多様性
「〜も認めるべき。多様性が大事である」というような論調を見かけることが増えました。
最近のトレンドワードかな、と思うのですが。
多様性って、難しすぎませんか……。
「〜も認めるべき。多様性が大事である」というような論調。
個人的にモヤモヤするのですよ。
認めることも認めないことも、等しく「多様性」ではないのですか? と。
すごく令和の時代に合っている言葉だとは思うのですが。
多様性は他者に意見を押しつけることができないのです。
ありのまま、あるがままの他者を受け入れることが、多様性に繋がります。
自分とは相容れない場合、受け流すしかありません。
自分の意見を述べることは認められておりますが。
他者の意見を批判したり、他者の行動を変えようとしたりしてはならないのです。
だからといって。
多様性を語るとき。
「〜も認めるべき。多様性が大事である」なんて言っている奴はダメだ!
〜を認めないことが多様性であるという事実が欠落している! 矛盾だ! なんてことは言えません。
「〜も認めるべき。多様性が大事である」という意見も多様性のひとつですから。
いや、前言撤回します。
言っても良いのです。
それもまた、多様性のひとつですから。
もう、頭がパンクしそうです。
人間としての器が試されているような気持ちになりますよ。
多様性という言葉を出した時点で、他者を否定することができなくなるのです。
他者がどう考えても自由。
たとえ犯罪者であっても、個人として尊重する世界であります。
ただ、肯定できないようなケースもありますね。
その場合は「一定数、そういう人がいるのも仕方がない。良いか悪いかではなく、多様性としてね」と言って、野田は逃げることにします。
逆に、多様性は言い訳に使うのであれば便利な言葉ですよ。
大抵のことは「多様性のため」で乗り切れます。
学校の成績が悪くても「多様性のため」。
うだつの上がらない会社員でも「多様性のため」。
料理が下手でも「多様性のため」。
ダメな母親でも「多様性のため」。
くだらないエッセイを、なろうの片隅で書いていても「多様性のため」。
もはや、野田が生きている意味も「多様性のため」。
どのような絶望的な状況に陥ったとしても、悲観することはありません。
そのこと自体に、悲観するべきかもしれませんが。
とりあえず。
「どうして私を産んだのか」と子どもに問い詰められることがあったら、「多様性のため!」と答えることを野田は決めております。




