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東洲斎写楽の懊悩  作者: 橋本洋一


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利休

 誇張した絵を描く――それは美しいものを描くことと同じくらい難しい。数多の作品と接した重三郎がそう思うのは当然で、素人のお雪でさえ無理難題だと感じていた。


 現に今、シャーロックは悩んでいる。

 重三郎に諭されて二日が経っても筆を取ろうとしない。描けば何か浮かぶかもしれないと傍で様子を見ているお雪は思うのだけれど、彼の考えは違うようだ。


 腕組みをして、真っ白な絵に向かい合っている。それを一日中、いや二日の間も行なっている。頭がおかしくなった――シャーロックを知らない者からすれば見えるだろう――わけではなく彼なりの手法だった。 


「……シャーロック。外、出てみない?」


 邪魔をしてはならないとお雪も分かっていたが、根を詰めていては良い考えも浮かばないと、気分転換に誘ってみた。


「ソト……イイノ?」

「ええ。義父上には後で報告するわ」

「……デタイ」


 外に出たいと思っていたので、ゆっくりと頷くシャーロック。お雪は「支度をして行きましょう」と洗濯していた頭巾と口に添える布を渡す。


 準備が整ったところで二人は別宅から出て、散歩を始めた。目的地は一応、この辺りの有名な寺に決めていた。距離があるわけではないが、多少は歩くことになる。


「写楽、いい天気ね。日差しが気分を上げてくれるわ」

「ワタシ、ハレ、スキ」


 以前の外出ではできる限り話しかけなかったが、シャーロックの気が晴れるようにと、お雪はなるべく話をふる。道端の花がきれいね、空が透き通るほど青いわなど、とりとめもない会話していた。


 シャーロックもたどたどしい日の本言葉で返している。表情は窺えないが楽しげな声であるのはお雪に伝わってくる。優しい時間が二人を包んでいた。


「おうい! あんた、写楽さんじゃないか?」


 もうすぐ寺に着こうかというときに、大声で名を呼んだのは勝川春朗だった。だいぶ距離があるのにシャーロックのことが分かるらしい。それと傍には十代の女の子がいて、彼らは手をつないでいた。


 お雪は世間って狭いものねとため息をついた。シャーロックに絵のことを忘れさせたくて散歩していたのに、絵師と遭遇するなんて運が悪い。


 春朗はゆっくりとシャーロックたちに近づいてくる。駆け出したいだろうが、女の子と一緒にいるので歩くようだ。そういう気遣いはできるらしい。


「何日ぶりだ? 十日は経ってねえはずだが」

「オー、シュンローサン。コンニチハ」

「なんだよ名前覚えてくれたのか? 嬉しいねえ」


 にやにや笑ってシャーロックの肩を叩く春朗。触られると不味いかもと思ったお雪は「その子誰?」と無言の少女を手で示す。


「ううん? あんたは確か、お、お、お……」

「お雪よ。それでその子は? もしかして、拐したの?」

「往来で人聞きの悪いこと言うんじゃねえ。こいつは俺の娘だ」


 小綺麗とは言いづらい春朗から生まれたとは思えない、可愛らしい少女だった。少々あごがしゃくれているけど、概ね整っている顔だちだ。

 お雪は「へえ。子がいたの?」とちょっと驚いた。第一印象から婚姻すらできないと決めつけていたからだ。


「まあな。お栄という。俺はあごって呼んでいるけど」

「即刻やめなさい。あなた娘が可哀想に思わないの?」

「特徴を捉えて分かりやすい呼び名だろうが」


 だとしてもいたいけな少女には相応しくない。

 しかし当のお栄は気にしていないらしく、シャーロックに「ねえ、写楽さん」と話しかけた。


「どうしてそんな暑苦しい格好をしているの?」

「……写楽は病を持っていて、人に移さないためにわざわざそんな格好をしているの」


 重三郎から聞いた誤魔化しの嘘を言うと「なーんだ。悪い人が身分を隠していると思ったのに」と真実に近いことをお栄は言う。春朗の観察眼と似た鋭い目を持っているようだ。


「まあそんなわけないか」

「あはは。どうだ、年の割になかなか深いことを考えるだろ?」


 冷や汗が出そうになるのを堪えて「お、面白いお嬢ちゃんね……」と半笑いするお雪。


「しかし病を持っているのか……お気の毒だな」


 春朗は見えていた白い肌はそのせいかと判断した。

 世間、いや異国では肌が白い人がいることを彼は知らない。

 お雪は「ま、外に出られないってわけじゃないわよ」と応じた。


「この格好をしていれば平気なの」

「ふうん。あ、写楽さん。最近絵を描いているか?」


 触れられたくないことにあっさりと触れる春朗。事情を知らないとはいえ、どうして余計なことを言うのだろうとお雪は頭を抱えた。

 するとシャーロックも目に見えて肩を落とす。せっかくの気分転換が台無しになってしまった。


「おおう? どうしたんだよ。俺、なんか悪いことを言ったか?」

「この子ね、絵を描けなくなっているのよ」

「怪我でもしたのか? それとも病のせいか?」


 突っ込んだことを訊く春朗にどう誤魔化すかとお雪は考えたが、一応の解決が見出せたこともあり、素直に話すことにした。

「実はね、写楽が人の絵を描くと死体になっちゃうのよ」

「……見たものをそのまま描くからか?」


 流石に絵に関しては鋭敏な感覚を持つ春朗。一度シャーロックの絵を見ていたこともあって答えを出したのは流石に思える。

 お雪は「そうね。でもまあ、解決への糸口は分かっているから」と続けた。


「正確に描くんじゃなくて、誇張した絵を描けばいい。それは分かっているのよ」

「だがその様子だとまだ描けてねえって感じだな」

「……よく分かるわね」


 さっきから鋭いのねとお雪は内心戸惑っている。

 そのとき、お栄が「父さん。あの話したら?」と言ってきた。


「あの話? なんだよ、写楽さんの悩みが解決するような話なんてお前にしたか?」

「えっと、急須みたいな名前の人の話」

「急須? お茶のか?」


 お栄は「うん。お茶の話」と至極真面目に言った。

 しばらく考え込んだ春朗だったが、思い出してぽんっと手を叩く。


「ああ、千利休の話か。おい、きゅうしか合ってねえじゃねえか、あご!」

「そうそう。その話をしてあげて」


 笑い話のようなやりとりを笑えなかったお雪は「どういうこと?」と訊ねる。流石に千利休ぐらいは知っているが、はたしてシャーロックの悩みを解決できるのだろうか。


「昔々、千利休ってお茶を点てる人がいたんだ。いわゆる茶人だな。その利休は当時としてはとんでもないことをしたんだ。それまでの茶道をひっくり返しちまったんだよ」


 春朗はシャーロックに向けて話す。お雪でもお栄でもなく、同じ絵師として悩んでいる者に対して話しているようだった。


「たった三畳の狭苦しい茶室。入り口を低く狭くすることで、茶室では皆平等であることを表現した。黒茶碗など漆黒を美の極致としたことや余分なものを削いで削いで削ぎ落した侘茶……とにかくすげえことしたんだよ。俺ぁ絵師だから茶について詳しくねえけどよ。それでもすげえことは分かる」


 つまり今までの常識を覆した――春朗はそう言いたいようだ。

 シャーロックは千利休を知らない。茶道についても分からないだろう。

 しかし春朗の熱のこもった語り口で理解が及ぼうとしている。


「だけどよ。最後は太閤様に切腹を命じられちまった。ま、やりすぎたってことだ」

「それが写楽と何が関係あるの?」

「話を焦るなよ、お雪さん。俺が言いてえのは自分なりの絵を描くには模倣じゃ駄目なんだってことだ。利休はこうも言った――人真似をするなと」


 シャーロックを見つめながら春朗は「あんたなら分かるはずだ」と言う。

 その瞳は熱に浮かされていた。


「利休自身、分かっていたはずだ。自分の茶は自分でしかできないって。利休の作法なんかは伝わっているけど、戦乱の世ほど茶は熱狂的じゃねえ。千利休って巨人が築き上げたものを他の連中がしたら愚も及ばねえ贋作になるんだってよ」

「……写楽が誇張した絵を描くには、真似をするなって言いたいの?」


 話からしてそうだとお雪は判断したが「それもある」と春朗は付け加えた。


「俺が言いてえのは自分で自分の画風を終わらせる覚悟が必要だってことだ。誰の真似じゃねえ、自分の道を極めた芸術を生み出さなければ駄目なんだ。その結果、利休みてえに切腹しても仕方がねえってほど思い詰めなきゃ意味がねえんだ」


 凄まじいとしか言いようのない持論だ。

 それを少女に話していたというのも驚きだが、春朗自身の絵に対する情熱もまた限りなく熱い。


「……ジブンノ、ゲイジュツ」

「しかしまあ、それでも気づきは欲しいよな。自分の思慮の外にある助言ってやつは欲しいもんだ」


 シャーロックが春朗の言葉を反芻していると、春朗は笑顔で「会わせたい人がいるんだ」と言ってきた。


「あんたの誇張の絵の助けになるかもしれねえ。今から時間あるか?」

「えっと、そうねえ……」


 これ以上、シャーロックを他人に会わせるわけにはいかない。

 しかしシャーロックはお雪に「オネガイシマス」と頭を下げた。


「……どうしても会いたいの?」

「ハイ。アイタイデス」

「少しの間だけよ……」


 それを聞いた春朗は「よし来た!」と嬉しそうに手を叩く。


「ついて来いよ! すぐに会わせてやる!」

「どこの誰に会わせるのよ」


 お雪の問いに春朗はにやりと笑った。


「名前は勝川春好! 俺の兄弟子だ!」

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