表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
黎撃のインフィニティ  作者: いーちゃん
19/95

第11話 part-a 過去編

 中東・砂漠の街で同胞を撃ったミオとレゼア。

 2人が所属するASEE特務第五班――「特務E班」が結成されるまでの過去エピソード。

[part-A]レゼア


 初めて少年と出会ったのは、艦内にある救護室だったのを覚えている。

 もう4年以上も昔の記憶になるが、レゼアとミオが出会ったのはその頃だった。

 レゼアが入軍してから1年目のことだ。まだ17歳という若輩であったものの、彼女はASEEの中でも優れた素質を持っていた。非常に早い頭の回転と、状況に応じて的確な判断を下すことができ、要領も良く何事もそつなくこなす――少なくとも当時のレゼア・レクラムはそういった「才媛」の1人だった。

 その才覚があってか、自分が上層部の目に止まるのも早かった。レゼアは "特務" へ異動の話を持ち掛けられたのである。

 "特務" と呼ばれる独立部隊の存在を知ったのはそのときが初めてだ。入軍1年目ならば当然だろう。特務は表向きには『存在しない部隊』となっており、一部の人間が信じる都市伝説か、はたまた噂程度のものでしかなかったし、なんだか怪しいにおいのプンプンするカルト教団にでも入信させられるのではないかと何度も我が耳を疑った。

 異動の話を持ち掛けられたレゼアは、「会わせたい人物」が乗っているという艦へと寄越された。3台のヘリで送られ、しかも数人の護衛がつくほど懇切丁寧な対応だったのを今でも覚えている。

(しかし…会わせたい人物とは誰なのだ? まさか総帥クラスが居るとも思えんが)

 こちらになります、と黒スーツ姿の男が言った。顔の半分がサングラスに覆われており、それと似たような黒服の護衛たちが後ろにも控えていた。

 艦内にある廊下の一角である。扉の上には「救護室-右舷A」と表記された札が吊るされている。旧式の艦だったせいか、古びたプラスチックは茶色に変色していて、埃を被っていた。

 ノックして扉を開ける。

 両足を踏み入れたところで敬礼――という軍規に基づいた態度を取ろうとしたレゼアは、頬の横で右手の動きを止めた。

 学校でいうところの保健室程度の大きさを持つ部屋には、数名ほどの白衣の集団がいた。彼らは入室したレゼアへ背を向けるような格好で、部屋の中央にあるベッドを取り囲んでいる。

 何をやっているんだ――まさか総帥は老衰なのか、というジョークにならない話を思い付いたところで白衣の集団は作業を終え、ぞろぞろと部屋から引き上げていった。

 最後までベッド脇に残っていた看護婦は、パック詰めされた鮮紅色の液体に緩衝液を添加していた。採取した血液が凝固しないための措置だと聞いたことがある。添加していたのはクエン酸塩か。

(採血か……? 一体どうしたというのだ、これは)

 ぼんやりと立ち尽くしていると、看護婦は作業を終え、軽い会釈とともに部屋を出ていった。

 ベッドの縁に座っていたのは小さな子どもだった。一見しただけでは男女の性別を間違えそうになる中性的な顔立ちだ。年齢は10歳くらいだろうか、採血されたばかりの細腕は絆創膏で止められている。

 その右腕は、レゼアの握力では本気を出さずとも折れそうだった。青白い肌には生気がなく、ひどく痩せた身体は見るに忍びない。

「――あぁ良かった! ちゃんと来てくれた。君がレゼア・レクラムだね?」

 陽気そうな男の声が跳ねた。

 部屋を仕切っていたカーテンの向こうから眼鏡の男が現れ、レゼアは同時に振り向いた。年齢は20代の半ばといった感じだろう。白衣は女性客の姿を認めると、にこやかな笑みで言った。

 レゼアは憮然とした態度のまま敬礼を作る。

「上層部の意向に従って出頭した次第であります」

「いやいや、堅苦しいのはよしてくれないか。あんまりそういうのは好きになれなくてね。僕はキョウスケ・フジバヤシ。普通にキョウスケって呼んでくれて構わないよ」

 色白の手を差し延べられて、レゼアはぎこちなく握手を返した。

「ところで、会わせたい人物というのは――?」

「この子だよ。急な話で本当に悪かったね」

 男の視線を追うと、その先にいたのはベッドへ横たわる少年だった。彼は話を耳からシャットアウトしているようで、少しの目配せさえしてこない。意識はあるようだが、ただでさえ細い身体はさらに痩せ衰えており、ところどころ紫色の痣が見える。虐待された形跡だろうか――と思ったが、詳しい話はわからない。

 キョウスケは恭しく続ける。

「こう見えても一応、彼は特務に所属しててね。特務第5班に」

「こ、こんな子が特務? ……と、失礼しました」

 予想外に大きな声が出てしまい、慌てて口元を押さえる。少年はそんな光景をチラリと一瞥しただけで、まるで興味がなさそうに視線を横へ逸らした。

 まるで病人みたいな男の子だ。彼が"特務"に所属しているなんて――信じろという方が無理に決まっている。こんなに痩せ細った身体ではAOFに乗れるワケがないし、高度な戦闘技術を身に付けているとも考えられない。

「だけど事実なんだ」キョウスケは肩をすくめて言った。「そこらへんは色々と複雑でね。後ろめたい事情もあるけど、話はまた今度」

「後ろめたい事情……? 私はどうすれば良いのですか。まさか彼のお守りなんて話はないでしょう?」

「その通り。君には1時間ほど彼の面倒を見てもらいたいんだ」

「はぁ!?」

「僕はこれから研究チームの打ち合わせがあってね。どうしても時間が――あぁっ! もうこんな時間じゃないかっ!」

 腕時計で現在時刻を得たキョウスケはバタバタと事務机へ戻った。鞄の中身をひっくり返して、会議に必要なものだけを詰めていく。

 レゼアは呆れ口調のまま言った。

「私は"特務"に異動の話を持ち掛けられたから来たんです。それが子供のお守りだなんて、話が違うにもほどがある」

「お守りではないよ。彼との相性を見たいだけなんだ」

「相性? ――ってまさか私が、彼と同じ特務第5班に?」

 そんなの無理だ、という言葉が出そうになって、レゼアは慌てて飲み込んだ。ベッドに横たわる少年を見る。彼は寡黙を保つだけで何も答えなかったし、レゼアと目を合わせようともしなかった。

 彼とパートナーを組んで仕事をするなど不可能だとレゼアは直感していた。ましてや、これほど儒弱な少年に自分の命を預けるなど無理に決まっている。

 荒くなりそうな口調に気を付けながら、

「特務は……私の調べた限りでは第7班までが存在していると聞きますが」

「ほう、良く調べたね。データバンクへのハックは成功したのかい。あのセキュリティシステムは創設者が雲隠れする前、つまり2年前のサーバ強化を最後にして変更されてないからね。たしかに特務は存在するし、7つの班に分かれている」

「だとすれば他にも候補はあるハズでしょう。わざわざこんな班を選んで所属するほど、私は献身的な人間ではありません。他班を希望します」

「異動の意思は、この1時間が終わってから決めてくれれば充分だよ。その間は彼の面倒を頼みたい。それと、君は異動を拒むことも出来るし、拒まないことも出来る」

「私は嫌ですよ、こんな子供と一緒だなんて。だいたい、彼が本当に特務だなんて……信じろという方がバカげてる」

 キョウスケは手の動きを止めた。右手はノートパソコンの代替バッテリーを掴んだまま鞄の上で停止する。

 レゼアは続けた。

「こんな子供が特務なんて上層部はどうかしてる。どう考えても人選ミスだ。もしかして本当にバカな連中なんでしょうか。創設者たちが2年前に雲隠れして以来、おかしな命令が立て続けに連発されたとも聞きますし」

「きみ、口が悪いのは控えた方がいいかな」

「ですが私の本心です。特務というのは上層部からの直接的な命令系統に従うのでしょう? だったら尚更、ちゃんとした人間を――」

「ここでの会話、すべて録音されてるんだ」

「――なんだって?」

 レゼアは思わず眉をひそめた。

 部屋での会話が録音されているだと? いったい誰が、何のために?

 思ったところでキョウスケは自分の唇に指を充て、左右に振って「喋るな」のジェスチャーを送った。

「とにかく僕は行くから。あとは穏便に頼むよ」

「私は特務第5班には入りません。キッカリ1時間が経ったら、今まで通りベルリン支部へ戻してもらいます」

 キョウスケは一瞬だけ眼鏡のレンズを光らせると、無言のまま部屋を出ていった。ドアを閉めかけた時、キョウスケが怖いほど真剣な目でこちらを注視しているのが見えた。

 救護室に残ったのはレゼアと少年の2人だけだ。彼女は溜め息しながら髪をクシャクシャに掻き、部屋に残った小さな相方へ目を向ける。

 少年は終始一貫して無言のままだった。生気の失せた目はぼんやりと床を見つめているが、焦点はどこにも合っていなさそうである。黒い髪は前髪だけが長めに切り揃えられており、下を向くと顔の半分が隠れてしまう。痩せっぽちで肩幅も狭く、背も小さい男の子――どうみても病弱そうな彼が、まさか特務だなんて。

 ――――ありえない。

(薄気味悪い子供だな……)

 レゼアは少年に対して近寄りがたさを感じていた。

 だがこれも仕事のうちだ。たった1時間が経てば、自分は元の部隊へと戻ることが出来るのだ。どうしようもない雑用かアルバイトを仕組まれたと思えばどうということはない。帰ったら部隊のメンバーに愚痴ってやってもいいだろう。

 レゼアは少年の隣、30センチの距離を空けて腰掛けた。ベッドの足、アルミ製のパイプが軋み音をたてる。少年は身をビクッと振るわせて、少しだけ後ずさりした。

 彼女はできるだけ静かな声で問う。

「きみ、名前は?」

「……」

「言えないのか」

「……ミオ」

 風が吹いていたら消えそうなほど弱々しい声で、少年は自らの名を呟いた。まだ声変わり前の1オクターブ高い声だ。

「年は?」

「…12」

「ホントか? まだ10歳くらいに見えるけどな」

「よく言われる…」

 会話終了。

 話すことがなくなって、レゼアは思わず頭を抱えた。

 少年を笑わすべく変な冗談をカミングアウトしても良かったが、おそらく彼にはウケないだろう。笑わせるどころか逆に泣かせてしまいそうで怖い。

 思わず部屋の中に視線を這わせる。窓際にはカレンダーが掛かっていた。

 あ、と1つだけ当たり障りのない話題が思い浮かぶ。

「何月生まれなんだ? というか君、誕生日は?」

「わかんない……」

「えっ? 誕生日だぞ誕生日。ケーキとか食べるだろ? ローソクとか立てまくってバーナーで炙ったりする一大イベントだぞ」

「やったことない……」

 しゅん、と少年はみるみるうちに萎縮してしまった。

 気まずくなったレゼアはまごつきながら両手を振り、慌ててフォローを付け加える。

「ま、まぁ誕生日なんて知らなくても別に…な。生きていけるし、そんな重要じゃないってか……他にも自分の誕生日知らないヤツだっているだろうし。べつに変なことじゃないよな!」

「うん」

「……」

 しゅんと縮まったまま首を頷かせると、少年は膝の上で作った握りこぶしを強くする。

 部屋が再び静かになった。換気扇の回る音だけが、まるで場違いのように鳴っている。

 自分の誕生日さえ分からぬ少年を、レゼアは少なからず不憫には思っていた。親を亡くしたのか、果たして孤児だったか――どのみち彼にとってはあまり詮索されたくない事項だろう。だが今の世界情勢を鑑みた場合、孤児というのは決して珍しいことではない。増加する人口に対して、社会という環境収容力――つまり人間を受け容れる組織や金、食物などは明らかに不足していたし、人口に対する病床の数は減っていくばかりだ。そういう中で軍に拾われただけ、彼はまだ運が良かったのだろう。

 この話題に近づくのはやめた方がいい、と内心で念じる自分の声は、どこか遠くから響いてくるようだった。

 彼とはわずか1時間の仲なのだ。この面倒が終われば、もう二度と擦れ違うこともあるまい。レゼアは元いたヨーロッパ支部旧ドイツの部隊へと戻り、ミオは "特務" として活動していくだけの、たったそれだけのことだ。だから彼のことは割と「興味のない」部類に収められていた。電車で隣に座る人だとか、同じエレベータに乗り込んで視線を合わせようとしない人たちとか、道端で方がぶつかりそうになった人とか、そういう程度の。

「ねぇ」今度は少年が訊ねた。か細い声である。「なんで、此処に居るの?」

 問われ、レゼアは一瞬だけ身動きを失った。

 少年の投げかけは、どうして来たのか、でもなければ、どうやって来たのか、でも無い。漫然とした問いに対して、正直なところ答え方が見つからなかった。何と答えれば良いのか分からない。

 痩せた少年の優しい翠色の瞳は、しかしレゼアの眸子を凝視していた。

「どうしてって、それは……」

 内心を見透かしたような問いに対して、レゼアは窮する。

 それが自分の仕事だから、といえばきっと正しい回答なのだろう。けれども心の奥底では何か違和感のような、果ては腹に小石でも転がっているような引っ掛かりを憶えていた。どういうことか。

 ――自分が此処に存在する理由。

 レゼアは、そうだな、と思い浮かんだことを口ずさんだ。

「自分がここにいる理由、か――それは随分と難しい問題だな。簡単には答えられないと思う」

 ふと呼気をつくと、少年は病衣の袖を握りしめた。癖になっているのだろうか、青色の服は袖の部分だけがやけにシワクチャになっていた。

「昔から何度も考えたことがあるよ。どうして自分が此処にいるのか――とか、どうしてこんな今が存在するのか、とかね。考えるとキリが無くなって、思考が堂々巡りになって、ワケが分からなくなって、諦める。もしも平行世界が存在するのであれば、今の自分ではない自分は何をしていただろうか、どんな世界で、どんな人間が隣に居るだろうかと」

 自分は今17歳だ、とレゼアは静かに告げた。次の誕生月で18歳を迎え、もう大人として扱われる。

 17歳であれば、一般的な世の中では自分に与えられた自由に戸惑う年頃だとレゼアは言った。与えられた自由度が大きいほど逆に戸惑い、苦しみ、やがて楽しみを見つけ、そして大人になっていく。それが普通なのだろう。きっと学校という教育機関を卒業して、大学にでも進んで、恋のラリーでも打ち合うような、そういう平和ボケした人生だって存在していたハズだ。

 だがそれはそれでいい。そういう可能性は充分にあったハズだろう。

「可能性という言葉が憎くなるよ、本当に。今の私は、今の自分ではない自分という可能性の、その大部分を捨てて存在するのだから。何者にもなれる可能性を排して、兵士以外の何者にもなれぬ私が存在しているというのはとても奇異な事実だ」

「ふーん……」

「だが仕方ないのかも知れん。私たちが生きているのはそういう世界なのだからな。君とてそうだろう?」

 レゼアが嘆息混じりに少年を見ると、彼は瞼をぱちくりさせた。その表情に違和感を覚えて、レゼアは至近距離で詰め寄る。

「ん? お前、目の色が……」

「な、なに……?」

「いや、気のせいか。ふと目の色が気になってな。親はアジア系か」

「そ、そうなのかな。良く知らない……」

 少年は怯えると前髪を指でつまんだ。レゼアはその様子を横目にじっと見る。

 彼の瞳の色は間違いなく黒だった。だが違和感を覚えるのはなぜだろう。瞳のもっともっと奥――深い部分に、まるで閃光のような翠を感じたのは、果たして蛍光灯の反射だろうか、しかし自分の見間違いだろうか。

 は、と吐息。

 レゼア・レクラムは昨日まで北欧を警備する部隊の一員だった。第二世代(セカンドグレード)と呼ばれる、4年後には使われることのなくなるAOFを駆り、仲間とともに領地(ベルリン)の警備・防衛に当たるのが仕事だった。入軍1年目、若冠17歳にして才能の開花を始めた彼女に、上層部から異動の話が持ち掛けられたのである。みずから進んで志願したわけではなかったし、ちょっとした「興味本位」程度のことだった。

 そのことを簡単に説明してやると、ミオは静かに頷いて言った。

「そっか……。わかった」

「きみには悪いけど、やはり私は特務には合わないよ。だから異動の話はナシかもな。ごめん」

「だいじょうぶ。気にしてないから……前の人も、ぼくのこと、嫌だって言ってたから……気味が悪いんだって」

「前の人? あぁ、私の他にも別の候補が居たわけか。でも失礼なことを言う奴だな。予め言っておくが、君は少し自分に自信を持った方がいい。だけど……今の君に命を預けられるほど、我々の命も安くない。その意味は分かってもらえるな」

「うん……」

 少年は弱々しい声で言う。

 申し訳なく思ったが、それがレゼアの正直な気持ちだった。荒事や裏稼業を専門とする"特務" にこんな男の子が所属しているなんて正気の沙汰とは思えなかったし、彼と組んで一緒に仕事をするなど、レゼアにとっては問題外のことだ。

 戦場に出ればいつ死ぬかも分からない。そんな時、彼のように弱々しく儚い同僚に命を賭けようなどとは、きっと誰も望まないだろう。

 "特務"という組織についてレゼアは良い噂を聞いていなかった。通常の命令系統から外れているというのは知っていたが、それ以外の情報は大半が黒い噂ばかりだ。平気で人殺しをする連中だとか、暗殺まがいの任務を受けるだとか――本部にあるデータベースを参照にしても、噂についての根拠は見つからなかった。つまりは上層部が何らかの理由により隠匿しているという可能性が高い。あくまでもレゼアの推測だが、それを否定できないのも事実だ。

 ASEEの中でも秘匿されている部隊。いつの間にか噂が広まって伝説的な存在に祀られてはいるものの、「公式には存在していない」のである。

(ということは――やはり何らかの悪いモーメントが働いているのは間違いない。2年前、一斉に雲隠れしたASEE創設者たち……そして新しい上層部によって統括される特務班、そしてミオ・ヒスィという少年……何か深いつながりでもあるのか?)

 ――と思いながら隣に居る少年を見ていると、レゼアはあることに気が付いた。

「それより、君こそどうしてこんな場所に居る? 君が "特務" に所属しているなんて、よほど大きな理由があったとしか思えないんだが。良かったら教えてくれないか」

「……言わなきゃ、だめかな」

 少年の瞳を真っ直ぐ見据えると、彼は素早く目を逸らした。前髪の隙間からのぞく黒瞳が思いっきり動揺している。

 彼はひととおりモジモジしたあと、ようやく口を開いてかすれ声で呟いた。

「ここ以外、行く場所なかったから……」

「そうか。私と同じだな」

「……もういい?」

「あぁ。満足だよ」

 レゼアは腕時計を眺めた。

 気づけば時刻は既に40分を経過している。少年と居るのも残り20分に満たないだろう。その時間が過ぎれば、彼女はいよいよ元の場所へと解放される。別れ惜しい気もするが仕方のないことだ。

 と、少年はベッドの縁から立ち上がった。裸足がぺたんと床につく。

「ちょっと部屋、もどるね……」

「あぁ、行っておいで。帰り際にはまた少し挨拶するよ」

 まるで保護者にでもなったような語調でレゼアは応じた。身体が小さかったせいで彼は実齢よりも幼く見えたし、年の離れた姉弟に間違われても仕方ない。

 両手で扉をゆっくり閉めたあと、ミオは廊下へ消えていった。部屋に残されたのは彼女ひとりだけだ。立ち上がって救護室の状況を見て回る。

 壁際にはガラス戸のついたスチールラックが置かれていた。棚は天板によって2段に仕切られており、上の段には痛み止めと外傷薬、絆創膏に湿布――が置かれており、下の段には内服薬がまとめて並べられている。

 ガラス戸の締まったラックの上には、金庫で出来た重い救命ボックスが載せられていた。

「ん? 中身は何だ……」

 蓋が南京錠でロックされているのを見ると、何か大切なものでも入っているのだろうか?

「劇薬でも置いてあるのか? まさか」

 そんなワケあるか、と苦笑。学校の理科室でもあるまいに。

 レゼアは上の棚を諦めると、再び部屋のなかを見回した。他に面白そうなものは置かれていない。キョウスケが使っていたであろうデスクは大半のものが片付けられていて、特に価値のありそうなものはなかった。

 手持ち無沙汰になって、レゼアはベッドの縁へ戻った。先刻まで少年が腰掛けていた場所はシーツの皺が出来ている。手で波を整えてやると、もう温かさは残っていなかった。

(アイツ……)

 残り時間は15分を切っていた。指定されている1時間はすぐそこだ。あと少し辛抱すれぱ、自分は今までの場所へ帰ることが出来る。

 深く考えるのはやめよう、とレゼアは首を横に振った。

 あの子にはあの子なり生き方がある。それに対して中途半端な干渉をすることは自分には許されない。おそらく彼の生き方は自分のそれとは違うのだ。だからどうしたと問われればそれまでだが、胸の奥が絞まるような痛みに駆られるのはなぜだろう。謂れのない痛みに襲われて、レゼアは思わず胸の央を押さえる。

 時刻は夕方になりつつあった。部屋が黄昏色に染まり、オレンジの陽光がガラス戸に反射して目が眩みそうになる。

 ノックの音がするとともに、レゼアは立ち上がった。

「お時間です」

 部屋に入ってきたのは黒服・黒眼鏡の男だった。リーダー格の後ろにはさらに2人ほどのSPが控えている。

 レゼアは廊下に出ると周辺を見渡して、

「キョウスケは?」

「打ち合わせが延びているため時間内には戻れないとのことです。伝言を1つだけ申し上げます」

「いや、言わなくていい。私は"特務"には入らないからな」

「……かしこまりました。ではヘリまでお見送りします」

 事務的なやり取りが済むと、男たちは踵を返して背を向けた。レゼアが慌てて呼び止めると、彼らは疑問の表情を浮かべて振り返った――ような気がした。彼女はこめかみのあたりを指で掻きながら、

「あー、ちょっとだけいいか? 少しだけ挨拶をしていこうかと思ってな」

「それは無用のことでは?」

「いや、でも……アイツ、途中で自分の部屋に戻っちゃったんだよ。だから、帰り際くらい挨拶しておこうと思って」

 男たちは一瞬だけ顔を見合わせると、すぐに了承してくれた。

 ミオの部屋番号を教えてもらったレゼアは黒服たちと廊下で別れ、すぐに少年のいる部屋へ向かう。

 艦内は随分と寂しい構造だった。戦役を引退した旧式艦とは知っていたが、もしかすると他に乗員は居ないのかも知れない。番号札の取り外された部屋がならび、長く清掃されていない廊下は歩くと足跡が残るくらい埃が積もっていた。

「ここだな」レゼアは扉をコンコン叩いた。「私だよ。ミオ、いるか?」

 しばらく経っても返事は戻ってこなかった。

「もしかして戻ってないのか? 帰り際に挨拶だけと思ったんだが……」

 やはり返事は無い。いったいどうしたものか――と彼女は首を傾いだ。これでは別れの一言も台無しになる。

 背を向けて立ち去ろうとすると、部屋の中から咳き込むような音が聴こえてきた。彼女は驚いて振り返ると、ドアの前で訊ねる。

「ミオ? 居るのか?」

「だ、大丈、夫……気にしないで」

 咳は止まるどころか、段々とひどくなっていくようだった。咳の音が湿り気を帯びていく。本当に大丈夫か――と問おうとして、レゼアは思わず口をつぐんだ。毛布か何かによって口元を押さえたのだろう、咳は急にこもった音になる。

 病弱そうな蒼白い痩躯を思い出すと、胸の中に痛みが押し寄せてきた。

 ぐ、拳を作って奥歯を噛む。

 彼には何かしら後ろめたい事情があるのだろう。知ってみたいとは思ったが、そのために自らを犠牲として投げ出すほど、レゼア・レクラムは愚かではなかった。彼の持っている「深さ」と「暗さ」を知ってしまえば、自分は二度と元の生活には戻れなくなってしまう。

 だから自分の選択はやむを得ないことなのだ。まるで言い訳のように聞かせると、一枚の扉を隔てた廊下側から彼女は言った。

「私は……私はこれから元の場所に帰るよ。できれば君の力になってあげたいとは思ったがね。いろいろ大変だろうけど、うまくやれよ」

 返答は無かった。

「じゃあな。また運が良かったら、お互いにいつか会おう」

 返答は無かった。

「……ミオ?」

 返答は無かった。

 もう一度だけ少年の名を呼ぶ。しかし反応はなかった。

 耳を澄ませると、部屋の中からは小さな呻き声が漏れてきた。まるで声にならない叫びのような、あるいは泣きじゃくっているようにも聞こえるそれは、しかし苦しみに煩悶しているようにも聞こえる。

「ミオ?」

 ――異常事態(トラブル)だ。

 サッと血の気が引いたのが分かる。

「お、おい、ほんとに大丈夫か?」

「ぅ……」

「待ってろ、いま開けるからな!」

 ガチャガチャとドアノブを回す。が、中からロックが掛けられていて扉は開きそうにない。

 鍵を探しに行っているだけの余裕はない。これが仮に発作だとすれば、1秒でも早く対処しなければ手遅れになる。

 レゼア後方へ助走――扉に向かって疾駆した。お願いだからドアから離れてろよ、という祈りとともに跳躍。

 思いっきり――扉を蹴破った。

(……!)

 大きく凹んだドアは部屋の奥へと吹っ飛び、壁に激突して大きな音を立てた。粉砕した破片が床にこぼれる。

 部屋の中は真っ暗闇だった。戸は完全に閉めきられていて、外からは完全に遮光されている。廊下に射し込んだ陽のお陰で辛うじて見えた点灯スイッチへ手を伸ばすと、レゼアはすぐさまスイッチを叩いた。

 蛍光灯が点く。部屋が明るくなった。

 ミオの小さな身体は、部屋の真ん中に横たわったままシーツでくるまれていた――否、発作を起こした際に自分の手でベッドからシーツを引き寄せたのだろう。白い布地はしわくちゃになっていて、顔の近くにあった部分は冷たく濡れていた。

「おい、しっかりしろ!」

 レゼアは少年の細い痩躯を揺り起こした。すっかり力の抜けた首は、彼女の腕にしたがってガクガクと上下する。

 うっすらと開いた目には涙が浮いていた。その周りは青色の隈が出来ていて、だらしなく開いた唇の端には泡ができている。容態の悪さがダイレクトに伝わってきて、彼女は青ざめた。

 レゼアは少年の目蓋を指でこじあけた。意識を確認するための手段だったが、その焦点は合っておらず、瞳孔はクッキリと開きっ放しの状態だ。光に対して収縮する様子はない。

(こ、こいつは……!?)

「おねぇ……、ちゃん…どこ……」

 ふと耳元で声がして、レゼアは真っ直ぐに見てしまった。

 フォーカスの合わない虚ろな眼。その黒い瞳の、さらに奥深くにある――もっと昏くて深い何かを。

 しかし、彼女が感じたのはその色だけではなかった。

(――翠?)

 黒く塗り潰された色のなかに、ふと明るさを得る。

 具体的に良く理解できたとは思えないが、レゼアは直感的にそう感じていた。真っ暗闇の中に浮かぶ、明るい翠色をした灯のようなイメージだ。

 少年は中途半端な意識のまま、真っ直ぐに手を伸ばしてくる。が、その指先は虚空を彷徨っただけで、目の前にいるレゼアへ触れることさえ叶わない。

 彼女は少年の手を掴んで引き寄せ、強く握りしめる。

 少年は泣き笑いのような表情をつくった。細く閉じた目から、ひとすじだけ涙が溢れる。

「おねえちゃん…そこに、いる……?」

「あぁそうだ、私がお姉ちゃんだ。だからしっかりしろ」

「うん…うん……」

 咄嗟に唇を衝いたのは嘘だった。

 幼さの残る手を握ってやると、少年は安堵の表情を見せた。

 ぐったりした身体を背に負って、レゼアは部屋をあとにする。痩せた身体は重くない。

 ミオはまるで赤子のように、しっかりと袖を掴んできた。息が首筋にかかる。熱をもって火照る顔は熱い。

 気にせず立ち上がると、彼女は救護室へ急いだ。応急処置くらい何とかなるだろう――と望んだ彼女は、まだ部屋前の廊下にいた黒服たちへ呼び掛ける。

「おい、急いでキョウスケを呼んできてくれ!」

「はっ? し、しかし……」

「緊急なんだ! 早くしろっ!」

 まるで怒鳴り声のように叱咤すると、男たちは泡を食って走っていった。

 背中に乗せた少年をベッドの上に降ろす。額にはびっしりと脂汗が浮いていて、呼吸のテンポは速く、そして浅いものになっていた。

 このままじゃマズい――と焦るレゼアの元で、少年が小さな声で呻く。

「きょう、すけ……」

「何っ? どうした?」

「おくすり、くれるって…言ったのに……」

 薬――という単語を耳にして、レゼアは小さく息を呑んだ。

 さっき瞳孔の収縮を確認した際にうっすらと感じていたことだが、残念ながら自分の予想は当たってしまったらしい。こいつは予想外に面倒だ。

 レゼアは壁際に設置されたアルミ製のラックへ駆けより、ガラス戸を引き放って薬品の瓶を物色する。が、しかし棚に置かれていたのは内服薬と外傷薬ばかりだった。

 くそ、と毒づく。

 キョウスケはまだか――と苛立っていると、廊下を走ってくる音が聞こえた。

「――ミオ!」

 白衣をまとった眼鏡姿の男だ。彼は入り口の扉付近に荷物を投げ出すと、ずかずかと部屋に入ってくる。

 薬品棚の前にいたレゼアを押しのけて、その上にあるボックスを引き出した。

 ポケットに収められていたキーで南京錠を解くと、箱の中に入っていたのはラベルのない薬品のボトルと、針の細い注射器(シリンジ)だった。それぞれ1本ずつしかなく、どうやらセットで使う物なのだろう。

「ごめんな。僕が悪かった、恨まないでくれよ――」

「お前、いったい何をするつもりだ……?」

 レゼアの言葉を無視するようにして、キョウスケは注射器でボトルの中の薬物を吸い上げていく。ラインを少し超えたあたりで押し子の動きを止めると、彼は針の先端を少年の下腕へ持っていった。

 ごめんな、と再び呟くと、針の先端は肌の中へと飲まれていく。少年は一瞬だけ痛みを訴えたが、やがて表情を恍惚に喘がせる――荒かった呼吸は収まり、ブレたままでいた焦点が元通りになった。開きっ放しだった瞳孔は言わずもがなだろう。

「それは……いったい何の薬だ」

 レゼアは低い声で、毅然と問うた。

 キョウスケは訊問を無視して注射器を片づけた。針の先端を折ってティッシュに丸めた状態で捨て、新しいものをプラスチックケースから取り出し、元のシリンジへ装着。先端を同じようにティッシュでくるんでおく。随分と手際の良い動きだ。

 彼はボックスの中へ薬品ボトルと注射器を仕舞うと、少し疲れたように事務机へ着席した。

 デスクマットの上に肘を載せ、頭を抱えて沈黙する。

「ただのビタミン剤だよ。彼は栄養不足に陥りやすい性質でね」

「嘘をつくな、あれは間違いなく薬物の禁断症状だった。血液接種は経口接種よりも体内への循環が早いからな。効果も強い。すぐに分かる」

「……」

 暫くしてから、キョウスケは小さく呟いた。

「彼の秘密……知りたいかい?」

 レゼアは少しだけ迷ったあと、静かに首を頷かせた。

 あのボトルに入っていたのは間違いなく禁止薬物(ドラッグ)だった。接種の方法と、少年の変貌を見れば容易に推察できることだ。シリンジを用いた直接薬物投与は身体へ大きな負担が掛かる接種法のハズで、万が一これを続けているとしたら、ミオの身体は近いうちにボロボロになるだろう。

 歯が抜け、髪が落ち、眼が窪んで舌も回らなくなり、恍惚とした表情で叫び狂う――そんな光景を想像して、レゼアは思考を封じ込めた。

 キョウスケは時間をかけて言葉を選んだ挙げ句、弱々しい声で言う。

「彼は……強化された人間なんだ」

「なんだって?」

「4年前、世界はASEEと統一連合の両勢力に分断された。いや、正しく言えば、統一連合国家として世界がひとつに合併しようとしたとき、自ら望んであぶれた組織がある。それが現在のASEEだ」

「それは知ってる。自ら望んで仲間外れになった少数派の集合体、ということだな」

「そういうことになる。では、なぜ自ら仲間外れになったか、分かるかい?」

 それは、と口をつぐんで、レゼアは思考を巡らせた。

 人種や宗教、経済など、挙げればキリがないほど諸々の理由が考えられるだろう。明確な回答は浮かばなかったが、彼女は知る限りの答えを集約した。

「文化面・思想・経済面での対立が激しかったから、ではないのか?」

「……君は聡明だと思っていたんだけどね、ちょっと意外だ。ヒントは君の目の前にあったのにね」

「禁止薬物か」

「それも惜しいけどね。違うよ」

 キョウスケは顎でベッドの方をしゃくった。つられてレゼアも見る。

 少年はベッドの上で小さく丸まったまま、ぼんやりとした表情で天井を見つめている。さっきまで苦しんでいたのがまるで嘘のようだ。

 彼を見た途端、レゼアの脳裏を閃光の如く駆け抜けるものがあった。キョウスケが口元を笑みに歪ませる。

「まさか……」

「いま君が思った通り、ASEEは以前から強化人間のプロジェクトを推し進めていた。資源の少ないASEEは、AOFの開発よりも安価に、省資源で最強の兵器を生もうとしたんだ」

 キョウスケはそこで言葉を区切った。椅子から立ち上がると部屋の中をゆっくりと闊歩する。

「百人規模の身寄りのない子どもたちを使ったプロジェクトは|運命づけられた子どもたち(フェイテッド・チルドレン)とも呼ばれた。とある研究施設の地下を使った実験は長期に渡って行われてきた。それが公表されるを防ぐため、ASEEは世界から孤立する道を選んだのさ」

「バカな! そんな理由で世界中を敵に回したっていうのか――上にいる人間の保身が目的じゃないか、そんなもの!」

「上層部の意向にはそういう色もあったんだろう。だけど実際には、実験中の子どもたちを棄てるのが惜しかったんだ。大切な費用を掛けて創った彼らを無駄にすることになるからね」

 言われてレゼアは黙り込んだ。

 ASEEが統一連合に組み込まれる――それが意味することは、強化された子どもたちの存在が揉み消されるということだろう。用済みになってしまえば、彼らはまるでゴミのように投棄されてしまうのだ。

「こう考えるのはどうだろう。ASEEは内密に、しかも水面下で最強の兵器を作っていた。それさえあれば世界を統べることの出来る最強の兵器だ。そんな貴重な物を作っている途中で自分たちが支配される側の構造に組み込まれるなんて、納得がいくかい?」

「人間が…兵器だと……?」

 レゼアは思わず震えた。

 ASEEは最強の兵器を作っていただけではない。役目を終えれば土に埋められるという、使い捨ての最強兵器を作っていたのだ。

 キョウスケは続ける。

「彼に与えられたミオ・ヒスィなんて名前も実は仮のものなんだ。彼の本当の名前は、コード:00E 認証ID:00A581FFEの――」

「お前っ…どこまでフザけたことを…!」

「だけど事実さ。彼に肉親は居ない。兄弟姉妹もない。彼を知るものはこの世界に1人もいないんだ。彼を孤児だと思ったかい? 残念だが彼は違う。生まれるべくして生まれた兵器だよ。ヒトじゃない」

 キョウスケは冷然と言った。

 名前など何の価値もない、と言わんばかりの態度だ。自らを繋ぎ止めるものがなければ、たしかに名前など記号に過ぎぬ。

 彼らは番号で呼ばれていた――それは残念だが事実なのかも知れない。計画に巻き込まれた大半が身寄りのない子どもたちだったというならば、1人ずつに名前など与えずに「番号」という規則で統制した方が遥かに効率が良い。

 ミオもその中の1人だったのだろう。いつ棄てられるのかも分からず、狭い場所に押し込められ、いつの間にか正常な感覚を奪われてきたのだ。「大人たち」によって。

 先刻、ミオの瞳の奥に見た昏くて深い何か――それは間違いなく、圧倒的なほどの大きさをもつ「死への恐怖」だった。

 彼にとっては死ぬことが死ぬほど怖いのだ。

 だけど――それだけじゃない、とレゼアは思う。

 黒い闇の中に一瞬だけ見えた、翠色をした灯火。小さかったが、それは強くて消えない輝きを持っていた。

 そして、自分はそれが何かを知っている。

「強化人間っていったい何なんだ…今までにどんなことをされてきたんだ……」

「戦闘兵器としては君の想像を絶するほどの訓練を受けてきた。薬物投与によって極限まで感情を削ぎ落とし、不必要な記憶は切除された。こう見えても100名前後の候補の中で、最も優れていたのがミオだ。だから彼は生き残った。他の子ども達の命を置き去りにしてね」

「お前もその計画に携わっていたんだな。目の前で子ども達が苦しんで死に絶えていく前で、平然とそれを眺めていたんだな」

「僕だって好きで参加していたワケじゃないさ。だけど――」

「だからって傍観していたのかよ! フザけんな!! それが大人のやることかよ!!」

 ガラス戸や窓がビリビリ震えるほどの声で、レゼアは喉の奥から叫んだ。驚いたミオが小さく跳ね上がり、目を見開いてこちらを見る。部屋が録音されていることなんて最早どうでも良かった。それよりも正さなければならないことがあると感じた。

 今の話が事実だとすれば、自分は歪みを正さねば気がすまない。

 男の胸ぐらを掴んだままありったけの腕力で持ち上げると、彼女はその身体を壁際に叩きつけた。

「こんなに幼い子どもをクスリ漬けにして! まるで道具みたいに扱いやがって! お前たちはこの子から夢も希望も、愛も優しさも総てを奪い取って、世界が暗くて寂しいってことだけを与えたんだ! それが本当に、大人のやり方だっていうのかよ!!」

「くっ! "失敗" かな、これは――」

「なにが失敗だ! いい加減にしろバカヤロウ!」

「――ミオ、この女を殺せ。命令だ」

 背後で動く気配がしたのと、レゼアが振り返るのは同時だった。

 少年の身のこなしは素早かった。ベッドの枕元に置いてあったボールペンを掴んで、先刻とは対照的な形相で肉迫する。

 ペン先が狙ったのはレゼアの心臓部だ。

 ヒュ、と風を切るような音がして、ボールペンの尖端が深々と突き刺さる。肉と骨を貫通する嫌な音がひびき、正方形の部屋に静寂が満ちた。

「大丈夫だ。痛くないぞ」

 重く沈んだ声でレゼアが言った。は、と呼気する。

 少年は一瞬だけ身をすくませると、ペンを引き抜こうとした。突き刺さった部分からぬめりけのある粘着音がする。どうやらトドメを刺すつもりなのだろう。

 彼女は苦笑しながら、その腕を優しく包んだ。

 ボールペンはレゼアの右手、ちょうど甲の部分を深々と貫通していた。もう少しだけ反応が遅れていたら彼女の命は危うかっただろう。現に鮮血に染まった尖端は、胸部から数センチのあたりで止まっている。

「大丈夫だ。痛くない。ぜんぜん痛くないから…な」

 残った左腕で、少年の身体を優しく抱き寄せる。

 痩せた細身は、まるで濡れた仔犬のように震えていた。耳元で泣いているのが分かる。彼女は左腕の力を強めた。

「私は痛くないから大丈夫だ。君の背負った傷と比べれば、大したことはない」

「あ…、あぁっ……ごめん、なさい……」

「よく真っ暗な闇の中を歩いてきてくれた。きみに出会えて嬉しい。ボロボロになりながら、傷だらけになりながら、深く、昏い世界を見てきただろう。もう安心するといい。世界は暗くないってことを、世界はこんなにも明るいということを、私が教えてやる」

「――」少年は表情を引き攣らせて嗚咽した。

「だから、君に私の全てを捧ごう」

 レゼアは胸に誓った。その腕の中には、たったいま生まれ出た赤子のように泣きむせる少年がいた。

 この子が見ている世界を変えてやろう。

 世界は真っ暗ではないことを必ず証明してやる。

 どれだけの月日が掛かろうとも。

 たとえ永遠になってしまったとしても――。

 彼女は静かに立ち上がった。抱き締めている少年に悟られぬよう、手の甲に刺さったボールペンを引き抜き、キョウスケに向かって投げ捨てる。ペンは床に転げて赤い飛沫を残した。

 は、と吐息。傷ついていない方の手で翠色のロングヘアをくし上げる。

 そして冷ややかな視線とともに言い放った。

「今から特務第5班に所属するレゼア・レクラムだ。彼の統括権を私に寄越せ。――これは命令だ」


 これが、2人の始まりだった――

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ