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聖母の慈悲 闇の中




 「1年前……」


 オズヴァルドがいなくなって、すぐに、ラウロは小さく呟いた。ほとんど吐息と変わらない声量だったはずなのに、コルネリアは、その声に振り返った。もしかしたら、最初から気づいていたのかもしれない。ラウロの頬はほんの少し引きつった。


 「立ち聞きとは、さすがは商会を営む立派な伯爵家のご令息。とても真似できない、良いご趣味ですこと」


 一歩も動けずにいると、真っ白なウェディングドレスが視界に飛び込んだ。


 「お姉さま!」

 「レオノーラ様!お待ちください!新婦がこのような……レオノーラ様!」

 「お姉さま、行かないで!」

 「レオノーラ、落ち着きなさい」


 コルネリアに抱き着いたレオノーラは、春の妖精のように愛らしかった。ウェディングドレスを着たレオノーラは、光り輝かんばかりの美しさで、いつもよりも数段まぶしく見えた。


 「お姉さま、私を置いていかないで」

 「レオノーラ、落ち着いて。体に良くないわ。私は、どこにも行かないから」

 「でも、ドナテッラが、お姉さまとはしばらく会えないって。オズヴァルド様の領地に行かなければならないから、会えなくなるって」

 「……そんなことないわ。私とあなたは姉妹ですもの。いつでも、好きな時に会えるわ」


 焦燥しているレオノーラに、ラウロは面食らった。レオノーラの言動はひどく矛盾している。領地に行くのは、レオノーラで、置いていかれるのは、どちらかと言えばコルネリアの方だ。


 「落ち着いてちょうだい。レオノーラ、今日の主役なのだから、そんな顔しないで」

 「お姉さま、じゃあ、教えて。お姉さまは、本当にちゃんと、天使が欲しかった?」

 「レオノーラ。それは、今じゃなくても、」

 「今!今、教えて!落ち着かせたいんでしょ!?それなら、教えて!」


 レオノーラは、抱きしめているコルネリアの胸を突っ張って、離れた。その乱暴な動作に、ラウロは思わず一歩近づいた。レオノーラのメイドたちは、おそらく身を呈して、レオノーラを守るが、コルネリアのメイドがそうするとは限らないと思っていたからだ。


 「分かったわ。だから、落ち着いて、声を落としてちょうだい。」

 「……本当に、天使が欲しかったの?」


 取り乱しているレオノーラは、目に涙を浮かべて、息を荒くしている。


 「ええ、欲しかったわ」

 「本当に?本当に、教会の天使のような子が?」

 「ええ、そうよ」

 「でも、私がそれを叶えても、お姉さまは羨んでなんかいない!」

 「レオノーラ!」


 コルネリアは、レオノーラをしかりつける様に語気を強めた。天使のような子を、コルネリアは望んでいた。それを、レオノーラが叶えたということは、つまり、その腹にはすでに、子どもがいる。それも、おそらくオズヴァルドの子どもだ。あの屋敷が浮ついていたのは、これが原因か。ラウロは、思いがけず知ってしまった秘密に、わずかに狼狽えた。貞節を大切にする我が国では、この秘密はいささか人の耳目を集めてしまうだろう。


 「どうせ、すぐ知られるわ。お義兄さまなのだから」


 だから、コルネリアは、しかりつけたのだ。


 「お義兄さまは、あの教会に、お姉さまと一緒に行かれたのでしょ?」


 あのお姉さまの大切な教会に。レオノーラの声はいつもと変わらない、愛想のいいものだったけれど、そこには隠しきれない悍ましさのようなものがあった。ただの嫉妬と呼ぶには、身の毛もよだつような、恐ろしい何かだった。


 「……勝手についてきただけよ。」

 「でも、そこで、見たでしょう?ステンドグラスの美しい天使様を。」


 ラウロは、レオノーラの開ききった瞳孔が、らんらんと光るのを見て、恐ろしくなった。婚約していた1年間で、自分は、この子の何を見てきたのだろうかと思った。結局、ラウロは何もわかっていないということを、突き付けられた気がした。


 「お姉さまは、あの天使のような金髪碧眼の子が欲しかったのですって。そうよね、お姉さま?」

 「……ええ、そうよ」

 「でも、もう叶わない」

 「ええ、そうね。私は天使のような子を得られないでしょう」


 ラウロは、教会のステンドグラスを思い出していた。不釣り合いなほど立派だったステンドグラスに、確かに天使がいたはずだが、詳細を思い出すことはできなかった。でも、天使のような金髪碧眼とレオノーラが言った。つまりは、コルネリアが欲しがっていたのは、オズヴァルドとの子どもだ。今までになく、痛くなった。心のありかが分からないから、どこが痛いのか正確には分からなかった。でも、心臓は、掴まれたみたいにギュッと痛くなったし、内臓の至るところを刺されたように、立っているのさえ、苦しくなった。


 「でも、お姉さまは、お義兄さまとの間に子どもを得られる……そんなのって、そんなのって、ないわ。お姉さまは、私を、」

 「いい?レオノーラ」


 レオノーラは、何を取り乱しているというのだろうか。何をそれほど怒っているというのだろうか。王子様、そう称するほど愛していた婚約者を奪われ、その人との間に望んでいた子を奪われ、それでも妹を愛しているコルネリアこそが、怒りたいはずだ。コルネリアに子どもができる未来を想像して、レオノーラがなぜ、それほど怒るのか、分からない。それこそ、姉は、望んでいない人と結婚し、望んでいない人との間に子どもを作る羽目になっているというのに。


 「私は、天使が得られないのならば、自分の子なんていらないわ。」


 今まで、聞いた中で、一番、痛い拒絶だったかもしれない。ラウロは、息をわずかに吐き出した。それを、コルネリアは汚いものでも見るような目で見た。


 「幸い、あなたのお義兄さまも、元婚約者に未練があって、あなたによく似た女性を愛人にする算段をつけているようですから。」

 「え」


 今度こそ、声を吐き出すと、コルネリアはより一層、憎らしそうにラウロを見た。その二人の様子を見て、先ほどまで、取り乱し、息を荒げ、可愛らしい顔を歪めにゆがめていたレオノーラは、ほっと安堵して、そして、取り乱したことを恥じたように微笑んだ。


 「まあ、お義兄さま、最低ね」

 「え、いや、そんなこと」

 「レオノーラ、落ち着いた?」

 「……ええ、お姉さま、ごめんなさい。私、急に不安になってしまって」

 「誰でも、不安になるものだわ。生まれた家を離れて、嫁ぐんですもの」

 「ええ。ええ、そうなの、お姉さま。ごめんなさい」


 さあ、行きましょう。レオノーラを導く、コルネリアは、慈悲深い聖母のように微笑んだ。その微笑みは、どこまでも優しいが、どこまでも深い闇のようでもあった。2人の闇の暗さに、ラウロは、その場から一歩も動けなくなった。



 


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