弐* 厨、荒神
「この黒茸が神様?」
芙美は思わずふっと笑った。
黒茸がキイキイ喚き散らす。
「お前! 失礼だぞ! この俺様こそが、羽須賀家の厨房を百年司ってきた『三宝荒神』! 荒神様たぁ俺のこと!」
「……荒神?」
「そうだ! 機嫌が良ければ家を守る。怒ればたちまち火事や病気をもたらすのだ! 壁に祀ってあるだろう」
黒茸は壁を顎でしゃくってみせた。
なるほど、神棚があってお札もある。
黒茸はあれは自分の物だ、と言いたいらしい。
「分かったか!? 分かったら離せ!」
芙美が手を緩めると、黒茸はポンッと抜け出て、神棚にふわりと飛んだ。よく見れば下駄をはいて羽衣を着ている。
鼻が低いことを除けば、小さな天狗そっくりだ。
「お前、そんななりで意外と力が強いのだな。握りつぶされるのではないかと冷や冷やしたぞ」
「ごめんなさい」
「ふん、まあいい。人間風情が俺と喋れるなんて滅多に無いことぞ。光栄に思え」
「あの」
「なんだ?」
「わたし、灰を集めたいのですが」
「そんなのは後にしろ。いいか、お前は本当に運がいいんだ。西洋風に言うと『らっきい』というもんだ」
わけのわからない妖怪のようなものに邪魔をされているこの状況が、本当に『らっきい』というのだろうか。
はなはだ疑問である。
悪魔のような神様は、茸のような頭をふりふり、さっきとはうってかわって機嫌がよさそうだ。
「おう、お前。名は何という」
「わたし、ですか」
「お前以外に誰がいるんだ」
「芙美といいますが」
「そうか、芙美。よし、お前、俺に触れたからには覚悟しろよ。思いっきり掴みやがって。最近ずっと釜戸をガサガサしてたのはお前か。静かに寝てたのによ」
「すみません」
「芙美、お前、俺に血を付けたな」
芙美はあかぎれから血の滲んだ指先を見た。さっき掴んだ拍子に、黒茸につけてしまったらしい。
「それは申し訳なかったです。汚れてしまったでしょうか」
「汚れ? いや、汚れだの穢れだの、古の神の道には関係がねーや。そんなことは問題じゃねぇ。あのな、神に血を捧げた女は、呪われるンだ」
「えっ」
最悪だ。
芙美は思わず叫んだ。
「な、なにが『らっきい』ですか! 『あんらっきい』ではありませんか!」
「呪《のろ》いと呪《まじな》いは同じ字だろう。もともと同じもンなんだよ」
それなら呪《まじな》いと言ってくれればいいのに。
芙美は苛立ちと怒りを押し殺しながら腕を組んだ。
「すみませんが、それで、わたしはどうすればいいのでしょう。早く釜戸の掃除をしなければ、屋敷の皆様の朝餉に支障が出てしまうのですが」
「まあ待て。お前はこれから巫女となり、羽須賀の餌になる」
「……何をおっしゃっているのです?」
「俺は羽須賀の厨房の神なのだ。食とは生であり成である。釜戸は火、火は赤! 赤は命だ! つまりは、食こそが精気、生命根源の力!」
「はあ」
「羽須賀の一族は、清らかなる食材を喰らって大きく成って来た。それは何故か。俺が配材しているからだ。芙美よ、今この瞬間! お前を羽須賀の『贄』と認めよう」
「あのう、つまり、どういうことなのでしょうか」
「とどのつまり。お前の香を羽須賀の者共は求めるということだ。花に蝶は集うだろう? まあ、そういうことだ」
「ええと? 私、焚き物は何もしておりませんが」
「まどろっこしいな、お前は。香というのは喩えだ喩え。言うならば、蝶が花の蜜を求めるが如く、ということだ」
「はあ」
「だーかーらー、まだわからんか? 羽須賀の一族に、お前は情けを向けられる、というか慕われるのだ。好かれるのだ。それはもう、本能的に。そして頭の先からつま先まで、情に溺れながらばりばりと喰われる! はっはっは。最高だろう」
はた、と其の意味に気付き、芙美は顔色を変えた。
この悪魔、ではなく、神様は、まさかこの羽須賀家の者と、芙美がどうこうなる、という下世話な話をしているのだろうか?
「何という恥知らずなッ!」
つい本音が出た。
だけど、言っていいことと悪いことがある。
「いいじゃないか、何も本当に喰らわれるなどとは思っていないだろう?」
最低だ。
破廉恥だ。
そりゃあヒヨコの雄と雌を一緒に飼えば卵が産まれるだろうが、こちらは人間なのだ。
しかも相手が羽須賀など、ミジンコと鳳凰が相対するようなもので話にならない。
荒神は神棚のふちに腰かけて、鼻をほじっている。
夏の蚊にするように、ぱちんと手のひらで打ち落としてやりたい衝動に駆られる。
「何も不満はなかろう。羽須賀は由緒正しい華族だぞ。気に入られればお前の明日の食い扶持の心配も無くなる」
「無茶を言わないでください。私は何のとりえもない平民の三女です。下女です。高貴な血筋の方とは住む世界が違うのです」
「馬鹿を言うのはお前だ。人間の世界など所詮は一つ。芙美よ、お前、俺をただの黒キノコと思っているだろう。荒神に分からぬことなどない。華族も平民も、俺にとっちゃ人間風情だ。大人しやかに宿命に流されてしまえ」
「馬鹿なことを」
芙美は吐き捨てるように言った。
冗談もたいがいにして欲しい。
「おかしな夢は誰も幸せにしやしません。不思議なことを仰るのを止めて、どうか仕事の邪魔をなさらないでください。もうすぐ女中頭が、きちんと火が起こせたか見に来るんです」
「ほう、そんなもの俺がなんとでもしてやる。そら」
荒神が手をパチンと叩くと、種火ひとつなかった釜戸が途端に燃え上がった。
パチパチと火の粉の音がする。
芙美は目を見開いた。
「いいか。ゆめゆめ忘れるな。春告蝶は菫が好きだ」
「え?」
「大紫は薊を好む。浅葱斑は藤袴。蝶は蝶でも、それぞれに好みがある。お前に留まる蝶を間違えるなよ。そうじゃねぇと、花も咲かずに枯れるはめになるぞ」
火の粉が一度パチンと爆ぜる。
ガラガラと、半分だけ開けていた木戸がすべて開く音がして、女中頭が入って来た。
変な夢を見ていたのかしら。
芙美はかじかむ指先を擦り合わせ、火吹き竹に唇を近付けた。
さァ、日常が今日も始まる。
あくびをする女中頭の後ろで、芙美はもう一度だけ神棚を見た。冬の寒風が吹きこんで、神棚のお札が笑うように揺れた。




