ナイフの場所 心のありか
ラウロは、親しい身内を呼んだ、ガーデンパーティーで喜びを噛みしめていた。
うちの奥さんは、なんて綺麗で、可愛いのだろう。
今日も今日とて、真っ赤に塗られた唇に、唇を重ねることなどできるはずもなく、宣誓のキスも額に落としてしまうような、度胸のない男だという自覚はある。冷たい視線に負けたつもりはない。ただ、あの赤い口紅を、コルネリアが人前で取ることはないのではないかと思った。
「ラウロ」
「母上」
アンティークのウェディングドレスは、コルネリアによく似合っていた。妹と、友人たちとシャンパンを交わすコルネリアは、人形めいた美しさの微笑みを浮かべていた。冷たいとも取られかねない美しさは、コルネリアの顔立ちが原因ではなく、おそらくは、あの芯の強さが原因だろう。
「ラウロ!」
「……何ですか?母上」
「どうして、あなたは……もう、いいわ。それより、あのことですけどね、」
「母上、今日は、僕たち夫婦の結婚式ですよ。それに、あの話は終わったことです」
父は、母の後ろで、ラウロの様子をうかがっていた。できれば、母の要望を通してほしいと言った父だ。ラウロの味方にはならないだろう。そもそも、ラウロには愛人を作る気はなかったし、よりによって、母が選んだのが元婚約者に似た容姿であると分かれば、絶対に承知するつもりはなかった。コルネリアの感情を揺らしたいという気持ちはあったが、こんなことで、傷つけて、感情を揺らしたいわけではない。
「……ラウロ」
「母さん、なんの話?」
「イヴェッタ!その呼び方はやめなさいって言ってるでしょ?」
「いいじゃない。今更、取り繕っても」
コルネリアほどではないが、ロスティヴァレ王国の女性の平均よりはいくばくか高い身長の姉が、母を見下ろしていた。コルネリアと違うのは、大きな口で笑うところと、すこし骨格ががっしりしているところだろうか。コルネリアの方が身長は高いはずなのに、小さく感じるのは、華奢だからだろう。
「ラウロ、今、なんか失礼なこと考えてた?」
「いやいや、姉上、まさか」
「姉上、なんて呼び方やめてよ。気取ってるの?」
「姉さん、今日は、僕の結婚式なんですから、少しくらい気取らせてくださいよ」
「そりゃ、一国のお姫様みたいな奥さんだもんね。でも、あんたが、逆立ちしたって王子様にはなれないんだから、やめときなよ」
「イヴェッタ!!」
母にとっては、王子様という発言は、オズヴァルドを思い出させる禁句のようだった。イヴェッタも、ラウロも肩をすくませる。
「ラウロ、だが、本当にいいのか。オルテンシアが、道筋をつけたというのに」
「それは、余計な世話というものです」
ずっと、黙っていた父が、静かに深く響く声で呟いた。その声は、はからずも、通ってしまったようで、コルネリアが一瞬、振り返る。レオノーラも何かに気づいたようで、コルネリアの手を引いた。レオノーラの大きくなったお腹を案じてか、コルネリアはすぐにかがんだ。コルネリアの耳に、レオノーラが何かを囁き、わずかに目を伏せた。
「……母さんも父さんも、なに見て来たのか、知らないけどさ。コルネリアなら、大丈夫だと思うけど。」
「あなたに、何がわかるの!あの子が、顔合わせでどんなに冷酷なことを言ったか知ってるの?」
「知らない。でも、私、ラウロの人を見る目は確かだと思ってるの。そのラウロが、コルネリアがどうしても良いって言うんだから、ほっときなよ。ラウロだって、いい大人なんだから」
コルネリアは、レオノーラに困ったように微笑んだ。その赤い唇を、なめるように見ているとわずかに動いた。
悲しくなんて、ないわ
そう動いたのが、見えて、ラウロは言いようのない感覚に襲われた。
悲しくなんてない。
それは、ずっと、我慢に我慢を重ねて、妹の幸せを優先し、王子様さえ譲った姉の絞り出した言葉だと思ったからだ。
誰か、あの人を、抱きしめなかったのだろうか。
家人の誰も信用できないコルネリアを、誰か、抱きしめて守ろうとしたのだろうか。
誰にも守られなかったコルネリアを、すべてから守り、抱きしめるのは自分でありたい。そんな気持ちに駆られていると、ゆっくりと手を叩く音がした。馬鹿にしたような、ゆっくりとした拍手に、ラウロもイヴェッタも、父も母も振り返った。
「さすが、イヴェッタ殿は、よく見てらっしゃる。あなたに感心させられるのは、学生時代に私から最後の最後で主席を掠め取った時以来ですね」
「あら、エジェオ、久しぶり」
「遅れて入学したあなたに、親切にしたことを後悔した日もありましたよ」
親の反対を押し切って、全寮制の学園に入ってきた姉が、エジェオの親切を嫌っていたのは知っている。あまり人を悪く言わないイヴェッタが、エジェオを苦手としているのは意外だった。
「それで、ラウロ、お前、分かったのか?」
「……あー。なんとなくは、分からなくはないけれど、態度の理由は最後までは、分からないな」
「お前、姉上が欲しくないのか?」
人を見る目は確か、察しも悪くないが、頭が悪いというのは致命的だ
そう呟いた瞬間に、母の額に青筋が立った。これ以上、バルベリーニ侯爵家に悪い印象を持たせるのはやめてほしい。
「……もちろん、欲しい」
「なら、考えろ。ヒントはたくさんあっただろう?」
「ヒント?」
「姉上とレオノーラの関係は?レオノーラが欲しがるものはなんだ?姉上が王子様と呼ぶのは誰だ?姉上が、オズヴァルドに恋をしたのはいつだ?」
オズヴァルドに恋をした、そう言われると胸にナイフを突き立てられたようだった。
「ちゃんと考えろ」
突き立てられたナイフは見事に、心臓に突き刺さった。心のありかは、どこだか分からない。でも、今は、心臓にあるのではないかと思う。ナイフが刺さっても動き続ける心臓は、拍動するたびに、血を噴き出して、ラウロの体から血を奪っていった。
コルネリアが、再び振り返った。その瞳には、ラウロは映っていなかった。




