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あくがれゆくは蝶なれや  作者: 丹空 舞
華族、羽須賀家

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1/5

零* 揚羽の君、花菱

 老舗の高級料亭『花菱』の奥座敷では、火鉢の炭も軽やかに爆ぜる。


 艶やかな着物の色に、流行りの洋酒の香りが靡く。

 寒空を思わせない花街の室内は、独特の熱を帯びながら明るく灯っていた。


 今日の主役は朱塗りの盃を傍らに、豪華な赤い刺繍糸で鶴の紋様が施されたクッションに身を預ける。


 羽須賀の跡継ぎ息子、名を宗治郎という。

 歴々の芸子たちの中にいても、彼の美貌は際立っていた。陽炎のように揺れる行燈の光に浮かび上がる顔貌を垣間見て、新人の舞妓が息を吐いた。


 人間離れした、残酷なまでの造形。


 宗次郎が花菱の座敷に腰を下ろす瞬間、賑やかだった芸者たちの会話は、不自然にぴたりと止んだ。

 皆、見惚れているのだ。


 「……本当に人の子かしら」


 新人の芸者が、思わずといった風に呟き、他の者たちも無言で頷き合う。


 まるで西洋の彫刻家が、最上の石膏を用いて造り上げたようだ。一切の無駄が無い輪郭に、これも造り物のように白い肌。きめ細かく、月光を浴びて咲く花のような、青白い透明感を帯びていた。


 少し離れた廊下の隅で、出番を待つ芸者たちが、袖で口を隠しながらひそひそと声を潜めていた。


「……ねえ、見てごらんなさいな。今日もまた揚羽の若様よ。あんなにお若くて、まるでお人形のよう」


「ええ、本当に。あの目元……どこか遠くを見ているようで、ぞっとするほど綺麗」


 中堅の芸者が、目を細める。


「御兄様を亡くされてから、カフェーやダンスホールでも派手に豪遊されているようよ。なんだか破滅を望まれているくらい……おいたわしいこと。でも、あの方が撒くお札の景気の良さは、そんじょそこらの成金とは格が違うわよ。なんと言っても公爵家、お大名よ。歴史が違うもの」


「昨晩なんて、アメヂストの簪を代金代わりにそのまま渡したって噂。まるで、明日にはこの世が終わると思っているみたいに、お金を捨てていかれるの」


「揚羽の君は芸子にも素人娘のどなたにも、心を許さない。あんなに大勢の人に囲まれながら、あんなに寂しそうに笑うお方は、他にいないわ」


 宗次郎の切れ長の目元は涼やかで、瞼の線は薄く、ぼんやりと空に向けられて光を映している。

が、ふとした瞬間に視線が持ち上げられたとき、瞳には深淵を覗き込んでいるかのような、冷え冷えとした黒曜石ような存在感がこっくりと満ちる。


その視線に射抜かれた者は皆、背筋に冷たいものが走る心地がする。しかし、余りの美しさに逸らすこともできなくなる。


彼の貌は甘美ではなく、むしろ鋭利さを持っていた。嘲笑のような諦念の浮かぶ唇。何を言われるか知れないが、それでも観ていたい、聴いていたい。

触れれば指を切りそうな、危うい美しさ。


「何だか怖いくらい。あら、少し足を痛めてらっしゃるのかしら」


「気を付けな……あれは、化け物だよ。あの世から迷い込んできた天人だ。女を狂わせる。羽須賀の家は代々、そういう家系なんだ」


古株の芸者が、感嘆と畏怖の混じった声で呟く。


「どんなに近くで見ても、毛穴一つ見えないんだから、夕刻からせっせと化粧をしている私らがばかばかしくなるよ。あの瞳をご覧。宵闇の空そのもののようだ。持っていかれるよ。私たちのような浮世の人間とは違うのさ」


宗次郎は、そんな囁きを、聞こえているのかいないのか、無関心に聞き流していた。


常のことだ。


羽須賀の一族として生まれたものの宿命。

きっと、兄もそうだった。


傍らには、贅を尽くした料理と、最高級の酒が置かれている。


「俺は酒は飲まん」

「はっ、大変失礼いたしました」

「おい、その香はどこのだ。お前が傍を通るたびに安物の石鹸のような臭いがする」


宗次郎は給仕をしていた若い芸者を冷たい視線で一瞥した。青ざめて給仕係は頭を下げる。年嵩の芸子がとりなした。 


「申し訳ございません、若様! すぐに下がらせます。御燗の代わりに熱い茶はいかがでしょう、宇地の特級品を……」

「もういい」


詰まらない。

何もかもが怠惰だ。


彼は懐から、まだ糊のきいた百円札の束を無造作に引き抜いた。それを、血の気の引いた給仕の足元へ、まるでゴミでも捨てるかのようにばら撒く。


庶民が数ヶ月かけて稼ぐ大金が、座敷の床を虚しく彩った。


「これで新しい着物を買え。その代わり、今の香の染み付いたものは捨ておけ。気分が悪くなる」


隣に座っていた置屋の女将が、揉み手をしながら取りなそうとする。


「まあまあ、宗次郎様。そんなに怒らないでくださいまし。今夜は特別に、異国のヴァイオリン弾きも呼んでございます。ここだけの話でありますが、上尾のお大臣の計らいですよ」


「金を出せば猿でも踊る。ヴァイオリンなど、蓄音機で十分だ」


宗次郎は不遜に言い放ち、西陣織の羽織を肩から滑らせた。形のよい鎖骨が露わになる。

新人の舞妓があまりの刺激にキャッと叫んで廊下の隅に倒れた。


「どうせ資金集めにやっきになっているのだろう。ヴァイオリンは下がらせろ。こんな月の良い晩に無粋だ。大臣に羽須賀との取引は白紙に戻すと伝えろ。琴だ。琴が弾けるものはいないのか」


揚羽の君と噂される、羽須賀家の跡継ぎ宗治郎は、切子のグラスを詰まらなさげに傾けた。


足の違和感は、日増しにはっきりしていた。


どうせ全て破滅するならば、政治家ではなく、指を荒らした女のいるような下界に、金を落とせるだけ落としていきたかった。

明治〜大正時代っぽい異世界です。

よろしくお願いします。

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