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東洲斎写楽の懊悩  作者: 橋本洋一


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15/31

販売

 シャーロックが東洲斎写楽となってから一年が過ぎようとしていた。寛政六年の江戸は昨年と代わり映えはしないが、重三郎は勝負の年だと思っていた。

 シャーロックがこれまでに描いた作品は二十九にも及ぶ。お雪を描いたものを除いても相当な数である。これを雲母摺で売ろうと計画されていた。


「ジューザブロー。ホントウニウレル?」


 別宅にて刷られたものを見るシャーロック。ここ一年の間に日の本言葉が流暢になっていた。お雪の熱心な教えのおかげである。


「売れるかどうかは分からん。ただ世間は度肝を抜かれるぞ。なにせこんな絵など見たことがない」


 歌舞伎役者の大首絵を手にとって、重三郎はにやりと笑った。こればかりは商人ではなく、芸術を愛する男として世に出さねばならないと固く決意していた。


 この役者の絵を描けたのは実際に見に行ったからだ。頭巾と口に布を添えた姿は異様に思われたが、それでもシャーロックは芝居に感激したようで信じられない速度で描き上げた。


「義父上。もうお歳なのですから、あまり興奮していると身体に障りますよ」

「オチツイテ」

「そうだな。医者からも注意されておった」


 お雪がシャーロックの隣に座る。そして「あなたもそうよ」と眉が八の字になった。


「絵を描くために根を詰めていたでしょ。駄目よ、きちんと休まないと」

「オウ……ゴメンナサイ。シンパイカケマシタ」

「素直に謝れるのは偉いわ。でも、本当に心配したんだから」


 二人のやりとりを微笑ましく見ながら、重三郎は「わしも版元として力を尽くす」と和やかに言った。


「もし売れなくとも別に構わぬ。採算度外視で売ろう」

「イイノデスカ? ショーバイニナラナイヨ?」

「それこそ構わん。わしはな、シャーロック。嬉しいんだよ」


 重三郎は穏やかな表情のまま、お雪にも聞かせるようにシャーロックに告げた。


「人間五十年と言えば、わしもそう長くない。しかしだ、そんなときにお前という素晴らしい絵師に会えた。これは奇跡に近い。この出会いは感謝するべきことだ」

「ジューザブロー……」

「ま、わしはまだまだ長生きするけどな。百歳まで生きるのが目標なのだ」


 最後に茶目っ気たっぷりに言うと、空気が弛緩して、シャーロックとお雪は思わず笑ってしまった。つられて重三郎も大笑いした。


「ソウネ。ジューザブローガゲンキダト、ワタシウレシイ」

「私も同じ気持ちですよ、義父上」

「わっはっは! 二人共、ありがとう!」


 重三郎は笑顔のまま「今日は良き日だ!」と快哉を叫んだ。


「東洲斎写楽が世間をあっと言わせるのが、楽しみでならんわい!」



◆◇◆◇



 東洲斎写楽の作品が店頭に並ぶと、江戸の町人たちは言葉を失ってしまった。それは素晴らしい作品だから――ではなく、凄まじい作品だったことに起因する。


「なんだよこれ……尋常なもんじゃねえぞ……」


 手に取ることすら憚れるという風に町人の一人が呟く。その周りの者たちも同様の感想を抱いたようだ。


「凄いことは分かる。でも何故か手が出ねえ。欲しいとは思わねえ……」

「ああ……俺もそう思っちまう……」


 戸惑う町人たちを店の奥から覗いていた番頭の勇助は「やはり売れませんか」と隣の重三郎に振った。


「そうだろうな。ま、あれだけの傑作、理解できる者は少ないだろうよ」

「大旦那様のご希望に添って売り場に置きましたが……多く刷った分、損をしますね」

「良い。わしは写楽の作品を世に出せたことで満足なのだ」


 勇助は「不思議なのですが」と疑問を投げかけた。


「芸術を解さない手前でも凄い作品だと思います。しかしなにゆえ、誰も欲しいと思わないのでしょうか?」

「それは誇張の絵の宿命だな」


 重三郎はぽかんと口を開けて写楽の作品を眺めている町人たちを笑いつつ「人は見たいものしか見ない」と評した。


「好んでいる者の良いところしか眼につかないのがそれよ。誰も恋した者の嫌な側面など見たくはない。恋は盲目とはよく言ったものだ。つまり、対象を歪ませ、特徴を強調する誇張の絵は見たくはないものをことさら見せているのと同じなのだ」

「分かるような分からないような……」

「可愛がっている己の飼い犬が小鳥を喰い殺して幻滅するようなもの……と言えば理解できるか?」

「……良し悪し全てを暴いているようなことですか? だからこそ、あの作品は……売れないと?」


 勇助が出した答えに「まったくもって、そのとおりだ」と重三郎は首肯した。


「わしのような審美眼を持つ者、あるいは絵師しか価値は分からん」

「それでは売る意味が……」

「いや、意味はある。わしはな、いつか写楽の絵が評価される日がくると信じている」


 重三郎は店の奥へと向かった。

 その後ろを勇助はついて行く。


「何十年、何百年経った頃、ようやく認められる日が来る」

「気の遠くなる話ですね。手前には想像もつきません」

「前から言っているが、版元はただ絵を売ればいいだけではない」


 重三郎が仕事部屋に入ると勇助と机を挟んで座った。その机には大量の紙が乗せてあった。それらには重三郎が裁決すべき事柄が記されていた。それを一つずつ処理しながら勇助に言う。


「絵によって文化を生み出すのだ。文化を始め、文化を流行らせ、文化を極める。文化の担い手となり世を盛り立てるのだ。さすれば己の商売も上手くいく」

「…………」

「わしの話が分からぬお前ではないはずだ、勇助」


 勇助は裁決が終わった紙をまとめながら「分からなくはないですが」と肯定した。

 自分が利益に囚われているのを自覚しつつも、やはり写楽の絵を売り出すのは無駄なことだとも断じていた。売れぬ絵などは子供の落書きと一緒だと考えていた。


「手前は大旦那様とは異なります。確実に流行るものを生み出したいと思います。芸術を解さない手前はそうでなければ……」

「このわしを超えられぬか?」

「そのようなおこがましいことは思いもしません。大旦那様になれぬと言いたかったのです」


 もう少し野心があれば独り立ちしても良いのだがと重三郎は残念に思った。

 その後、普通に仕事をしていると店の者が「大旦那様、失礼いたします」と声がかかった。


「何事だ?」

「実は写楽の絵を買いたいというお客様がいらっしゃっています」

「なんだ。そのようなことはわしの許可を得ずとも良い」

「それが……全ての絵を希望されておりまして」

「……なんだと?」


 店頭に並べて一日も経っていない。

 本来ならば喜ばしいことだが、長期的に見ると危うい。

 売れていないのは、裏を返せば店頭に飾れているということだ。それは宣伝にもなる。

 まだわずかしか話題になっていないのに、完売してしまったら今後の展開に大きな支障が出る。もっとも、売れないと分かってはいるが、話題にはなってほしい。


「そのお客様にはわしがお相手しよう」


 重三郎は急ぎ足で店頭へ向かう。

 勇助もその後ろを追った。


 店頭には恰幅の良い男が写楽の絵を見ていた。

 ちょうど勇助と同じくらいの三十代。若いが体型は引き締まっておらず、どちらかというと肥満そのものだった。

 鼻の右に大きなほくろがある。商人の恰好をしていて、明らかに武士ではない。


「お客様。おいでいただきまして、まことにありがとうございます」


 まずは挨拶でもして様子を窺おうとした重三郎。

 そんな彼に「ああ。ここの主人ですかな」と意外にも重厚な低音の声で応じた客。


「この絵は素晴らしい。是非全て欲しいのだが」

「他の方もいらっしゃるので、お一人で全ては……」

「おそらく他の客は買わないでしょう。芸術を理解できるのは一握りの者だけですから」


 その意見は同意の重三郎だが「新しく刷るとなると時間がかかります」とあくまでも譲らなかった。


「新作が出ましたら真っ先に知らせます。ですので今日のところは半分で勘弁してください」

「……まあいいでしょう。半分いただきます」


 男は後ろに控えていた者に顎をしゃくって会計を済ませるようにと合図した。

 勇助が相手をする中、重三郎は「一つお聞きしてよろしいですか?」と訊ねる。


「いいですよ。なんでしょうか?」

「お知らせするために、あなた様のお名前を伺ってもよろしいですか?」


 男はあっさりと己の名を告げた。


「私は、三井八郎右衛門高祐と申します」

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