第26話 part-d
[part-d]ミオ
転がるように世界の色が変化して、ミオの足はそこで踏みとどまった。
路地裏の暗がりから陽光の下に出た。自分の五感はマトモな方であるので、それくらいのことは容易に判別がつくのだがこの状況は一体どういうことか。
思わず呼吸が停止した。
ふいに自分の背後を見たところ、そこに少女は立っていた。
誰と? という疑問は無用だった。
――レナ・アーウィンである。
少女の燃えるような赤色をしたロングヘアは、陽の下に出るとさらなる輝きを見せる。
俺は、と考える。
あのまま路地裏の闇に隠れて、傍観者に成りきっていれば良かったはずだ。それなのに自分が飛び出してしまった理由、しかも彼女を助けて、颯爽とヒーローのごとく去るとは一体どういうことか。
責任者に問い質す必要がある。
責任者は自分だ。
(俺は……どうしたんだ?)
あの場でなぜ飛び出してしまったのか、その理由は良く分からなかった。
これまでに膨大な量の大したことない悪事を重ねてきたであろうチンピラ共に腹が立ったのかというと、そうでもない。機嫌が悪かったかというとそうでもない。
ならばどうして――という思考は、少女の1つの動きによって妨げられた。
「あの……ありがとう」
「え?」と、ミオは間の抜けた声で応じた。
「ほら、助けてくれて。あのままじゃ、あたしはきっと危なかった」
少女は一瞬だけ伺うような上目遣いになり、
「きみ、前に会ったことがあるよね。覚えてる? 第六施設島だったと思うんだけど」
「たしか……駅のホームで見た女の子?」
しばらく迷った挙げ句、ミオは表情を取り繕うことにした。
首を縦に肯すと、少女はパッと顔の色を輝かせて、
「わ、やっぱり! こんなところで会うなんて偶然だよねっ! 名前、訊いてもいい?」
「え、えと……俺……」
答えられずにオドオドしていると、彼女は小首を傾げて ? の疑問詞を浮かべた。明るい深茶色の瞳で見詰められると、ミオはさらにたじたじになる。
少女はふいに神妙な顔つきを作ると、
「そうよね。急にヘンなこと訊いちゃってごめん。第六施設島、あれから色々あって大変だったんだもんね」
ミオは静かに首を垂れた。
もうずっと前のことにも思える話だ。ASEEが統一連合の隠し格納庫を奇襲したあと、第六施設島は事実上の崩壊を遂げた。帰る場所を失った住人たちはバラバラな場所への転居を余儀無くされ、避難生活は今でも続いているらしい。
そうしてASEEと統一連合の戦争は再開した。半年の休戦は窓ガラスを蹴破るようにして終わりを告げ、新たな銃声と悲鳴が始まった。第六施設島から始まった戦火は、瞬くして世界中に広がっていった。
その中心にはミオとレナの2人がいたハズだ。
そうだ。この戦争の中心には俺たちがいる。
ぐ、と悟られないように右の拳を握る。目の前に立っているのは敵となる少女だ。統一連合の中でも"2強"と称されるほどのエースパイロットが、いま自分の目の前に、手の届く距離に居る。
ミオは喉の奥から声を絞った。
「きみの方こそ……どうしてこんな場所に居るんだ?」
「あたし? ま、まぁ深い理由は長くなるし面倒だから省くけど、簡単に言うと仕事ってやつかな。あなたは?」
「いや、特に理由は。でも」
「でも?」
ミオはとっさに嘘をついた。
母艦である<オーガスタス>で近くに来ていて、敵である統一連合の偵察に来たなんて、とてもじゃないが言えない。
だとしたら、いまの自分は何者なんだろう。兵士ではなく、世界を旅している若者でもないしジャーナリストでもない。
少年は軽く吐息して、
「こんな世界に辟易して、ちょっと気晴らしにね」
「ふーん……」
口をついた微妙な嘘に嫌気が差して、ミオはふと視線を逸らした。
少女は怪訝そうな表情をして、首を傾げる。少女は続けて言った。
「あなたは……今の世の中に不満があるってこと?」
「分からない。人は生まれる時代を選べないから。俺は弱いから、こんな場所で、ただ沈黙しているしかないんだ。それが何かを解決するわけじゃないんだけど」
ピーナッツでも噛んだみたいに、ミオは呟くようにして言った。
言うと、レナは感心したような驚きを漏らした。
「きみ、不思議な人だね。まるで小説の中の人みたい」
「え?」
「ううん。そう思っただけ」
そっか、とミオはうつむき加減で言った。
昔――といっても、たった数日前の記憶を思い出す。
思い出の淵に蘇るのはセレンが読んでいた小説だ。世の中で起こる何もかもに愛想を尽かした主人公が、誰とも言葉を交わさず、沈黙を保ったまま、ただ街の落書きを消していくだけの小説。
俺は、その主人公の模倣者にでもなるつもりだったのか? 目の前に起こる理不尽なんて、無視しておけば良いだけなのに。
自分でも情けない話だ、とミオは思った。
「ごめん、変なこと言って」
「さっきは助けてくれてありがとね。ちょっとカッコ良かった」
ミオが引き続き顔を赤くすると、少女は心の底から愉快そうにクスクス笑った。
こうして楽しそうな表情をする彼女が自分の敵だとは、今のミオにとっては想像出来ないことだった。
穏やかな風に導かれるようにして、ミオは下り坂になったメインストリートを、人の流れとは逆方向に向かった。向かうのは丘の上。
海からの潮風と、陸地からの風が拮抗する場所だ。シャツの裾が旗のように揺れるが、ミオはちっとも気にしない。むしろそれを楽しむように腕をすこしだけ広げると、さらに風を感じられるようになった。
後ろを歩いてきたレナが横へ並ぶ。
強めに吹かれる髪を耳元で押さえると、彼女はサファイア色の海へ視界を向けた。
紅海である。先刻まで淡い翠色が混じっていた海は、今は蒼の輝きが強くなっていた。たった2時間で季節が変わる国、と銘打たれた観光案内のパンフレットはあながち間違っていないようだ。だとすれば今は夏の海だろうか。とてもきれいだとミオは思った。
「ここ、思ってたよりも綺麗な街なんだね。場所的にはアフリカ大陸なのに、いざ入ってみたらヨーロッパの街並みをしてるし。もうメチャクチャ」
「そっか」
「だけど今は不思議と感傷的な気分。この街にも、もう二度と来ることは無いんだなって……そう考えただけで、なんだかね」
「次もどこかに行くのか? 仕事ってやつで」
「世界を転々としてるんだ、あたし。だから、この街に来ることは二度と無いと思うの。次は多分ヨーロッパの方に行くかも。そっちは?」
「本当は、もしも時間があったらパリに行こうと思ったんだけど……行く必要、無くなっちゃったんだ。だから、こんな場所で時間潰してる」
「ふーん」
レナはわけがわからないというように吐息した。黒い芳珠のような瞳で見つめられ、ミオは思わず視線を逸らす。少女はそれ以上深い理由を探ってくる様子は無かった。
街を見渡して、
「ここ、最初は何もない街だと思って期待してなかったけど、今はすごく綺麗に見える。どうしてか理由は分からないけどね、今さら気付いた」
ふ、とレナは口の端から呼気を吐いた。
その表情は、まるで自分自身を皮肉っているようにも嘲っているようにも見える。
ミオは少女の横で少し沈黙したあと、わずかに首を傾けた。ややあって口を開く。
「これは、俺の言葉じゃないんだけど」
「うん」
「あ……やっぱりいいや」
「なによ、自分で話振っといて勿体ぶるつもり?」
そういうワケじゃない、とミオが両手を振って否定すると、レナは再び愉快そうにクスクス笑った。
少女の破顔を見ただけでふと表情が弛みそうになり、ミオは海の方向に目を向ける。
「自分の見方ひとつで、世界は7色にも10色にも変化する。だから自分の視点を変えれば、いま瞳に映るよりもきっといい世界が広がっているのかも知れない――って教えられて。俺も昔はそう思ってた」
「き、み……?」急に饒舌と化した少年を目の当たりにして、少女は思わず問うた。
「だけど、もう見方を変えてもどうにもならない世界があるって知ったとき、その人はどうするんだろう、って。苦しいことも悲しいことも心のなかに押し込めて、平気なフリを装って生きていくのかな、なんて」
これまでの自分にないほど、まるで紙の上を走る鉛筆のように、スルスルと言葉が出てきた。
見方を変えれば、この世界はそんなに悪い場所じゃないのかも知れない――少なくともこれまでの自分はそう思ってきた。だからこそ何も嫌いにならなかったし、何も好きにはならなかった。ただ自分の身の回りに起こることを享受して、「これは仕方のないことなんだ」と思いながら、それでも日々を生きてきた。
セレンは死んだ。
その事実はどれだけ見方を変えても揺るがない。自分の力ではどうしようもない。
どれだけ見方を変えても、その事実は変わらない。
「いま、この世界は戦争をしてるんだって――ニュースやネットでは毎日持ち切りで、こんなことを言ったら怒られるかも知れないけれど、俺にはこの世界が本当に戦争なんてものをしている実感が湧かないんだ。それが理不尽の連続だってことは知ってるんだけどさ。たとえ百万年くらい時間をかけたって、世界中で日々起こっているであろう理不尽なんて、きっと百万年の時間を掛けたって、きっと半分だって解消できないんじゃないかな」
ハッとしてミオは言葉を諦めた。
今の自分は何を喋っていただろうか、とまで考えて、途端に恥ずかしくなってくる。
「話が拗れちゃったね。ごめん」
「やっぱり君、小説の中の人みたい」
少女は赤いロングヘアを風にたなびかせ、少年の方を見た。
「最後は有名な小説からの引用なんだろうけど、きっとキミの言うとおりなのかも知れないね」
でも、と少女は言葉を続けた。
「私は、たとえ世の中の不平とか不満とか、そういう嫌な部分があったとしてもね。『それでも』って思いながら、生きて行きたいかな。どれだけの理不尽が起こったって、たとえ自分の力じゃどうにもならないことが起きたって……明日はきっといい未来だって信じたいもの」
君は、と言いかけて、そうか、とミオは気づかれないように笑んだ。
にゃはは、とレナが引き攣るような照れ笑いを作る。
昔、似たような人がいた。『それでも、人間の可能性を感じる』と言ってくれた人が。
……似ているのだ。
性格こそ対照的かも知れないが、この少女は似ている。
そこまで思案したところで、異変が生じたのはメインストリートだ。
一瞬、空気が凍りつくような衝動だ。異常事態を察した通行人がサッと道路脇に退き、どよめきとともに一角へ衆目が集まる。
異常の原因はすぐに判った。ミオは思わず身体を硬くする。
レナを襲った不良グループだ。よく見れば先ほどよりも人数が増えており、おそらく他の仲間たちを連れてきだろうと推測した。どうやら自分は、意外と大きな集団に喧嘩を売ってしまったらしい。
「なかなかマズったな。どうしたものか」
「流石にヤバそうね……君も一緒に逃げた方がいいわ。相手は大人数なんだし、2人で逃げた方が得策よ。それに――」
「こういう風に絡まれるのは割と慣れてるからな。君こそ先に逃げた方がいい」
「だ、だけどっ!」
レナは耳打ちするように告げたが、ミオは首を横に振ると助言を無視して足を前に運んだ。
もし彼女に援軍がいたと仮定しても、せいぜい数人が集まったところで勝ち目はないだろう。それに、街中で追い掛けごっこというゲルマン大移動のごときパニックを起こされても困る。特に警察が介入してきた場合には面倒だ。
不良たちは好奇の眼差しでミオを睨んだ。
対するレナは不安げな視線でミオを見る。
ふ、と紫煙を吐き出すようにして息を吐き、面倒くさそうに前髪を掻きむしり、ミオはため息混じりに呆れた口調を放った。
「お前たちか。また顔面蹴られにきたのかよ」
その一言が怒気に触れ、闘争はすぐに始まった。




