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東洲斎写楽の懊悩  作者: 橋本洋一


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軍旗

 怪しい男、守屋の言葉をシャーロックに伝えるべきか、それとも無かったことにするか――重三郎は大いに悩んだ。三井八郎右衛門という名を聞いて動揺したシャーロックをさらに悩ませるのも良くないとも考えた。


 しかし、伝えなければシャーロックの身に危険が及ぶ可能性があった。もちろん、重三郎自身も同様だ。元々選択肢のない問題である。伝えるしかないの一択しかないのだ。


 覚悟を決めた朝。店に出て番頭と手代に指示を出そうとしたときだった。仕事部屋で手はずを整えていると、大きな足音が近づいてきて、がらりとふすまが開いた――お雪だった。


「お雪か? いったいどうした?」


 顔中が汗まみれのお雪は呼吸を落ち着かせて、それから慌ててふすまを閉めた。戸惑う重三郎に近づいて、前置きなく言う。


「シャーロックが、どこにもいないんです!」

「……まことか!?」


 とんでもない知らせに重三郎は立ち上がり叫んだ。

 お雪は続けて「おそらく外に出たと思います!」と引きつった声を上げた。


「頭巾と布がありませんでした! ああ! 私がちゃんと見ていなかったから!」

「ま、まずは落ち着け。シャーロックも自身が役人や町人に判明してはならぬと分かっているはずだ。遠くへはいかないだろう……」

「そ、そのような悠長なことを!」

「頭巾と布を持っていった……いや、着ていったことが証だ。案外、別宅の近くにいるだろう」


 お雪に落ち着けとは言うものの、自分もかなり取り乱しているのが重三郎にも分かっていた。先ほどから推測ばかりで何の解決もしていない。


「とりあえず、手当たり次第探すぞ! 呆けている場合ではない!」

「は、はい! 分かりました!」


 ようやく捜索しようと思い立った二人。急いで部屋をあとにする。

 焦っていたのは否めない。部屋の近くで聞き耳を立てていた者に気づかなかったのだから。


「……シャーロック? 写楽ではなく? いったい大旦那様は何をしているんだ?」


 勇助は首を捻りつつ、重三郎の後を追った。

 無論、身を隠して探るつもりだった。



◆◇◆◇



 二人は話し合い、心当たりのある場所を探した。この一年間でシャーロックが外に出た回数は少ない。行った場所も限られている。ならば見つけやすいはずだ――しかしなかなか見つからない。一箇所に留まっているのか、それとも移動しているのか、判然としない状況がますます焦らせる。


 そして、ようやく見つけた場所は神社だった。お雪と最初に行ったあの神社の境内で、シャーロックは頭巾と布を付けて、三角座りでじっとしていた。


「シャー……写楽、ここにいたのね……」


 見つけたのはお雪だった。あれきり訪れていなかった神社だが、記憶を辿って駄目元で来たらシャーロックがいたのだ。正直、いないかもと思っていたので、発見は望外そのものだった。


「……オユキサン、ゴメンナサイ」

「いいわよ……いや、良くないけど……帰りましょう、写楽。義父上も心配しているわ」

「モウスコシダケ、ココニイサセテ」


 今すぐにでも連れて帰りたいお雪だったが、シャーロックの消え入りそうな声が物悲しくて「少しだけよ」と言ってしまった。

 お雪はシャーロックの隣に座った。

 彼は何も言わず、ただ黙って座っている。

 絵を描かないのを見るのは食事以来ねとお雪はぼんやりと思った。


「それで、何があったの?」

「キノウ、ジューザブロー、イッタ。ミツイハチロウエモン。ワタシ、ソノヒト、シッテイル」

「どうして、知っているの? 誰かから聞いたの?」

「ワタシ、メイレイサレテ、エドニキタ」


 命令――つまり、シャーロックの意思ではなく、誰かの目的のために彼はここにいる。

 お雪はできるだけ優しい声で「誰から命令されたの?」と問う。


「……ソレハ、イエナイ」

「そう。ならいいわ。家に帰りましょう」


 あっさりとした口調で促すお雪に「キニナラナイノ?」と訊ねるシャーロック。


「気にならないって言ったら嘘になるけど、写楽が言いたくないのなら――訊かないわ」

「オユキサン……」

「私だって、あなたに隠していることあるんだから。それを無視して訊くことなんてできないし」


 お雪は儚げに笑った。少しだけ過去を思い出したからだ。

 シャーロックは泣きたくなるのをこらえた。


「はあはあ、ここにいたのか、シャーロック!」


 二人が手を取って帰ろうとしたとき、息を切らしてやってきたのは重三郎だった。

 以前、神社で変人の春朗に会ったことをお雪から聞いていたのを思い出したのだ。


「義父上、大丈夫ですか?」

「はあ、はあ、だ、大事ない。それよりシャー……じゃなかった、写楽は無事か?」

「ウン。ワタシ、ヘイキ」

「心配かけおって……まあ良い。家に帰るぞ」


 重三郎が呼吸を整えてから踵を返すと「オコラナイ?」とシャーロックが訊ねた。


「なんだ。怒ってほしいのか?」

「チガウケド……」

「わしはお前が無事でいてくれただけで良いのだ。ま、怒りは多少覚えているが、安心が勝っておる。あははは、どうしようもないな」

「……ワタシ、ジューザブロー、オユキサンニハナス」


 頭巾ごしでも分かってしまうほど、シャーロックは覚悟を決めていた。

 重三郎とお雪は彼が何を話すのかは分からないが、今までの生活が変わることを感じていた。


「話す、か。それは江戸に来た目的か?」

「ソウ。ワタシキタノハ――」


 シャーロックははっきりと自身の目的を告げた。


「――ハタヲ、テニイレルタメ」

「はた? ……旗だと? 何の旗だ?」


 重三郎の疑問にシャーロックは「イエデハナス」と答えた。

 そのとき、晴れていたはずの空から、ぽたぽたと小雨が降ってきた。

 季節は梅雨に差しかかっていた。



◆◇◆◇



「コレ、オボエテイル?」


 別宅に戻った三人。濡れた着物から着替え終えて、奥の間でシャーロックの話を聞く準備は整った。


 シャーロックは紙に筆を走らせて、日の本の者には馴染みのない、特殊な紋章を描いた。

 円を中心に五つの花弁が二重に囲んでいる花。その下には十字が描かれている。家紋とも似つかない奇妙な図だった。

 お雪は「前に描いたのを見たことがあるわ」と思い出した。


「コレハ、『ローゼンクロイツ』、トイウ。ワタシ、ソコニイタ」

「ローゼン、クロイツ……? いたってどういう意味?」


 シャーロックは深呼吸して「ワタシ、オヤ、イナイ」と告白した。

 息を飲むお雪。重三郎は「みなしご、ということか」と頷いた。


「キヅイタラ、イナカッタ。ヒトリデ、イキテイタ。ダケド、ヒロワレタ。ローゼンクロイツァー。ソノヒト、ハイッテイタ」


 一年も経てばシャーロックが言いたいことが何となく分かるようになった重三郎とお雪。


「ローゼンクロイツァーという組合か何かに入っていた者が、お前を拾ったというのか?」

「ウン、ソウ。ソコデ、ワタシ、メイレイサレタ」

「何を命じられたのだ?」


 シャーロックは「ホントハ、イッチャダメ」と言ってから――己の目的を言う。


「サッキモイッタケド、ハタヲ、テニイレルコト」

「その旗とはなんだ? 異国に来てまで手に入れるものなのか?」

「ワタシノクニ、クリスチャン、アラソッテイル。プロテスタント、カトリック。ワタシハ、プロテスタント」

「二つの派閥か……」


 そこでお雪が「クリスチャンってなんですか?」と重三郎に訊ねた。


「キリシタンのことだ。確か、蘭人もプロテスタントだったと長崎に出向いたときに聞いた」

「そうですか……よく分かりませんが、国の中で戦っているんですね」

「ワタシノクニ、プロテスタント、オオイ。カトリック、アマリイナイ」


 重三郎は「なるほど。カトリックを弾圧するためにその旗が必要なのか」と理解した。

 シャーロックは頷いた。


「ソレデ、ハタノコト、イウ。ムカシ、ヒノモトデ、タタカイ、アッタ」

「戦国乱世の頃か?」

「ワタシニメイレイシタヒト、タタカイノハナシ、シタ……」


 一度、躊躇して、それから一気にシャーロックは言った。


「バトルオブシマバラ……シマバラノハンラン」

「しまばら……天草四郎のか!?」

「義父上、天草四郎とは?」


 昔の出来事をよく知らないお雪に重三郎は「九州は肥前国の一揆だ」と説明する。


「キリシタン一揆でもある。天草四郎という少年を大将に、その地域一帯のキリシタンの百姓が反乱を起こした。結局は鎮圧されたが、幕府軍の大将が戦死するなど酷い有様だと聞いている」

「そんなことが……」

「ソノ、アマクサシロウノグン、ツカッテイタ、ハタガアル」


 重三郎は「その旗は鍋島藩の武士が持っているはずだ」と言う。


「戦の最中、敵陣から奪ったと伝わっている」

「ウウン。ハタハ、ヒトツダケ、ジャナイ」

「なに? 複数あっただと?」


 シャーロックは「ナベシマノハ、ヨビ」と言う。

 重三郎は言い知れない不安が増していくのを感じた。


「ホンモノノハタ、ミツイハチロウエモン、モッテイル」

「あの方が、持っている? まことか?」

「ウン。ワタシノモクテキ、ソノヒトカラ、ハタヲモラウコト」


 重三郎とお雪は固唾を飲んで、シャーロックの言葉を待った。

 そして、彼は言った。


「アマクサシロウノハタ、テニイレテ、クニカラ、カトリック、オイダス。ヘイワノタメニ、ヒツヨウ。ソノタメニ、ワタシ、エドニキタ」

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