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黎撃のインフィニティ  作者: いーちゃん
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第26話 part-a 紅海編

[part-a]レゼア


 艦内は気味が悪いほど静かだった。

 否、静けさを得られるのは、自分が騒がしい場所を忌避しているせいかも知れない。

 アフリカでの単独潜入を終えてからというもの、ミオは自室に籠もったきりの状態だ。任務についての報告レポートさえまとまっておらず、既定の期限を過ぎても、2度にわたる督促を無視して未提出のまま6回目の夜を迎えている。

(そう、まるで――)

 レゼアは思った。

 アフリカで過ごした時間から離れたくないと主張するような、まるで過ぎ去る時の流れに目を瞑るような――そういった感じだ。部屋に居る間は食事もまともに取っていないようだったし、ドアの前に置かれたトレーは今日も手が付けられていなかった。

 ……彼の身に重大な何かが起こったに違いあるまい。

 ちなみに特務第7班のメンバーは2人とも無事が確認されている。戦闘によって壊滅した街から自力で脱出し、運良く回収されたのだとか。片方は肩に銃創を負ったらしいが、今は治療を受けて快方に向かっているようだ。

 は、という吐息と共にレゼアは廊下の歩みを止めた。

 消灯時間が過ぎてから男子用居住区に侵入するのは容易い。入り口の鍵は壊れていたし(というかレゼアが過去に壊したのだが)、入られて困るようなこともないだろう。さすがに男女逆の立場は困るが。

 食事のトレーは、今朝がたに持ってきた状態のまま変わっていなかった。

 水分を失ったマカロニサラダは濁ったように変色しており、ラップで包んでおいたスープは薄膜の裏に細かな水滴が浮かんでいる。もう冷たくなっているだろうし、口を付けても美味しくないだろう。

 しゃがんで食器を隅に片付けると、レゼアは静かに扉をノックした。

「ミオ」

 返答はない。レゼアは思わず肩を落とした。

 実は干からびて死んでいるんじゃないかとも思ったが、ここ数日の間、少年の姿を覗くのは躊躇われた。

 正確な理由は自分にも分からない。だけど、なんだか踏み込んではいけないような――まるで昔の童話に出てくる鶴の恩返しみたいな、そういうイメージだった。

 部屋の中を見てしまったら最後、自分はミオと距離を置いてしまうだろう。ガラス玉みたいに透明な心を割ってしまうのではないかという恐怖が先行し、自分は少年から目を逸らすに決まっている。

 どうしても扉を開け放つ勇気はなかった。

(ヤマアラシのジレンマってやつか。『比喩と寓話』だったな)

 人間関係のアンビバレンスを示す言葉だった気がする。詳しいことは覚えてないし語る気も起きないので止めておこう。

 レゼアは胸ポケットに収まっていた1枚のカードを取り出した。それはミオの個人データが刻まれたICカードで、扉の脇にある読み取り部分にスラッシュすれば扉が開く仕組みになっている。

 カードに映った少年の顔を眺める。

 長めの前髪とへの字に結ばれた唇、そこそこ整った顔立ちなのに覇気が失せた表情が点数を下げている。そこらへんの高校生だったとしたら間違いなく不良少年と勘違いを受け、毎日体育倉庫の裏あたりでボコボコにされそうである。ちなみに後半はレゼアの勝手な妄想だったが。

 一瞬だけ目を閉じて意思を確かめると、彼女は読み取り部分にカードを通した。

 軽い快音とともに施錠が外れる。

「入るぞ」

 内側からの抵抗はなかった。

 部屋に踏み入れると、そこは真っ暗な空間だった。時間帯からして外から入る斜光は皆無だったし、天井にある蛍光灯もずっと点けていなかったのだろう。事務机(デスク)の上にはコップに入った水とパソコンのモニター、壊れたGPSチップが置きっぱなしになっていた。テーブルに設置されているスタンドが1つだけぽつねんと点灯しており、それが今の室内を照らす唯一の明かりだ。

「ここは引きこもりの部屋か?」

 皮肉っぽく言ってみたが、ベッド脇に座ったままの少年は無反応だった。言葉を聞いているのかそうでないのかも分からない。ただ前より痩せ細って見えるのは事実で、それが少しだけ可哀想にも思えた。

 ……何も食べていないんだろうな。

 だが同情は無用だ、と内心で切り捨てるとレゼアは口を開いた。

「アフリカでの任務が終わってから、6日も部屋に篭って気分は晴れたか?」

 少年はしばらくのあいだ無言を保ったが、やがて弱々しく首を横に振った。

 否定の意を受け取ったレゼアは部屋を歩き、やがて机からパイプ椅子を引っ張り出した。その背もたれに胸を置くことで体重を支え、胸の前で腕を組む。

 少年を見下ろす姿勢でレゼアは言った。

「何も食べてないんだろ? コーヒーを持ってきた。砂糖も牛乳もたっぷりと入れてある。温かいものでも飲んで、少し気分を落ち着けた方がいい」

 レゼアは少年の隣に腰掛けると片手にしていた魔法瓶の蓋を回転で外し、コップに注いで「ほら」と口許に差し出す。

 冷えた部屋にカフェオレの甘ったるい香りと湯気が広がった。

 彼女は小首を傾ぐようにしてミオを見る。

 自分の持つ明るい翠色の眼とは対照的だ。

 長い前髪の隙間から覗くのは、暗くて深い――まるで深海のような色をした瞳。綺麗なのにどこか濁っていて、だけど奥には光が残っているような、そういう感じの眼である。

 ミオはいつも真正面から人の顔を見ようとしない。ちょっと顔を俯かせると、髪の隙間から機嫌を窺うようにして相手を見るのが普段のことだった。前髪を伸ばし放題にしているのにはそういう理由もある。これまでに何度か散髪を試みたが、特別な事情がない限り失敗に終わっている。

「飲まないのか? 腹に温かいもの入れないと身体が冷えるぞ」

 無反応。少年は俯いたまま動かなかった。

 レゼアは呼気を嘆息として、

「……これから<オーガスタス>は紅海へ向かう。地中海からドイツのベルリン、英国のロンドン、そして北欧を通って、敵戦力を削りながら敵の北極基地を攻略するつもりだ。かなり深刻な戦いを強いられるだろうし、あの深紅の機体とも衝突することになるだろう。自分の身体は大切にした方がいいと思うぞ」

 いざというときにミオが戦えなければ、あの<アクトラントクランツ>を食い止める手段を現在のASEEは持っていない。

 それに敵のパイロットは着々と成果を挙げ、力量を蓄えつつある。この6日間でも撃墜数(スコア)を伸ばし続けているし、まだまだ実力は成長途中にある。今はミオの方が操縦主として優位にあるとはいえ、機体のスペック差を鑑みれば最悪の結果が浮かばないこともやぶさかでない。

 改修したあとの機体<オルウェントクランツ・AR>は、改造を積み重ねてようやく<アクト>と同性能か少し上にまで追いついた程度だ。ゆえに、操縦主(パイロット)間の力量差が無くなってしまえば、ミオが不利になることは間違いない。追い越されれば猶更だ。

 ――しかし、とレゼアは肩を落とした。

 <アクト>と戦うためにミオを大切にするというのは、やはり間違っている気がする。

 まるで敵と戦うためにミオを"調整"しているような感触になってしまうのだ。

 では逆に、とレゼアは思考した。

 目の前の少年が戦うことを拒否・放棄した場合、彼はどういう扱いを受けるのだろう。誰かから大切にされることもなく、用済みの烙印を押されて、やがて自我さえ失って崩壊していくのだろうか。

(……それは、嫌だ)

 吐き気がした。

 自分がミオを大切にしている理由は、そういった不毛な動機からではない。

(ただ単に、わたしは――――)

 魔法瓶を握る手に力が込もった。

 レゼアは再びコーヒーの入った金属ボトルを少年の鼻先に突きつける。

「ミオ、飲め……砂糖も牛乳も入れてたくさん甘くしたから。私だって、頑張ったんだぞ」

 懇願するように言うと、少年の指先がピクリと反応した。それは僅かな応答だったが、しかし彼女の意思に従ってくれるだけの動きはない。

 ならば――と、レゼアはコップをぐいとあおった。熱々のカフェオレを口内に含んで少年を振り向かせ、指で鼻をつまんでやると、それは人工呼吸みたいな格好になった。

 朱唇を唇に押し宛てる。

 唾液を吐くように押し出してやると、少年の喉がコクンと落ちた。

「飲めたな?」

 甘い液体を口移しで飲ませてやると、レゼアは手の甲で口許を拭った。火傷した上顎が、まるで日焼けしたあとみたいにヒリヒリする。

 ミオはどぎまぎした様子で身を固くしたが、すぐにベッドの縁で俯き加減になった。

 彼女はフン、と鼻で強がってみせると強張った動きで腕を組み、

「ま、まぁ、恥ずかしがるような関係でもあるまい」

「お前が一番恥ずかしそうにしてるけどな」

 かっ、からかうんじゃない――と、ベッドの縁から立ち上がって言い掛けたところで、レゼアは硬直した。

 ミオは1つだけ息を溢して前髪を掻く。

 昔から変わらない仕草を見ると、不思議な安堵が胸に満ち溢れた。ふと心が温かくなる。

「ようやく戻ったか、この大馬鹿者。こっちは心配してたんだぞ」

「悪かったよ。だけど、何もかも元に戻ったワケじゃない」

 ミオは床に唾でも吐き捨てるような口調で、しかし美しくそろりと答えた。

 とすん、と少年の隣に再び腰を落ち着ける。きゅっと閉じた膝の上に拳を置いた。

「わたしには……ミオから教えてくれなければ、南アフリカで何が起こったのか分からないよ。それは正直いうとすごく辛いんだ。わたしはお前のことを全部知っておきたい。でも無闇にそれを探ろうとも思わない」

 レゼアは一言一句を心の闇から引きずり出すように続ける。自分が伝えたかったことの10分の1にも満たない内容だったが、この暗く沈んだ部屋では、今はこれが精一杯だった。

「言いたくないのなら、心の鍵は掛けておいた方がいいと思うから。だから、辛くなったら必ずわたしに相談してくれ。わたしはお前の姉だ」

 な? と覗き込むとミオは一瞬だけこちらを見、すぐに視線を逸らした。

 部屋がまた沈鬱な空気になる。ミオは少しだけ考え込んだあと、

「やっぱり今はまだ、どうしても。なんというか、頭の中が整理できないんだ。とても大切なことが胸のこのへんにあるのに、言いたい言葉だってたくさんあるのに……どうしてか遠ざかっていってしまう感じがするんだ。本当は遠くへ行きたくないのに」

「それは……大切にしたいことなんだろ?」

 問うと、ミオは小さく息を飲み込んだ。

 だったら言わなくていいよ、とレゼアは言葉を付け加えた。

 それが正しいことかは分からない。だけど少年は息を止めたまま呼吸を忘れ、まるで此処には無い何かを追うような目になっていたのは事実だった。

「大切な記憶はしっかり仕舞っておくべきだ。二度と戻らない記憶なら尚更だ。たとえ目の前にある世界が、どれだけ嫌いな世界でも、どんなに悲しい世界になったとしても――それでも変わらないものは、ちゃんと心の中に残しておくんだ。いいな?」

 少年の顔が、まるで紙を丸めたようにくしゃっと歪んだ。

 ものすごく綺麗な泣き顔だ、とレゼアは他人事みたく思った。

 やがて溢れだした涙が、こらえていた感情の奔流とともに止まらなくなる。どうしようもない嗚咽と吃逆(しゃっくり)が静かな部屋の孤独を埋め、レゼアはそれを(かたわら)で見守った。

 たった今この世界に生まれ出た赤子のように咽び、何かを詫びるような啜り泣きとともにミオは泣き続けた。

 レゼアは少年の首に腕を絡めて抱き寄せると、少年の悲しみが終わるまで待ち続けた。

 鳴り響く警報。

 アラート音は敵襲だ。おそらく北上中の<オーガスタス>に目を付けた統一連合の連中が仕掛けてきたのだろう。

 こんな時間帯に襲撃とは、奴らも警戒を強めているに違いない。特にアフリカでの一件が起こった直後だし、当然といえば当然のことだが――。

 部屋のマイクがノイズ混じりに怒鳴った。

『――艦内のクルーへ通達、ただちに戦闘配置へ移れ。繰り返す、ただちに戦闘配置へ移れ。特務第5班のメンバーは格納庫にて待機。これより発進シークエンスへ移行』

 レゼアはベッドの脇から立ち上がった。

「やれやれ、まったく人使いの荒い連中だよ。とりあえず私が出撃()るから、お前はゆっくり休んでろ。な?」

「いや駄目だ、俺が行く」

「だけどお前は……」

「どうせ雑魚共だろ。戦う相手が誰かってことを教えてやるんだ。今度こそ」

 ゆらり、とミオの細身が動いた。

 まるで幽霊に取り憑かれたような動きで戸口に向かう。

 レゼアは慌てて少年を追い掛けた。彼の肩に手をかけて、そんな状態でどこへ行くつもりだ、と言ってやりたかった。AOFの操縦には膨大な体力と集中力を使う。何日も食事を摂らない状況で機体に乗れば、低血糖で倒れることだってある。

 引き留めるべきだった。

 だが、それが出来なかった。理由は、彼の瞳を見てしまったからだ。

 ミオは前髪を浅く掻く。

 その瞳は果てしなく冷酷だった。獲物を目前にした猛禽類のような、しかし狩りを行う狼のような、ただ色を失くした瞳。

「……また皆殺しにしてやるんだ。俺が」

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