第四章:赤い月夜と蝙蝠17
高らかに響く竜琴の音。
甲高く眩暈を起こしそうな異国の旋律は、エスタニアの上流階級には下賎だと罵られ、上層街では聞かれることはない。
ましてや、ここはエスタニアの白バラと呼ばれた城だ。
竜琴の存在さえないはずだった。
けれど、稀代の彫刻家、アルシニオンのレリーフに彩られた豪奢な扉の向こうからは確かにその旋律が聞こえてきた。
ユリザは、相容れない異国の文化を切って捨てるつもりは無い。
たとえそれがジキルドのものでも。
けれど、扉の向こうの狂宴を思って小さく息を吐いた。
―どうして、あの子だけはこうも馬鹿なのかしら
「入りますよ」
扉を開くと、むっと甘い酒の匂いが襲ってきた。
部屋の中央には十人ほどが泳ぐ円形の池があり、匂いの発生源はそこだった。
頬をばら色に染めた娘たちが、ボトルから乳白色の液体を注いでいる。
ボトルに描かれている酒の神ロットの杯は、その酒が王族御用達の最高級の酒であることを物語っていた。
池の横では露出の多い踊り子が竜琴の音にあわせて身をくねらせている。
「やぁ、ユリザねぇ」
部屋の前方の一段高くなった場所に設けられた椅子に腰をかけた青年が、右手をあげた。
肘掛に彫られたレリーフもアルシニオンの作で、子どもの握りこぶしほどもある大きな玉がはめ込まれている。エスタニアで最も豪奢な椅子といえば、このイサリの椅子だ。
その名を戴いた青年は、シバ・リューデリスク=イサリ・エスタニア。
イサリは特別な名だ。
彼は運命の輪を持つ刻の王。エスタニア神話で唯一神々の仲間入りを果たした人間なのだから。
その名を冠したシバは期待を背負ったエスタニアの第一王子でありながら、エスタニア王家最大の頭痛の種でもある。
乙女さえ嫉妬する艶やかな黒髪に、アルシニオンが彫り上げたのではないかと言われるほど均整のとれた体つき、いつも気だるげな表情が素敵だともてはやされてはいるが、ある悲しい前提が付く。
「ただ椅子に座っていれば」と。
シバは、ある画家に言わしめた「彼は最も額縁が似合う王になる」と。
それは額縁の中のみならば、すばらしい王だということなのかと論争を巻き起こしたが決着は付いていない。
そんな意味不明な言葉を吐いた当人は赤い顔をして床に伸びていた。
「見てくれ! 本で読んだ酒の池を作ってみた。面白そうだったったからな」
その割にはシバの顔は楽しいそうには見えなかった。
それどころか、池の中で笑い続ける若者たちを理解しがたいとばかりに眉を吊り上げた。
「そう。期待通り楽しかったのかしら」
「いいや。臭いし、べたつくし、いいとこなしだね。その前に俺は酒があまり好きではないらしい」
耳を突く笑い声が起こる。
こんな無駄なことに一体いくら継ぎこまれたのだろう。考えるだけで怖ろしい。
シバの体にユリザの魂が入っていれば申し分ない王になるだろうと誰もが言うが、ユリザにしてみればいい迷惑だ。
「で? 何の用? もしかしてイベラたちの作戦のこと?」
「イベラたちの作戦?」
僅かに眉を顰めたユリザにシバはしまったと思いつつ、平素を変わらぬ笑みを浮かべたが、ユリザはずいと近づいた。
シバが組んだ指の親指を回すのは隠し事があるときのサインだ。
「どういうことなのかしら。説明してもらいましょう」
「ああ、いや……勝手に話すのもなぁ」
あの双子は血の繋がった兄でも扱いが難しい。
彼女たちの意向に沿わない行動をしたときの反応を思い出してシバは身を震わせた。
「もう水牢には入りたくもないし」
「あら、肺を満たすのは海水がいいかしら。それともお酒?」
切れ長の瞳が意味ありげに床に出来た池をちろりとみた。
シバは好きな果汁で池を作ればよかったと今更ながらに後悔をした。
どうせ沈むなら好きなもののほうが良いに決まっている。どちらにしても苦しいに違いないけれど。
炎が灯る女神の瞳。たかが人間などが敵うはずがないのだ。
哀れな人間は、ほんの少しでも苦痛が後に来るように女神が望むままに口を開いた。
後の災いは二人分だということをすっかり失念していたのだ。




