愛ゆえに起こる罪 ー安倍元首相銃撃事件についてー
なだぎ武という芸人が北斗の拳のサウザーになりきる動画がある。テレビ局の入り口に、サウザーがやってきて受付をしてもらうという動画だ。
その際に小芝居が入り、少年がサウザーに近づいてきてナイフを突き立てる。サウザーは傷つかないのだが、次のようなセリフを言う。
「見ろこのガキを シュウへの思いがこんなガキすら狂わす!!
愛ゆえに人は苦しまねばならぬ!!
愛ゆえに人は悲しまねばならぬ!
愛ゆえに…」
これをなだぎ武が言うのだが、テレビ局の受付で大げさにセリフを吐くところにおかしみがある。私はこの動画を見てカラカラと笑っていた。
ところが、ある時に(待てよ)と考えた。
(あの「北斗の拳」のキャラクターが言っていることはもっともではないか。みんなあの動画を見て、笑っているだけだろうが、よく考えればサウザーはほんとの事を言っているではないか)
私はふと立ち止まってそのような事を考えた。
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ドストエフスキーの「罪と罰」で主人公のラスコーリニコフは殺人を犯すのだが、殺人を犯した後に次のように述懐するシーンがある。
「俺が誰からも愛される事がなく、誰をも愛する事がなかったら、今度の事件は起こらなかっただろう」
小林秀雄はこのセリフを、「このセリフは作者の洞察をラスコーリニコフが借りてきている」と評していた。
この批評は鋭い。このような洞察は現実の犯罪者の口から語られる事はまずないだろう。
この時のラスコーリニコフは、作者の鋭い洞察が彼の口から語られている。もっとも、優れた作家の場合、このように自然を貫いて真実がふと漏れる場面が度々ある。凡庸な作家は自然をなぞるだけだが、優れた作家は自然の奥の真実に到達する。
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異なった二つの事柄を並べてみたが、このエッセイで言いたい事は難しい事ではない。
私は、安倍元首相を殺害した山上被告の裁判を注視している。山上被告は、母親が統一教会に多額の献金をした為に家庭が完全に壊れてしまい、その恨みを、統一教会と繋がりのあった元首相の安倍にぶつけて、彼を殺害してしまった。
山上被告の裁判を見ていると、彼は兄妹思いの人物だったようだ。ガンを患って自殺してしまった兄と、妹に対する想いは非常に強いように感じた。母の献金によって壊れた家庭の中、兄妹は同じ不幸に一緒に耐えている仲間という、そういう感覚もあったのではないだろうか。
山上被告の事件などは典型的な「俺が誰からも愛される事なく、誰をも愛する事がなければ起こらなかった事件」だろうと思う。
仮に山上被告が家族と縁を切って、妹も兄も母も忘れて孤独に生き、フリーターか何かになって趣味に勤しんで生きていたら事件は起こらなかったろう。
山上被告が今回の事件を起こしたのは、愛の裏返しとしての憎しみ故だった。愛から罪が生まれたといっても過言ではない。
私がこのように書くと「山上被告をお前は擁護するのか」などと言われるのかもしれないが、私としては愛から罪が生まれる事がある、という単純な事実を確認しておきたいだけだ。
愛もまた人の業も一部なのだから、そこから罪悪が生まれる事はおかしい事でもなんでもない。しかしこの社会は愛や恋といった事柄を美しいもの、良いものと考えようとする習慣にはまり込んでいる。
こうした観念の習慣によって、実際には愛から罪が生じても、その現実を認められず、例えば「山上はただの殺人鬼で、愛などなかった」などと言わざるを得なくなる。最初に歪んだ観念があるから、その修正もまた歪んだものにならざるを得ない。
愛ゆえに罪が生じる事は普通の事だ。山上被告が安倍元首相を撃ったのは、彼の家族への強い想いがあったからだろう。私はだから無罪にすべきだ、とか、だからかわいそうだ、とか言う気はない。
このエッセイでは単に、北斗の拳のサウザーの言うように、「愛ゆえに人は苦しまねばならぬ/愛ゆえに人は悲しまねばならぬ」という現実をはっきり認めておきたいだけだ。




