内心で思っていた。
名前さえ訊くことが出来なかった少年――その背中が人混みに消えていくのを見送って、レナはようやく肺から息を解き放った。
緊張が弛むのと同時に、周囲にできた人垣も弱くなり始めた。先ほど起こった喧嘩について言葉を交わしながら人々が離れていき、世界が元の日常に戻っていく。
レナも踵を返して去ろうとすると、
「待て。君は統一連合軍独立機動隊<フィリテ・リエラ>所属、レナ・アーウィン少尉ではないかな?」
ふと名前を呼ばれて立ち止まる。
背後を振り仰いでみれば、碧眼の男は高圧的な視線でレナを見下ろしていた。
……誰?
という問いを完全に無視すると、今度は別の少女へと首を向けた。
黒髪の少女は男を凝視したまま動かず、まるで酸素が不足したみたいに口をパクパクさせている。
いや――違う。
まるで天敵に見詰められた被食者のような表情だった。
「そこに居るのはフィエリアか。喧騒を前にして飛び出せぬとは、エルダの名が廃れる。あれほどの暴動なら1人で鎮圧できたはずだ」
「あ、貴方が……何故ここに……!?」
フン、と男は嗤うように口元を歪め、それ以上は何も語らずに身を翻した。
そこでレナは、あ、と自分の内に芽生えた違和感に気付いた。
男の口調が、自分に向けられたものとフィエリアへ向けられたものに差があったからだ。
その理由は――と考えていると、震える声でフィエリアが言った。
「彼は統一連合の軍人です。警察なんかじゃない」
弱々しい声で吐きだす。
「エックハルト・エルダ・ベルツヘルム。統一連合のヨーロッパ大隊を統べる、別名『勇翼の砦』の異名を持つ大尉。そして――」
す、と短く呼吸して、
「私の……兄です」
[part-h]ミオ
あの出来事から数刻して、ミオは港の船着き場にいた。
桟橋には数多くの小舟が停泊していて、波にぷかぷか揺られている。穏やかな風が吹く午後は、その様子がどこか心地よかった。
<オーガスタス>はここから遠く離れた海に潜伏している。そこへ戻るためには小舟を幾つか渡って戻る以外に方法が無い。
――レナ・アーウィン。
さっきまで隣にいた少女を思い出す。綺麗な女の子だった、とミオは漠然と思った。
彼女は敵だ。ASEEと統一連合が戦争を続けている限り、その事実は変わらない。自分はASEEのエース機<オルウェントクランツ>の操縦手であり、レナは統一連合のエース機<アクトラントクランツ>を駆る操縦手だ。戦場で何度も殺し合ったことがある仲で、自分が彼女をチンピラから助けたことは、これまでの経緯と大きく矛盾する。
本当なら、気付かないふりをしておけば良かったのに。
彼女が死のうと怪我をしようと、それは自分にはまったく関係ないのだ。むしろ彼女がダメージを負った方が、こちらとしてはやりやすい。
(なのに……)
ふと右手を見る。
そう、彼女は似ていた。喜望峰で出会った1人の女性と。
それでも、と人間の可能性を信じる点が。
自分はなぜ彼女を助けたのか。詳しい理由は分からない。
チンピラに腹が立ったわけではないし、彼女のことを可哀想だと思ったわけでもない。
ふと足元に何かが接するのを感じて、ミオはぎょっとした。気づけば、尻尾の短い茶トラの猫がミオに擦り寄っていた。
可愛い猫だ、と思ってしゃがむと、猫は何かが貰えると勘違いしたのか、すぐに喉をゴロゴロ鳴らした。指の動きで鼻先を掻いてやると、猫は眠そうな瞬きとともに、気持ちよさそうな表情になった。
ふと遠くから声が掛けられる。しゃがれた声は老人のようだった。
「……『猫は自ら進んで人間に近づき、人間と対等の関係を築いた稀有な動物である』」
ミオは声のいる方向を振り向いた。
「ポール・ギャリコからの引用だ。読んだことないのか?」
せせら笑うような声はまさに老人のそれだったが、しかし彼の佇まいは若い男のそれだった。
着ているのは乳白色のボロいローブで、左腕の袖は風の動きに合わせて大きく振られている。その顔はフードに隠れていて見えない。
「あんた誰だ」ミオは問う。
苦笑交じりに右手の文庫本をたたむと、男はローブのポケットにそれを仕舞った。本のタイトルには『猫語の教科書』と書かれていた。
彼は言う。
「俺が誰だっていいじゃねえか。俺だって、お前が誰だって気にもしない」
「……そうかもな」
「レナ・アーウィンはどうだった? いい女だったろ」
ミオは男を睨んだ。やはりこの男、気になる。
敵意むき出しの視線に気がついたのか、男は片手を大袈裟に振ってみせた。
「安心しろ、俺は敵じゃない。こんな場所で揉め事を起こすのは、お前だってマズかろうに」
「アンタは俺のことを知ってるのか?」
「いちいち気にするかよ、そんなくだらねえこと。ただ少しだけ教えておくと、俺はお前の過去も未来も知ってる人間だよ。ほら、どうでもいいだろ?」
馬鹿にしてるのかよ、と声を荒げそうになったが、ミオは言葉を飲み込んだ。
ただの精神異常者だ、相手にするな。
いや逆に、もしも男が本当のことを言っていたとして、自分が彼に敵うはずはない。彼の言ったことが真実ならば、彼は自分の過去も未来も知っているのだ。そんな人間に力で勝とうとすれば、結果は既に見えている。
しゃがれ声の男は溜め息して、
「前にアフリカで会ったときと比べて、ちったあ成長したような目をしているな」
「あんた、もしかしてあの白いAOFのパイロットか……教えてくれ、あんたは何者なんだ」
「答える義務はねえ」
男はキッパリ言った。
気づけば茶トラの猫はミオの足元を離れ、ローブの男の元へ行き甘えている。男は膝の動きでしゃがむと、猫の顎を指で掻いた。
「お前の話題、もう世界中で話題になってるぞ。たった一機のAOFで、120機にもおよぶAOFを殲滅したASEEの悪魔。世界中を敵に回した最凶の虐殺機。その機体はもともと統一連合が開発したものだが、連合じゃその機体を超えるAOFの設計が困難だっつー話だ」
「なぜ?」
「……お前はまだ、このバカみてーな戦争に隠された真実を知らないんだよ」
男は立ち上がってミオを睨んだ。
猫は驚いたような動きとともに立ち上がり、まるで何かを思い出したように、桟橋とは反対方向へ逃げていった。
戦争に隠された真実、と男は言った。
彼の言っていることはただの妄言なのか? ふとした疑問がミオの中で鎌首をもたげた。
男の口調はいやに真実味を帯びている。支離滅裂なことを口走っているわけでもなく、どこかそれは、全てを見てきたような強い説得力があるようにも感じた。
男はふたたび言う。
「AOFに搭載されている技術は、本来ならば現時点では存在しない技術だった。重力制御も含めてな……それどころか、AOFを造り上げる技術自体、たった6年で確立されたって話がおかしい」
「……つまり?」
「あとは自分の脳みそで考えな。といってもお前のアタマじゃ、どうせ死ぬまで分かんねえだろうが」
何なんだコイツは、とミオは思った。それに、なんか腹立つ。
さんざんもったいぶって、結論は何も言わないなんて。やっぱりただの精神異常者の妄言だったのではないか。
ミオが大きくため息をつき、前髪を掻きむしって再び見ると、男の姿は無かった。
今見たものは幻影だったのでは?
だとしたらもう少し休息が必要だな、とミオは思った。
茶トラの猫は釣り人から魚をもらったようで、銀に輝く宝物を咥えたまま、桟橋を嬉しそうにトコトコ走っていた。




