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黎撃のインフィニティ  作者: いーちゃん
37/95

第17話 part-a

 消息を絶った特務G班とコンタクトを取るためケープタウンに潜入したミオは、雨のなか謎の男によって意識を奪われ、気が付くと女性の家で保護されていた。

 彼女の名前はセレン。浅黒い肌と銀色のロングヘアが特徴の、おっとりした女性である。

[part-a]


 夕食が終わったあとにシャワーを済ませて、ミオは1階の部屋にいた。

 ダイニングテーブルとキッチンはすでに後片付けが終わっていて、部屋の明かりはガスランタンが2つだけ。それでも視界に困らないのは、部屋が狭いおかげだろう。

「またバスローブ借りちゃってるけど、大丈夫なのか?」

「パジャマなら何着か持ってるから平気よ。替えの服は持ってないんでしょう? だったら気にしなくて大丈夫だから」

 シャワー浴びてくるね――と言い置いて、セレンは扉の向こうへ消えた。

 戸から少しだけ顔を覗かせて、

「覗いちゃ嫌よ?」

「そんな不埒なことしません」

「ふふ。ならいいんだけどっ」

 いたずらっぽく笑ってからアルミの戸が閉められる。

 本当にいいのかよコレで、とミオは包帯を巻き直した頭でぼんやりと思った。

 ――若くて綺麗な女の人が、流れ着いた見ず知らずの男を家に泊めている。

 その一文だけを聞けば「この羨ましいぜラッキースケベ野郎っ」とかいった罵声とか羨望とか野次とかブーイングも飛びそうなんだが、事態は思っているよりも深刻だ。

(一般人を巻き込んでしまったな……俺はいったい何をやってるんだ)

 ケープタウンにやってきた理由は観光や遊びじゃない。

 れっきとした任務のハズだったのに、武器をロストし、通信用の端末は壊れ、挙げ句の果ては美人に保護される。いや念のため訂正しておくと一般人に保護されたのである。

 取り残された部屋で静かにしていると、やがて聞こえたのは衣擦れの音。奥でもう1枚のドアが開くと、今度はシャワーの流れる音がした。

 浴び終わった者の感想としては、あれはシャワーというより「ぬるい水道」で身体を洗ったような感じだった。

 セレンの話によれば、この町は送電システムこそ停止されているものの、水道の供給は健在らしかった――どうやら過去に使っていた配管のラインが残っているようで、そこの水道を使わせてもらっているとか。ガスだけは旧市街地の業者に依頼して建物の裏にボンベが置いてあり、それを使ってお湯を作っている。

「これは自給自足というか、まるで毎日がサバイバルだよな……」

 セレンはこんなところに住んでいるのだ。世界の最果てのような場所に、たった1人きりで。

 ミオは鏡の前に立った。まるい銀面へ背中を向け、頭部の黒い髪を上げてみたものの――傷の状態は良く分からなかった。

 ……仕方ない、あとでもう1回セレンに看てもらうか。

 痛覚は次第に引きつつある。あと一晩くらい寝れば治るだろう。

 本棚の前に立つと、中身は相変わらず哲学書やら宗教学の書物ばかりだった。そして何が書いてあるのか分からない。

(まぁ、ちょっとくらいなら読んでもバレないよな)

 シャワールームの音はまだ続いている。セレンが出てくるまでには時間が掛かりそうだった。

 ガラス戸を開くと、紙とインクの独特な匂いが放たれた。

 難しそうな書物は避け、ミオの視線は比較的わかりやすそうな小説の段へ。あまり興味の持てそうな物は無かった。

 扉を閉める。

 その下にあるのは引き出しだ。指を掛けると、収納は軽い力で動いた。

(これは――)

 中に入っていたのは大学の卒業に関する資料だった。

 筒に入っていたのは卒業証書と、A4サイズの羊皮紙。レポートの表紙だろうか――と思いながら手に取ってみると、それは予想外に高級感のある学位記だった。金箔の枠が四角に組まれており、真ん中には「首席」という文字が堂々と記されている。

(マジかよ……)

 右上には2年前の年と、学籍番号らしき8桁の数字が書かれていた。左下には赤色の四角い判が押印されている。

(おいおい首席で大学卒業か。セレンって優秀だったんだ…)

 それに、こういった賞を表に出さずに隠しておくところが実に控え目な彼女らしい。ミオは思わず苦笑した。

 ――ん? 卒業したのが2年前ってことは……。

 大学ってストレートに入学すれば19歳からの4年間で卒業できるハズだよな。卒業したのが22歳だとして、それが2年前のことだとしたら――

 ――24歳。

(俺より7つも歳上だったのか。ということはレゼアよりお姉さんなのか?)

 指折り数えて愕然。

 いや、年齢の話は放っておこう。

 引き出しの下にはもう1段あったが、そこは厳重なロックが為されていた。鍵穴にキーを差し込まなければ開かない仕組みになっている。

 きっとお金とか管理しているんだろうな、と思ったところでミオは詮索をやめた。

 これ以上プライベートに踏み込むのは良くない。セレンだって喜ばないだろうし、世話になっておいて好き勝手なことをやるほど自分は非常識人じゃない。引き出しを覗いてみたいという欲求もあったけれど、それをこらえてミオはテーブルに戻った。

 シャワーの音が止んだ。部屋の中がしんと静まり返る。

 少しの間を置くと、セレンはパジャマをまとった格好で表れた。

 袖口から覗いた肌は思っていた以上にきめ細かくて、やっぱり綺麗なんだな――と思わせる。

 彼女は火照った顔で笑んだ。

「みーくん、もしかして待っててくれたの? 上の階でゴロゴロしてても良かったのに。ランタンもベッドも自由に使って大丈夫よ?」

「もう少しだけ下に居たくて。セレンはこれから何を?」

「わたしは読書してから寝ようと思うわ。いま読んでる小説、ちょうど面白いところなの。それとも何かお話する?」

「いいよ。俺は隅で静かにしてるから」

 ミオは机の上に頬杖をついて、一言だけ。

「どんな本なんだ、いま読んでるやつ」

 セレンは一瞬だけ思考したあと、その柔らかそうな唇から静かに言葉を紡いだ。

「強いて言えば、主人公の男の子が、ひたすら落書きを消して、世界中を旅する物語、かな」

「落書きって、街中にあるようなあれか?」

 ミオは失笑するように言った。セレンは苦笑して、そうよ、と優しい声音で答える。

「その世界には、街のいろんなところに落書きがあるのよ。スプレーで書かれた何かのメッセージ、手擦りに刻み込まれた汚い言葉たち。それを男の子が、ただ無言で消していくの」

「……ばかばかしい小説だ。書いた奴の顔を見てみたいよ」

「そうかしら」

 無言の静寂ができた。気まずい沈黙に耐えかねて、ミオは小さく嘆息。

 ランタンの火が小さく揺れる。セレンはしばらく考えて何か言おうとしたが、ミオが切り出す方が早かった。

「世界中の落書きをみんな消していくなんて無理な話だ。街の至る所に落書きがあって、汚い言葉が書かれていて、それを全部消すことなんて、何年も何十年も、きっと何百年かかったって、出来やしないさ。消したらすぐに別の奴が、別の場所に新しい落書きを作るだけだ」

 驚くほど素直に言葉が出てきて、ミオは少し驚いた。

 とても馬鹿な主人公だ、と思う。彼女の話によれば、主人公の男の子は言葉を喋ることが出来るのに、それをしないのだという。誰とも会話をせず、ひたすら壁や手擦りに向かって落書きを消していく主人公――それを思い浮かべると、ミオは背筋がざわつくのを感じた。気持ちが悪い、という感触だった。

 街から汚い言葉を消していくという、そんな未成熟な正義を振りかざして汚れを駆逐していったって、きっとそれは無意味な行為に等しいのだろう。そんなことに自分のエネルギーを割いて、そいつはいったい何がしたいんだろうな。

 言ってから、ミオは半目でセレンの表情を盗み見た。

 彼女は少しだけ悲しそうな表情でテーブルに目を落とし、何か考え事をしているようだった。

 そうね、と小さな返事。

「きっと、みーくんの言うことは正しいと思うわ。何の意味も無いことかも知れない。でも」

「……」

「それでも、って思うところに、人間の可能性みたいなものを感じない?」

「人間の、可能性?」

「1人では世界中の落書きを消すことは出来なくとも、たとえば主人公の男の子を見かけた素敵な女の子が、彼を真似して落書きを消して、それを見た人がまた手伝うようになって……だんだんと素敵な人が増えていって、やがて街や世界中から汚い言葉が消えていったのなら、それはきっと素敵なことだと私は思うの」

「それが可能性、ってやつなのか?」

「ほんの一例だけどね。1人じゃ出来ないことが、2人になったり、3人、10人、もっと多くの人が共感して、協力してくれるような世界になったら、何でも出来るはずだと思うの。そう思わない?」

 綺麗な瞳で問われて、ミオは思わず視線を逸らした。

 数多くの人間が集まったら、今は出来ないようなことが出来るようになるというのか。

 嘘だ、とミオは思った。たくさんの人間が集まっても、結局仲間割れして、ケンカして、最終的には今みたいな世界が出来上がる。それが人間の可能性だというのなら、ミオはその言葉を紙に一筆したためて、土足で踏みにじりたい気持ちにさえなった。

 可能性という言葉は便利な絵空事だとミオは思う。可能性という不確定なものを信じたって、結局今の世界があるのは不可能性ゆえの産物なのだ。「今の人間にはこれが出来ない」という枠のような限界があって、それが人間を人間たらしめているような気がする。うまく言葉には出来ないけれど。

(――でも)

 セレンの朱唇から出てきた言葉は、もっと綺麗で、高貴で、決して汚されてはいけないような気がするのだ。テレビのコメンテーターが言うような薄っぺらい言葉とは比べ物にならないほど価値が違う。

 ――俺にはまだ良くわからん世界だ。

 少年が困惑顔をしていると、セレンはにこやかな笑みのまま、戸棚から一冊の文庫本を取り出した。

 ミオの目が入ったのは表紙だ。満天の星空の下、汚れた壁の前に立つ少年が居る。その隣には一台のオートバイが停まっている。油絵の絵柄だと分かったが、残念ながらタイトルまでは読み取れなかった。

 しばらく横目で眺めていると、セレンはテーブルの前に腰を落ち着けた。文庫本から栞を抜き取って読み始める。

 部屋が再び静かになった。

 ガスランタンの暖かな光に包まれると、木で出来た部屋はいっそう優しい雰囲気に満たされる。火の揺らめきによって生み出された影が壁に踊り、ときどき消えそうになりつつ明るさを撒き散らした。

(いったい何だろうな――この感覚は)

 ジワリと胸が痛む。

 しかしそれは昼間に感じた痛覚とはどこか違うような――喩えるなら安堵に近い、そういった種類の柔らかい衝撃である。おそらくこれまでに感じたことが無いほどの。

 俺は――とミオは肩を落として思考する。セレンは隣で読書に耽っていた。

 ミオに課された任務は、ここで連絡の途絶えた特務のメンバーとコンタクトを取ることだ。

 本来ならば急いで任務へ戻るハズなのに――まさかの民間人に傷の手当てを受け、食事まで世話になり、挙句の果てにシャワーまで借りてしまった。衛星通信用の端末も壊れてしまったし、レゼアに連絡を取ることさえままならない状況だというのに。

(……完全に任務失敗だ。急いで特務の連中と接触して仕事を終わらせるしかないな)

 明日から元通りの任務に就けるだろうか――と思って、ミオはセレンの横顔を眺めた。

 彼女は文庫本の小説に集中しているようで、横から見詰めていても全く気付かない様子だった。細い指が時々ページをめくり、そのたびに紙がこすれる擦過音。ミオはじっとその表情を眺めていた。

 いいな――と思う。思ってしまう。

 夜の時間がゆっくりと過ぎていく。同時に勿体ないとも感じる。

 本へ夢中になっている彼女を、いつまでも気ままに見詰めていられるなら――

 そんなことを考えていると、睡魔は唐突に襲いかかってきた。

 まぶたが急に重くなり、やがて身体の自由が利かなくなる。

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