第16話 part-b
意識が途絶えたはずのミオは、港町にある家で保護されていた。
ゴーストタウンとなってしまった喜望峰。この世界の隅、たった1人で家に住む女性はセレンと名乗る。
自分で応急処置を施そうとするミオに対し、セレンは柔らかな、しかし怒ったような口調で言う。
「怪我人は安静にするのが仕事ですっ」
む、とミオが言葉を飲むと、彼女は口許を隠してクスクスと笑ってみせた。
手が頭の上を回り、白い布がグルグルと額から後頭部へ巻かれていく。最後に金属のホックで巻き付けを終わらせると、処置は終わった。
よし、と呟くと、女性はにこやかな満面で笑んだ。
思わずドキッとして、ミオは息を呑んだ。
間近で見えるのはきめ細かい肌と長い睫毛。香水の良い匂いが鼻孔をくすぐる。
綺麗な人だな――と少年が思ったところで、彼女は至近距離で言葉を切り出した。
「きみ、名前は?」
「俺――」間を置いて、「ミオ。ミオ・ヒスィって名前」
んー、と女性は頬に人差し指を置く仕草。
少しだけ思案したあと、ピンとひらめいたように彼女はミオの瞳を見て、
「みーくん、って呼んでもいい?」
「は?」
「みーくんよ。君のこと、みーくんって呼んでもいいかしら。駄目ならトリプルアクセル踏みながら『イヤです』って変顔で言って?」
「俺が怪我人だってこと忘れてるだろ」
「じゃあ遠慮なく採用かしら。よろしくね、みーくん? 自己紹介が遅れたけど、わたしはセレン。フレネット・セレンよ。部屋の中にあるものは気兼ねなく使って大丈夫だから、分からないことがあったらいつでも声を掛けてね」
ちょっと救急箱を片づけてくるから――と言い残すと、セレンは再び階下へ降りて行った。
部屋に取り残される。
ベッドから立ち上がると、陽の光をたっぷり浴びた床は温かくなっていた。
窓際に立つ。
さっき転んだアルミのサッシに気を付けながらバルコニーに上がると、そこには一面の開放があった。
海だ。
オーシャンブルーとはこのことか、と目の前の光景に舌鼓を打ち、ミオは視界を右から左へと流した。
大きく湾曲した湾部の形が良く見える。
右の方にあるのは崖だ。荒れた海からミオがボートで上がってきた場所だろう。近くに駐車場のスペースがあるのを見ると、どうやら推測は正しいようだった。
左を見れば、そこにあるのはハーバーだ。何隻かのクルーザーが岸壁に係留されているが、ここからでは遠くて良く見えない。
(風が気持ちいいんだな……)
潮の匂いを含んだ空気は柔らかな微風をもって吹きつけてくる。
昨日の暴風雨はどこへやら、しかし風は強くもなく、かといって弱くも無く――穏やかな天気とマッチしていてちょうど良い。このまま昼寝でもしたくなる。
ミオは肺いっぱいに吸い込むと大きく吐息。
部屋へ戻ると、最初に目が入ったのは本棚だ。胸までの高さが3段にセパレートされており、最上段には文庫本サイズの小説が、中段には哲学や宗教学などの「重たい」系の書物がギッシリ並列させられており、そして下段にあるのは雑誌類だ。
おもにファッション誌や音楽雑誌が中心で、1月から始まって12月号まで揃えられているものがあれば、途中で終わっているものもある。
(論理哲学論とか置いてあるけど……古すぎて分からんな。もしかして原書なのか?)
中段を左から順に見ていく。
タイトルの読めるものと読めないものがあった。読めないものはおそらく原書なのだろう。
たまたま読めたタイトルには "L'Etre et le neant" とあるが、もはや意味は解することが出来ない。
原書って売ったら幾らになるんだろう――と邪なことを思いながら、ミオはハードカバーを開いた。
目次さえ読むことが出来なかったものの、ところどころ貼られた付箋紙には走り書きが残っている。おそらくセレンが書いた記述に違いない。
項をぱらぱらめくっていくと、ルーズリーフに残されたメモのようなものが大量に見つかった。ちょっと文章を書いて、ところどころ矢印が走り、間違えたところは鉛筆の黒で上から潰されている。
(……綺麗だな。大人っぽい字だ)
筆記体を見ながらミオは思った。
(でも、俺には何が書いてあるのか分からないや。難しすぎる)
ハードカバーを本棚へ戻そうとして、声は扉の方向から投げられた。
「ジャン=ポール・サルトルに興味があるの?」
にこやかな笑みで立っていたのは先ほどセレンと名乗った女性であった。両手で抱えたトレーの上に乗っているのはガラスのコップと水差しだ。
「それ、『存在と無』よ。実存主義を広めた有名な著作ね。数学的な論理を用いて『無い』と『在る』こと、そして『死』に立ち向かった作品」
「何が書いてあるのかサッパリだ。俺にはそんな難しいことは分からん」
「わたしも大学の講義で扱ったきりだけどね」軽くウインクして彼女はペロリと舌を出し、「でも卒論で少しだけ扱ったかも。お水あるけど飲む?」
頷くと、セレンはグラスに水を注いでくれた。透明の器が次第に満たされていき、ミオはそれを受け取ると一気に呷る。
彼女は「もう一杯いかが?」といたずらっぽく笑ってくれたが、さすがに2杯目は遠慮しておいた。
「大学に通ってたのか」
「フランスの大学に留学してたのよ。そこで哲学と宗教学を学んだわ」
「仏国か……現在は統一連合に組み込まれてたな」
「ええ、今はそうね。国費で勉強させてもらったの。お姉さん勉強頑張っちゃったわ」
「頭いいんだな。羨ましい」
「そんなことないわ、ただ純粋な興味があっただけよ。面白かったし、いっぱい本を読んで人の話を聴いたりすることが楽しかったの。昼間は学生やって、夕方から喫茶店でアルバイトしながらね。人生でいちばん充実してたかも」
言うと、セレンはトレーを抱いたままうっとりとした表情を浮かべた。
哲学か。あいにく俺とは全く縁がないな、とミオは思った。
そういった難しいのはほとんどダメである。深く考えていると最後には逆説になってしまうか世界が滅びるかの2通りで、結局は面倒くさくなって思考放棄するのがいつものことである。
答えなんか出るわけないのに、いつだって人間は考えたがる。無駄だって分かっているのに。
ミオは前髪を掻いた。
本を元の場所へ戻す――というより、本と本の隙間へ押し込んだ。そうでないと上手く収納できないのだ。
ミオは部屋をゆっくりと見回す。
他に面白そうなものはないだろうか――と窺っていると、ベッドサイドの小テーブルへ目が留まった。そこには泥水に濡れて壊れた携帯端末が置いてあり、その隣にはデジタルの腕時計が転がっている。
時刻は午後の3時過ぎを示していた。防水加工の強い時計は無事だったが、端末は使い物にならないだろう。
探し回るミオの様子に気付いて、セレンはあ、と小さな声を上げた。
「そういえば、みーくんが持ってた物が下の階に置いてあるわ。ちょっと物珍しかったから勝手に眺めてたの。ごめんなさいね」
「……!」
ミオは危うく舌打ちしそうになった。
残りの持ち物といえば――と、思考を巡らせると、思い浮かぶのはふたつしかない。
胸ポケットに忍ばせていた自動拳銃とナイフである。
(見られたか……?)
一瞬だけ視線が鋭くなった。
最悪の場合はセレンだって消すことが出来る。腕っぷしは男の方が強いに決まっているし、その気になれば首を絞めて――と思考が回ったところで、少年の右手は既に背中へ隠れている。
……助けてもらって忍びないが、任務の邪魔になるのなら殺すしかない。
彼女は続きの言葉を口にした。
「あまりに綺麗だったから勝手に借りて眺めてたのよ、あのペンダント。青いガラス細工のやつ」
「ペンダント……?」
「覚えてないの? 楕円球で真ん中に錐が入ってるやつなんだけど。取って来ようか?」
ペンダントといえば――思い当たるのはレゼアから受け取ったGPS内蔵の物しか記憶にない。しかもアレは翠色だったし、林道に捨てたアタッシュケースの中に入っているハズなのだ。こんなところにあるワケが無い。
「ちょっと待ってくれ。俺が持っていたものって――」
「私が見たのは端末と腕時計とペンダントの3つ、それだけよ?」
「本当にそれだけなんだな?」
「う、うん……他に何かあったの?」
「いや、べつに――」
なんとか場を濁したものの、ミオは思わず青ざめていた。
あの灰色のレインコートの男だ。
バールで自分を襲って気絶させたあと、見事に自動拳銃とナイフを奪ったのである。
(なんて失態だ……まぁ武器ならアタッシュケースを回収すれば何とかなるけど、これは痛手だな)
表情を翳らせると、セレンは心配そうに覗き込んできた。
「みーくん、大丈夫? やっぱり体調が悪いのかしら」
「あ、あぁ……平気だ。気に病む必要はない」
「そっか。でも今日は安静にしてなきゃ駄目よ? 症状が悪化するといけないから」
彼女は明るい笑顔でにっこり破顔すると、グラスと水差しをトレーの上に乗せた。ポケットに入っていた紙ナプキンを取り出して濡れた部分を丁寧に拭いていき、さっと後始末を済ませて元に戻す。
<喫茶店でアルバイトしていたって話は嘘じゃないな――と思いつつ、ミオは苦笑する。
どうやら目の前の人間を信用するのに時間が掛かってしまうのは、昔から変わっていないようだ。
トレーを脇に収めると、セレンは表情を暗くした。
「最初にみーくんを見つけたときはびっくりしたわ。だって、家の近くに血だらけで爆睡してる人がいるんですもの。しかも地面の上で」
「……それは爆睡って言わない気がする」
「びっくりした――というか、すごく怖かったわ。何が起こってるのか良く分からなかった。でも助けないと死んじゃうと思ったから――なんとか引きずりながら家に連れて行ったの。1階で止血と応急処置だけ済ませたわ」
「ま、まさか2階まで運んだのか?」
「ううん。今朝、一度だけ目を覚ましたのよ。まったく憶えてないの?」
「ごめん……記憶にない。それで?」
「ちょっとだけ――といっても2分くらいしたらすぐに気を失っちゃって。すごく呻いてたわ。でもぐっすり眠れる場所の方がいいと思ったから、2階まで肩を貸して歩いてもらったの。本当に覚えてないの?」
「覚えてない。俺を発見したのは今朝の何時ごろなんだ?」
ん、とセレンは一瞬だけ思案。
「朝の5時くらいかしらね。もうちょっと早かったかな。強風だったから外で何かが飛ばされる音がして、様子を見に行ったの。そしたら――」
なるほど、とミオは静かに頷いた。
つまり、ミオは1時間半くらい泥の上で気絶していた計算になる。幸いにして傷が深刻でなかったために無事で済んだが――裂傷が数センチに渡っていたらおそらく出血死していただろう。
セレンは紛うこと無き命の恩人だ。
「怖かったか」
ミオは静かな声で問うた。
怪我を負った少年を保護した女性・セレンは、ミオのことを「みーくん」と呼ぶことを提案する。
救急箱を片付けるため、セレンは階下へ降りて行く。
2階のベッドがある部屋に取り残されたミオは、日光と潮風を浴びながら改めて部屋の中を見回した。
本棚の最上段には文庫本が置かれていたが、それ以外の段は哲学や宗教学などの「重たい」書籍がギッチリ並んでおり、ミオは目に映った本を無造作に取った。
「サルトルに興味があるの?」
セレンと名乗る女性は問うが、ミオは狼狽して本を戻した。
話を聞けば、彼女はフランスの大学へ通っていたらしい。哲学か。あいにく俺とは全く縁がないな、とミオは思った。
答えなんか出るわけないのに、いつだって人間は考えたがる。無駄だって分かっているのに――そんなことを思いながら、ミオは前髪を掻いた。
「そういえば、みーくんが持ってた物が下の階に置いてあるわ。ちょっと物珍しかったから勝手に眺めてたの。ごめんなさいね」
セレンの発言に、ミオは思わず動揺する。その原因は自動拳銃とナイフだ。
(まさか、見られたのか…?)
危惧するミオに対し、セレンは言葉を続ける。
「あまりに綺麗だったから勝手に借りて眺めてたのよ、あのペンダント。青いガラス細工のやつ」
どうやらミオを殴った男は、ミオを気絶させたあと自動拳銃やナイフ等を奪っていったようだ。
失態に表情を陰らせると、セレンは昨日の夜の話をした。
「怖かったか」
冷静を装ったミオは静かな言葉を放った。




