零* 揚羽の君、花菱
老舗の高級料亭『花菱』の奥座敷では、火鉢の炭も軽やかに爆ぜる。
艶やかな着物の色に、流行りの洋酒の香りが靡く。
寒空を思わせない花街の室内は、独特の熱を帯びながら明るく灯っていた。
今日の主役は朱塗りの盃を傍らに、豪華な赤い刺繍糸で鶴の紋様が施されたクッションに身を預ける。
羽須賀の跡継ぎ息子、名を宗治郎という。
歴々の芸子たちの中にいても、彼の美貌は際立っていた。陽炎のように揺れる行燈の光に浮かび上がる顔貌を垣間見て、新人の舞妓が息を吐いた。
人間離れした、残酷なまでの造形。
宗次郎が花菱の座敷に腰を下ろす瞬間、賑やかだった芸者たちの会話は、不自然にぴたりと止んだ。
皆、見惚れているのだ。
「……本当に人の子かしら」
新人の芸者が、思わずといった風に呟き、他の者たちも無言で頷き合う。
まるで西洋の彫刻家が、最上の石膏を用いて造り上げたようだ。一切の無駄が無い輪郭に、これも造り物のように白い肌。きめ細かく、月光を浴びて咲く花のような、青白い透明感を帯びていた。
少し離れた廊下の隅で、出番を待つ芸者たちが、袖で口を隠しながらひそひそと声を潜めていた。
「……ねえ、見てごらんなさいな。今日もまた揚羽の若様よ。あんなにお若くて、まるでお人形のよう」
「ええ、本当に。あの目元……どこか遠くを見ているようで、ぞっとするほど綺麗」
中堅の芸者が、目を細める。
「御兄様を亡くされてから、カフェーやダンスホールでも派手に豪遊されているようよ。なんだか破滅を望まれているくらい……おいたわしいこと。でも、あの方が撒くお札の景気の良さは、そんじょそこらの成金とは格が違うわよ。なんと言っても公爵家、お大名よ。歴史が違うもの」
「昨晩なんて、アメヂストの簪を代金代わりにそのまま渡したって噂。まるで、明日にはこの世が終わると思っているみたいに、お金を捨てていかれるの」
「揚羽の君は芸子にも素人娘のどなたにも、心を許さない。あんなに大勢の人に囲まれながら、あんなに寂しそうに笑うお方は、他にいないわ」
宗次郎の切れ長の目元は涼やかで、瞼の線は薄く、ぼんやりと空に向けられて光を映している。
が、ふとした瞬間に視線が持ち上げられたとき、瞳には深淵を覗き込んでいるかのような、冷え冷えとした黒曜石ような存在感がこっくりと満ちる。
その視線に射抜かれた者は皆、背筋に冷たいものが走る心地がする。しかし、余りの美しさに逸らすこともできなくなる。
彼の貌は甘美ではなく、むしろ鋭利さを持っていた。嘲笑のような諦念の浮かぶ唇。何を言われるか知れないが、それでも観ていたい、聴いていたい。
触れれば指を切りそうな、危うい美しさ。
「何だか怖いくらい。あら、少し足を痛めてらっしゃるのかしら」
「気を付けな……あれは、化け物だよ。あの世から迷い込んできた天人だ。女を狂わせる。羽須賀の家は代々、そういう家系なんだ」
古株の芸者が、感嘆と畏怖の混じった声で呟く。
「どんなに近くで見ても、毛穴一つ見えないんだから、夕刻からせっせと化粧をしている私らがばかばかしくなるよ。あの瞳をご覧。宵闇の空そのもののようだ。持っていかれるよ。私たちのような浮世の人間とは違うのさ」
宗次郎は、そんな囁きを、聞こえているのかいないのか、無関心に聞き流していた。
常のことだ。
羽須賀の一族として生まれたものの宿命。
きっと、兄もそうだった。
傍らには、贅を尽くした料理と、最高級の酒が置かれている。
「俺は酒は飲まん」
「はっ、大変失礼いたしました」
「おい、その香はどこのだ。お前が傍を通るたびに安物の石鹸のような臭いがする」
宗次郎は給仕をしていた若い芸者を冷たい視線で一瞥した。青ざめて給仕係は頭を下げる。年嵩の芸子がとりなした。
「申し訳ございません、若様! すぐに下がらせます。御燗の代わりに熱い茶はいかがでしょう、宇地の特級品を……」
「もういい」
詰まらない。
何もかもが怠惰だ。
彼は懐から、まだ糊のきいた百円札の束を無造作に引き抜いた。それを、血の気の引いた給仕の足元へ、まるでゴミでも捨てるかのようにばら撒く。
庶民が数ヶ月かけて稼ぐ大金が、座敷の床を虚しく彩った。
「これで新しい着物を買え。その代わり、今の香の染み付いたものは捨ておけ。気分が悪くなる」
隣に座っていた置屋の女将が、揉み手をしながら取りなそうとする。
「まあまあ、宗次郎様。そんなに怒らないでくださいまし。今夜は特別に、異国のヴァイオリン弾きも呼んでございます。ここだけの話でありますが、上尾のお大臣の計らいですよ」
「金を出せば猿でも踊る。ヴァイオリンなど、蓄音機で十分だ」
宗次郎は不遜に言い放ち、西陣織の羽織を肩から滑らせた。形のよい鎖骨が露わになる。
新人の舞妓があまりの刺激にキャッと叫んで廊下の隅に倒れた。
「どうせ資金集めにやっきになっているのだろう。ヴァイオリンは下がらせろ。こんな月の良い晩に無粋だ。大臣に羽須賀との取引は白紙に戻すと伝えろ。琴だ。琴が弾けるものはいないのか」
揚羽の君と噂される、羽須賀家の跡継ぎ宗治郎は、切子のグラスを詰まらなさげに傾けた。
足の違和感は、日増しにはっきりしていた。
どうせ全て破滅するならば、政治家ではなく、指を荒らした女のいるような下界に、金を落とせるだけ落としていきたかった。
明治〜大正時代っぽい異世界です。
よろしくお願いします。




