第19話 part-d
ミオは怪我の具合を再確認した。
膿と血を一緒に押し流したせいで、傷痕はパックリと割れている。それを見たミツキが苦々しい表情になるが、すぐに表情を元に戻した。
清潔なタオルが一枚でもあればいいのだが、残念ながら利用できそうなものは無い。
そして不安の要素はもうひとつ。
地下4階から外へ続く坑道のなかを、あの鋼鉄男がまだウロついているハズだ。外側から防護扉でロックされているとはいえ、ドアが破壊されてしまったら3人は逃げ切れない。とくに怪我を負った亜月を連れて逃げることなど不可能に等しい。
亜月は小さく呻くと、
「そうだな。だが我々には行き場がないんだ」
「いや、アテはあるさ。このまま港町まで逃げればいい」
「港町って……あそこは生活できるような環境じゃないだろ? たしかゴーストタウンだって話だが」
「それでも不衛生な場所よりはマシだろ。それに、たぶんアンタが思っているのとは違う環境だ」
女性は ? と疑問符を浮かべて眉を立てた。おそらくセレンが生活していることは知らないのだろう。
立てるか、とミオが訊いて右手を差しのべると、亜月は迷わずその手を握り返した。ぐいと引っ張ることで体重を起こす。
が、その身体は膝からバランスを崩した。
「ぐっ…!」
「亜月っ!」美月が飛び掛かって姿勢を救う。
「私は大丈夫だ。これくらいなら動ける……」
「なに言ってんの、顔が真っ青なのよ!? どう見ても無理じゃない――ちょっと君、わたしが左肩を抱えるから右を頼むわ」
「無理はするなよ」
せーの、と体重を持ち上げると、今度は美月が脚のバランスを崩した。無理もない。
亜月の意識は遠のきつつある。この3日間の疲労は相当な量が溜まっているに違いない。身体の平衡感覚さえ蝕まれ始めているようで、身体の重みが一気に美月へ押し寄せたのである。現に亜月が怪我を負っているのは左脚だ。
ミオは立ち上がろうとする少女を遮って、
「亜月。ちょっと股を広げろ」
「は、はぁ!? ちょっとアンタこんな場所で堂々と――」
「美月はいちいち耳元で怒鳴るな……悪いが急いだ方が良さそうだからな。あんまり余裕がない」
話し掛けても亜月からの返答は無かった。
は、という呼気は熱く、代謝交換を急いでいるように浅い。しっとりと汗で湿った肌は滑りやすくなっていたし、早めに休ませないと危険な状態だ。
ミオは亜月のふくらはぎへ手を滑らせると、おもむろに左右へ開いた。その背後では美月がキャーキャー騒いでおり、両手で真っ赤な顔を押さえていたが何を勘違いしてるんだお前は。
腕を掴んで自分の首へ回し、固定されたことを確認して彼女の両太股を腰の部分で抱える。立ち上がると一瞬だけバランスがふらついたが、なんとか背負えない重さではなかった。
美月は目を点にして、
「へ……お、おんぶ?」
「いったい何と勘違いしてたのか、後でじっくり話す必要がありそうだな」
「別にヘンなことじゃないわよーっ! ってか真顔でそーゆーこと言うんじゃないわよ!」
涙目。
コイツからかうと面白いんだな、という感想を持ってミオは亜月を背負ったまま戸口へ向かう。美月は部屋の奥から銀色のアタッシュケースを掴み上げると、それに続いた。
研究所を出られるのは地上1階だったから、廊下を進んで階段を降りなければならない。美月の話によれば研究棟の中には3ヶ所の階段があり、そのうち1つは崩落して通れないとか。
「だとしたら残りは2ヶ所か……さっき通った道が最も安全ルートなんだろ? 早く行こうぜ」
「私は今すぐにでも出られるのよ? むしろアンタが急ぎなさいよ」
「お前な……じゃあ亜月を背負ってみろよ。こいつ意外と重――くないですゴメンナサイ重くないです」
「……?」
首筋に冷えた金属が押し充てられたような感覚がして、ミオは慌てて口を閉ざした。冷や汗が身体を伝う。
ってか銃口向ける元気があるなら自分で歩けよ、とは思っても口に出せなかった。怖かったし。
亜月は少年の耳元で小さく呻いたが、具体的に何を言っているのかは見当がつかない。あとで聞いてみよう。
階段に足をかけたとき、美月の動きがセメントのごとく硬直した。壁際で静止のポーズを取る。
「ん? どうしたんだ?」
「――シッ!」
唇に指を充て、少女は耳を澄ませた。
事情の分かっていないミオは1人だけ廊下でキョトンと立ち尽くす。いったい何だっていうんだ。
そして。
遠い距離から聞こえた音があった。
金属が軋む音だ。引っ掛かれるような怪音とともに、どこかで扉が開くような音がする。
まさか――とミオは息を呑んだが、どうやら音の発生源はミオの推測と異なるらしい。
音の大きさから察するに地下階ではない。
次に聞こえたのは床を歩く靴音と男の話し声だ。どうやら一階から侵入者が入り込んだらしく、音は次第に近付いてくる。
美月に引っ張られ、ミオは亜月を背負ったまま物影へ隠れた。
先に身を潜めた少女は自動拳銃のスライドを引く。しなやかな動きで引き金に指を絡め、持ち手を素早くグリップした。
緊張感のない話し声は階段を上がってくる。
その姿を見てミオは思わず息を呑んだ。
男たちがまとっているのは統一連合の制服だ。青色のストライプが入った模様で、胸のあたりには黄金色のワッペンが縫い付けられている。そして手に握っているのは懐中電灯。
男たちの会話だ。
「――で、この施設って何があるんだよ?」
「オレが知るかってーの。元はASEEのバイオ系研究所らしいが、数年前にバイオハザードを起こして放棄されたらしい。使えそうな資料をかっさらってこい、だってよ。でも専門知識なんか無いぜ?」
「当ったり前だろ、とっとと終わらせて帰ろうぜ。だからアフリカ派遣なんか嫌だったんだ」
「賛成。だが潜入記録だけはキチンと残さなきゃいけねーからな、上の階から順に見ていくぞ」
あいよ、という軽口とともに2人組足は上階へと向かった。靴音が廊下を進んでいく。
どうやら上の階から順番に下の階までチェックしていくつもりなのだろう。資料を引き上げるとか言ってたが――と思いながら、ミオは深い息をついた。
「危ないところだったな……でも、なんで統一連合の奴らがこんな場所にいたんだ? 偵察の様相だったが」
「それも後でまとめて話すわ。今のうちに出ましょう。まぁ重要な資料はあたし達が引き揚げたし、今さら何も見つからないと思うけどね」
「知ってるなら教えてくれたっていいだろ。この街は一体なんなんだ?」
「……それは今話すべきこと?」
彼女の対応は冷ややかだった。ミオは反射的に押し黙る。
たしかに気になっていることは多い。なぜこんな僻地に生体ラボがあるのか、そして此処で何が行われていたのか。――果ては、どうして統一連合の兵士がこんな場所にいるのかと疑問は尽きない。
(だが俺たちは特務だ……優先順位を間違えちゃいけない。人命よりも命令が優先される組織なんだぞ)
美月はミオを無視すると、自動拳銃を構えたまま忍び足で階段へ。
誰も居ないのを確認してからミオへ合図を送り、2人はようやく1階へ降りることが出来た。
亜月の表情は未だに苦しそうだった。体温も上昇しているらしく、熱は灰色の制服を通してミオの背中へ伝わってくる。
「急がないと……」
踊り場まで段差を降りきった。もう少しだ――と次の段へ慎重に足をかけたとき、音は響いた。
ドォン、と銅鑼を打ち鳴らしたような重低音である。
――なんだっ!?
低い震音の源は、さらに下の階だ。地下階で発生した音は一瞬だけ間隔をあけて、すぐに2撃目が叩きつけられる。
「まさか――」
2人は同時に絶句する。
坑道に閉じ込められた「アイツ」が研究所への侵入を試みようとしているのだ。爆発に耐えうる防圧扉だったから簡単には壊されないだろう――と予測していると、いよいよ3撃目が打ち込まれた。同時に凹む音がする。重金属へ大砲がブチ込まれたような感じだ。
今度は上の階を走る音が聞こえた。おそらく兵士たちが腰を抜かして逃げるところだろう。
「マズい。こっちに来るぞ、逃げろ!」
3人は一目散に正面玄関口へ向かった。




