第21話 part-b
日本戻ってきました。
[part-b]ミオ
「ふぅー、美味しかったです! ふわっふわでしたー!」
「お粗末さま。ごめんね、こんなの晩御飯にしちゃって。足りなかったかしら?」
「いえいえ大・満・足ですよ! 食べ過ぎたくらいです。私のおなかだって、ほら!」
美月がぽんぽん小腹を叩くと、セレンは可笑しそうな苦笑をこらえた。
どこか困ったような表情だが楽しそうでもある。彼女はおどけて、
「あらあら美月ちゃんったら妊娠何ヵ月なのかしらねえ?」
「4か月です」右手は親指以外をパッと広げてみせた。
「まあ、そんなに? みーくんもいよいよパパになるのね」
「待ってくれ俺にはそんな覚え無いぞ」
「はいっ。でもコイツ、自分が父親になる自覚が出来てないみたいで……」
「美月まで!? ってか何で! なんでだよ!」
え、まさか本当に妊娠してるのか――と、ミオはおそるおそる手を滑らせた。
ソファの隣に腰かけた美月の腹を、まるで探るように、撫でるように――手のひらで触れる。
しかも彼女は「うん、いいよ触って……」とか頬を上気させながら言うもんだから、ミオは余計にワケが分からなくなった。
どういうことだ――と思いつつ、服の上から肌に触れると。
温かくて柔らかい感触が伝わった。呼吸のペースとともに上下する感覚が得られ、ミオは慌てて手を引っ込める。
途端に青ざめて、
「け、蹴ったぞ……」
「ワケないでしょ。アンタほんとにツマンナイわねー、もっと『これが命の重みか…』くらいキレのあるボケでも言えないの?」
――無理に決まってんだろ。ってか大して変わんねーだろ。
とか思いながら、ミオは面倒くさそうに前髪を掻いた。
こういったノリみたいなものには相変わらずついていけない。とりあえず腹が立つから美月は無視するとして、
「まぁまぁ。みーくんも、そろそろ面白いこと言えるようにならないとねえ」
「つまんなくて悪かったな」
ふてくされると、それを見てセレンがくっくと笑った。
テーブルの上に置かれた皿を集めて流し台へ持っていき、スポンジで洗い始める。
「手伝いましょうか? なんだかお世話になってばっかりだし」
「んーん、大丈夫よ? それよりお風呂に入ってきたら? といってもシャワーで良ければなんだけど。温水は出るから」
え、と美月の表情がぱっと輝いた。
ずっと任務に付きっきりだったから、ろくに風呂なんて入れなかったんだろう。そういえば走ってるとき汗臭かったっけなぁ――と思い浮かべていると、頭上に握り拳が飛んできた。
なんで思考を読まれてるんだ俺は。
「ちゃんと、身体くらい、流して、ました、けど~?」
音節を強調すんな。超怖いからやめろって。
分かったよ、俺が悪かったから――と頭のてっぺんを抱えていると、美月はくるりと背を向けて笑顔になる。
「じゃあ遠慮なくっ!」
「はぁい、ゆっくり入ってらっしゃいなー」
……なんで俺に対してと愛想が違うんだよ。
ソファで苦悶するミオに向かって「べーっ」と舌を出すと、美月は威勢よく風呂場へ直行した。一枚戸が開いて、また閉じる。
はぁ、と嘆息して椅子に体重を沈ませると、セレンは台所からクスクス笑った。
気が付けば皿を洗う音は、いつの間にかフォークが擦れる金属音に変わっている。どうやら台所は自分の仕事場、と思い込んでいるらしく、セレンは料理全般に関して手伝わせてくれない。
これまでの5日間でミオが台所を担当したのは1回だけで、それを除けば料理も片付けも、すべてセレンがやってくれた。
昼間は基本的に忙しかった中で衣類の洗濯、それが済むと部屋の掃除と片付け、時間ができると読書や書き物に時間を費やす――というのが彼女の生活スタイルである。
基本的に自由人。と言えば気ままに思えるが、
――やっぱり独りぼっちは寂しいよな。
視線を足元へ落とす。
「みーくんどうしたの? フレンチトースト美味しくなかった?」
「ん。あぁ、そんなことは無いよ。とっても美味しかったから、今度また食べたいな」
「そう? なら良いんだけど。学生時代にバイトしてた喫茶店で作り方を覚えたの――っていうか勝手に真似したんだけどね。実は作る段階でメープルシロップを加えてたのよ。ちょっと甘かったでしょう?」
「……」
「みーくん、元気ないの?」
いや――とミオは首を横に振る。
元気が無いワケじゃない、と告げると、セレンは心配そうに首を傾げた。
洗い物を終えて皿とフォークを片付けると、ナプキンで手を拭いてソファへやってくる。
彼女はミオの横に座った。
クッションが浅く沈むのを感じて、ミオはセレンに対して寄り掛かるような姿勢になる。肩に側頭が乗せられると、彼女は「ん」の頷きで体重を受け止め、そして黙った。
ランタンの灯が揺れ、部屋の中を影が踊る。
静かに時間が過ぎていく。
一階に聞こえるのは美月が浴びているシャワーのBGMだけだ。どうやら腐った配管の泥水は出てこなかったようで、風呂場でギャーギャー騒ぐ様子はない。
「……みーくん。お外、出よっか」
「出ていけと?」
「ふふ、違うわよ。ちょっとデートして欲しいなって」
クスクス笑うと、セレンは少年の腕を絡め取った。
手を引かれて家から一歩出ると、外は真っ青な暗闇だ。黒に埋め尽くされた世界には白銀の月が浮かんでおり、闇と白銀の調和が、深いダークブルーの色調をはっきりと生む。
もちろんそこに街灯の明かりは無い。
天気が良く月が見えていれば、外はかろうじて足元の情報が得られ、海まで歩いていくことが出来る。
玄関口でスリッパを脱ぎ捨て、素足のまま踏み出したふたりは導かれるようにして砂浜へ。
陽が沈んでから急速に冷やされた砂は、足裏に冷たい感触を与えてくる。
ふと気づけば波打ち際だ。
風の音と、寄せては返す潮騒の音、そして匂い。さらに右手にあるのは温かさだ。隣に立つセレンは少年の手を握ったまま、しかし離そうとしなかった。
「……怖いのかな」
「え?」ミオは不意をつかれて驚く。
「なんとなく、そんな感じがしたから。みーくんっていつもそう。この数日間ずっと、寂しいような、そして何かを怖がってるような感じがするの」
そうかな、と呟くと、セレンは頷いた。
寂しい――という感覚は分からないが、何かに対して怯えているのは事実だ。その「何か」というのは時と場合にも依るけど。
戦うということ。
自分が「用済み」にされてしまうのでは、ということ。
そして今は――と、ミオは続きの言葉を飲み込んだ。
喉へ丸めた上で、続ける。
「今はセレンを失ってしまいそうで……それが何より怖い」
そっか、と縦に振っただけで、彼女は以降の追求をしなかった。
彼女は理由も詳細も問わない。それが2人の交わした『約束事』だ。
歩を進める。砂を踏む。
ミオも手を引かれて前に出た。
ちゃぷ、と波に足首をつけると、海の水は思っていたよりも冷たくなかった。足首を濡らす波は生ぬるく、それが去ってしまうと冷えた風が濡れた部分を冷やし、また温かい海水が感覚を上書きしてくれる。
セレンは謳うような仕草で唇をひらいた。
「わたしもね、ずっとそう思ってるの。みーくんが遠い場所へ行っちゃうんじゃないかって。もう二度と会えなくなっちゃうんじゃないかって。あの2人も、みーくんのお知り合いなんでしょう?」
――あぁ、とミオは静かに頷く。
セレンは視線を落とした。
美月と亜月も、こちら側の人間なのだ。
セレンが立っている世界とは根本的に違っている。
ブロンドの長髪が風に揺られて横へなびいた。
一本一本の綺麗な流線を、そのピアノ線のような煌めきを、記憶の中へ大切に仕舞い込んでおきたくなる。
――そうなんだ、俺たちの関係は……。
ミオとセレンの関係は "ねじれ" の位置にあるのだから。
どれだけ足掻いても、同じ方を向いていたとしても、決して交差することのない2本の線なのだ。
それがどうしても悔しい。胸が張り裂けそうになる。
セレンは足を踏み出した。
ちゃぷ、と水音がして、右足は15センチの深さへ浸かった。
「どれだけの速度で進めば、また、みーくんに会えるのかな。今度会えるなら別のかたちでも構わない。会えるならそれだけでいい」
両腕を広げる。
ワンピースの裾が広がって、彼女はくるりと振り返った。
「わたし、みーくんのことが好きよ? ふふ、恋愛的な好きまで成長してないけれど」
前とは違う口調で、セレンは言葉を放った。
からかっているわけではない――というのは一目瞭然だ。
そこにいつものような笑みはなく、ただしっかりと目を見据えて、彼女は強く言った。
ううん、と首を振る。黒い風に流れるブロンド髪を右手で押さえて、
「これから、もっと好きになっていきたいって思えるよ。もっと君のことが知りたいし、一緒に居たい」
「……どうして」
「優しいところ、かな。前にも言ったけど。みーくんの本当の心は、ずっと奥深い部分に隠れている気がするの。引っ込み思案で臆病で、だけど本当は誰よりも優しい心。それが分厚い殻に阻まれて、内側から『助けて』って呼んでる」
「そんな……そんなワケない。俺は」
「言わないのっ」
しっ、と彼女は人差し指をミオの唇に宛てた。
思わず泣きそうになった。
本当は全て打ち明けてしまいたい。
自分は好きで戦っているワケではないのだと。
自分の居場所を手にしたい、その一心で自らの手を汚してきたということを。
だけど言えない。言ってはならない。それが2人の『約束事』だ。
両の頬に冷たい手が宛てられ、ミオは振り向かされた。
セレンの柔らかな表情が、きめ細かい肌が、優しい瞳が、睫毛が、朱の唇が目の前にある。
吐息が掛かるほどの距離。思わず呼吸が止まった。
「みーくんの眼はこんなに優しい色をしてる。だから、ね」
頬に唇が触れた。
ミオの身体が強張ると、セレンはそれを和らげるように腰へと手を伸ばした。片方の手が少年の右手を優しく握り、もう片方の右腕はミオの身体を抱き寄せる。
短い抱擁が終わると、
「セレン……」
「やっぱりわたしじゃイヤだった……かな。ごめんね。オバサンだもんね」
「い、いやそんなことは無いのだが――」両手をブンブン振って弁解するとセレンは苦笑して、
「ふふ、みーくんってば顔が真っ赤よ?」
「し、仕方ないだろ……」
っつーかセレンの方だって赤くなってるし。
前髪を掻きむしると、セレンは再び微苦笑してミオの黒髪を分けた。満足そうに笑む。
そうだ、とミオは思った。
少年の表情に暗い陰が落ちると、彼女は途端に残念そうな顔になる。
「セレン。もしかすると今から数日以内に、この前みたいな怖い出来事が起こるかも知れない」
「怖いこと……? また戦いみたいなことが起こるの?」
「なるべく無事に済めばいいんだが。そこで急なんだが――これを渡しておく」
ミオは首のペンダントの紐をはずすと、セレンへそのまま掛けてやった。首の後ろで器用に結べば完成だ。
彼女は胸のあたりに収まった青色を手に取って、まじまじと眺めた。アクセサリは月明かりを弱く反射する。
「これは……? すごく綺麗ね。素敵だわ」
「もしも――もしも非常事態になったら、この中に入ってるものを壊してくれ。開け方は簡単だ」
実際に宝石を開いてみせる。
中から現れた薄型のシリコンチップ見て、セレンは不思議そうな表情になった。
こんな小さな物で何が出来るのか――とでも問いたげな目で、彼女はミオを見る。
チップを元に戻して、
「この宝石ごと石か何かでブッ壊してもいい。そしたら俺が、どんな場所であっても必ずセレンを救けに行くから。だけどそいつを壊したら、たぶん俺たちはもう二度と元に戻れない。ずっと会うことは無くなる」
「どうして?」
「俺たちの立ってる世界が違うからだ。なんとなくセレンも分かってることだと思う」
セレンは身動きを失って、ついでに言葉も失くした。
彼女が助けを乞えば、ミオはそれを救いに行く。
危険となる対象を殲滅することで、セレンを命に換えても守ることが出来る。
だが、そうすればミオとセレンは決別しなければならない。
……自分は彼女と一緒に居続けることは出来ないのだ。
「でも、これを最後まで壊さなければ、みーくんと一緒に居られるのね?」
「そうなるな。時間は掛かるだろうけど」
「良かったわ。じゃあ、そのときはまた嘘をついてね? どんな嘘でも、きっと嘘ごと君を好きになれるから」
にこり、と笑む。
心が痛くなって、思わず涙が出そうになった。
くしゃっと歪んだ泣き笑いのような表情で、ミオはセレンの肩を抱き締めた。自分の中にある何かが産声を上げそうになる。
――必ず守ってみせる。君を。
心のうちで誓う。
どんなことがあっても、この人だけは必ず。
絶対だ。




