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サイレント・ウィッチ  作者: 依空 まつり
第6章「選択授業編」
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【6ー6】チョコレートの事情

 放課後、一週間ぶりに生徒会室に顔を出すと、フェリクスが眉を下げてモニカを見た。

「ノートン嬢、見学会の途中から見かけなかったけど……どこに行っていたんだい?」

 モニカはギクリと肩を震わせつつ、ケイシーにしたのと同じ言い訳を口にする。

「えっと、その、お手洗いに行って、いたら、途中で、チェスの授業に……誘われ、て」

 正確には誘われたのではなく、無理やりエリオットに引きずっていかれたのだが。

 エリオットとの、あの一戦が終わると同時に見学会の時間は終了してしまったので、モニカは他の授業を見学することはできなかった。

 チェスの授業、と聞いたフェリクスは少しだけ意外そうな顔をし、奥で作業しているエリオット・ハワードに目を向ける。

「チェスと言えば、ハワード書記が受講していたね」

 エリオットは聞こえない振りをしているのか、黙々と書類仕事を進めていた。

 モニカが生徒会役員であることを歓迎していないエリオットとブリジットは、生徒会室にいる間モニカのことを、まるで空気か何かのように、いないものとして扱っている。

 だが、今日のエリオットは少し様子がおかしかった。無視の仕方が露骨なのだ。その態度はなんだか不貞腐れているようにも見える。

(わ、わたし、また、なにかやらかした? し、失礼なこと言っちゃった?)

 モニカがダラダラと冷や汗を流していると、資料室から戻ってきたシリル・アシュリーが、モニカをギロリと睨んだ。

「体調は戻ったのだろうな」

「は、はいっ、一週間お休みをいただきまして……た、たた、大変、ごめ、ご迷惑を、おかけ、しましたっ」

 シリルと最後に会ったのは、モニカが毒を飲んで倒れた後の医務室だ。

 ベッドから起き上がったら縄で縛りつけてやるとかなんとか、物騒なことを怒鳴られて、それっきりである。

 シリルはモニカの顔をまじまじと眺めると、腕組みをしてフンと高慢に鼻を鳴らす。

「貴様が休んでいた一週間分の引き継ぎがある。今日はみっちりしごいてやるから、覚悟しておけ」

「は、はいぃっ」

 モニカは涙目でカクカク頷き、シリルが差し出した書類の束を受け取る。

 それから作業机に移動して、一週間分の書類を確認したが、特に気になる点はなかった──というより、全ての仕事が綺麗に片付けられているのだ。モニカがすることは、精々中身の確認ぐらいである。

 几帳面な細かい字は、恐らくシリルのものだろう。彼がモニカの仕事を一週間分代わってくれたのだ。

 これ以上迷惑をかけないようにしなくては、とモニカは気合を入れて書類と向き直る。

 一番分厚い書類は、やはり来月の学祭に向けてのものだ。その予算案に目を通していると、モニカの背後で声が聞こえた。

「なぁ」

 それが、自分に向けられたのだと気づかなかったモニカは、黙々と予算案を見ていた。

 モニカのそばで別の仕事をしていたシリルが、呆れたようにモニカを見る。

「モニカ・ノートン。呼ばれているぞ」

「……へぁっ?」

 間の抜けた声を漏らしながら振り向けば、背後にはエリオットが佇んでいた。

 エリオットはなにやら苦虫を噛み潰したような顔で、モニカを見下ろしている。

「ノートン嬢、今日、この後、時間あるか?」

「へ? えっ? えっと、あの……」

 放課後の呼び出しなるものに「これはもしや、愛の告白では!」と胸をときめかせるような神経などモニカは持ち合わせていない。

 これはあれだ。絶対に人のいないところに呼び出しての罵詈雑言と暴力だ。もしかしたら、また役員章を奪われるかもしれない。

 モニカが無意識に襟元の役員章を握りしめて俯くと、シリルが口を挟んだ。

「別の日にしてくれ。今日は一週間分の引き継ぎに時間がかかる」

「そうか、ならいい。仕事の邪魔して悪かったな」

 エリオットは不思議とホッとしたような顔で、自分の席に戻っていった。

 その背中をモニカが見送っていると、シリルがボソリと呟く

「ハワード書記と、何かあったのか?」

「え、えっと…………よく分からないです、けど、チェスの授業の時に、わたし、何か失礼なこと、言っちゃったのかも」

 選択授業では、チェスをワンゲームしただけだ。ただ、モニカが気づいていないだけで、エリオットを不快にさせてしまった可能性は大いにある。

(……でも、チェス楽しそう。受講……してみたいな)

 チェスは数式と違い、相手が人間だ。故に、ただの確率計算だけでは勝てない戦略性がある。それがモニカには興味深かった。

「貴様は魔術の授業は受けんのか?」

 唐突にシリルが放った言葉に、モニカはペンを握る手を震わせる。

 フェリクスと言い、シリルと言い、どうしてみんなしてモニカに魔術を勧めたがるのだろう。

「わ、わたしには、その、難易度が高すぎると、思うのですが……アシュリー様は実践魔術、ですか?」

「私が受講しているのは、高度実践魔術だ」

 高度実践魔術、それは選択教科の中でも、履修に条件のある特別枠の授業だ。

「高度実践魔術は、一年、もしくは二年時に実践魔術で優秀な成績を出した者だけが受講できる。受講を希望するなら、一年、もしくは二年の時点で実践魔術と基礎魔術学を履修している必要がある」

「は、はぁ……」

「つまり、二年の貴様が来年、高度実践魔術を履修しようと思ったら、今年は基礎魔術学と実践魔術の二つを選択する必要があるということだ」

「はぁ……」

 モニカが曖昧に相槌を打つと、シリルはコツコツと机を指で叩き、モニカをジロリと見た。

「繰り返し問うが、貴様は魔術の授業を受けんのか?」

「えっと、その……それは……」

 モニカは正体を隠して学園に潜入している身だ。

 例え座学だけだとしても、魔術絡みの授業では、いつかボロを出す気がする。特に魔術式が絡むと、モニカはついうっかり夢中になってしまうので。

「魔術の授業は、受けない……です」

「……そうか」

 短く呟いてシリルが作業に戻ったので、モニカも目の前の資料に集中することにした。


 * * *


 その日の生徒会業務が一段落したところで、シリルはフェリクスに進言した。

「私とノートン会計は、引き継ぎがあるので残ります。戸締りは私がいたしますので」

「そう? じゃあ任せるけど……あまり遅くなりすぎないように」

「はい」

 シリルが頷けば、他の生徒会役員達は生徒会室を出て行く。

 部屋に残ったのは、シリルとモニカだけだ。

 モニカは机の上の資料を見て、首を傾げた。

(……居残り作業って、なんだろう?)

 実を言うと、モニカには居残りをしてまで、やらなくてはいけないような仕事が思いつかなかった。

 一週間分の引き継ぎは通常業務の時間内に終わっているし、今日の分の業務も終わらせている。

「……あの、アシュリー様。居残りのお仕事は、学園祭絡み、ですか?」

「違う。机の上を片付けて、しばし待て」

「は、はぁ」

 居残りの作業をするのに、机を片付けて良いのだろうか?

 疑問に思いつつも、言われた通りにモニカは資料を棚に戻し、椅子にちょこんと座ってシリルが戻るのを待った。

 シリルはどうやら、生徒会室を出て行ったらしい。別室から何か持ってくる物があるということだろうか?

 膝の上で落ち着きなく指をこねて、そわそわしていると、シリルは両手に何かを持って戻ってきた。

 シリルの手に握られているのは、白いカップだ。ティーパーティに使うような洒落た物ではなく、白無地で少しぽってりと厚いカップである。

 シリルはカップの片方をモニカの前に置くと、自身はモニカの向かいに座った。

「飲め」

 モニカは目の前に置かれたカップを見た。カップには薄い茶色の飲み物が入っている。コーヒーより薄い色で、ほのかに甘い香りがした。モニカは一度だけ、この香りを嗅いだことがある。

「これって……チョコレート、ですか?」

「そうだ」

 チョコレートは貴族の間で人気のある嗜好品だ。カカオという豆をすり潰して、砂糖や牛乳などと混ぜ合わせた飲み物である。独特の風味があり、コーヒーよりも高級品だ。

 モニカは以前、一度だけチョコレートを飲ませてもらったことがある……が、その時のチョコレートは、もっと、ドロドロとした飲み物だった筈だ。

 恐る恐るカップを持ち上げると、中の液体が揺れた。以前、モニカが飲んだ物より薄くてサラサラしているように見える。

 シリルはなんでもない顔でカップを傾けていた。モニカも真似をして、カップに口をつける。

「…………!」

 モニカは驚きに目を丸くした。

 さらりとした飲み口と柔らかな甘さは、以前飲んだチョコレートとはまるで別物だ。どろどろしていないし、カカオ特有の酸味も軽減されている。

 チョコレートはコーヒー以上に手間のかかる飲み物だ。コーヒー豆は粉砕した状態でもある程度保存が効くが、カカオ豆は脂肪分が多いので、粉砕した状態で保存することができない。つまり、飲む直前に細かく擦り潰す必要があるのだ。その手間があるので、チョコレートはコーヒーほど普及していない。

 だが、このチョコレートには脂肪分特有のドロリとした食感が無かった。

「このチョコレート……脂肪分が、少ない?」

「そうだ。豆から脂肪分を取り除き、粉末状にした物を使用している。最新技術で作られた物だ」

 カカオ豆を粉末状にして保存することができたのなら、それは非常に画期的な発明だ。今までよりも保管しやすくなるし、水や牛乳に溶かしやすくなるから、簡単に飲むことができる。

 モニカが密かに感心していると、シリルはちらりと片目でモニカを見た。

「クローディアから聞いたのだが、モニカ・ノートン。貴様、ノルン伯爵令嬢が用意した毒入りの苦い紅茶を、そのまま飲み干そうとしたらしいな」

「……へっ、あ、はい……」

 苦い毒薬を紅茶のカップに入れられて、それでもモニカは「そういうものなのかな」と思って、吐き出さずに飲んでしまった。その結果が、あの騒動である。

 あの時のことを思い出して縮こまるモニカに、シリルは強い口調で言い放った。

「普段からろくな物を口にしていないから、そういうことになるのだ。貴様はもっと舌を肥やすべきだ。この間のように、殿下のお手を煩わせるわけにはいかんからな」

「は、はい……すみません……」

「つまりこれは殿下のためだ。分かったな!」

「は、はいっ」

 モニカがブンブンと首を縦に振ると、シリルは「分かればいい」と頷き、カップを傾ける。

「貴様はその能力を殿下に買われている……ともなれば、それを妬む者がノルン伯爵令嬢のような事件を起こさないとも限らない」

 シリルの言う通りだ。本来ならモニカはフェリクスを護衛する側の立場なのに、逆にフェリクスに助けられている。

「自衛手段ぐらい身につけろ。殿下の手を煩わせるな」

「…………はい」

 モニカはしょんぼりと項垂れながら、ぼんやりと考える。

 シリルもまた、誰かに妬まれたことがあるのだろうか。

(……妬まれない筈が、ない)

 第二王子の側近を務めるということは、それだけ周囲の称賛と羨望を集める。妬む者も少なからずいることだろう。

 そして今、モニカも同じ立場にいるのだ。

「……あの、アシュリー様。あ、ありがとう、ございます。この間のことも、えっと、このチョコレートも……」

 シリルはいつもみたいにフンと鼻を鳴らし「味わって飲め」とボソリと言う。

 モニカはコクコク頷いて、温かなチョコレートを大事に大事に飲んだ。

 そんなモニカを睨むように見ていたシリルは、ふと思い出したような顔で口を開く。

「一つ言っておくが、今日のことは殿下には黙っているように。特にこのチョコレートのことは……」

「あ、あの、アシュリー様……」

 モニカがビクビクしながら口を挟むと、シリルは眉間に深い皺を刻んでモニカを睨んだ。

「なんだ」

「……殿下が、その」

「殿下がどうした」

「……後ろ、に」

 シリルの顔から表情が消える。

 シリルの背後では、フェリクスがニコニコと笑顔で佇んでいた。その気配の消し方たるや、暗殺者も顔負けである。

「私抜きでお茶会なんて、ずるいじゃないか」

「でっ、でで、でん、殿下っ!」

「そのフレーズ、ノートン嬢以外から聞く日がくるとは思わなかったなぁ」

「あ、いえ、その、これは……その……」

 シリルは珍しく真っ青になって狼狽えていた。特にその視線はチラチラと手元のカップを気にしている。まるで、チョコレートをフェリクスに隠したがっているみたいだ。

 そんなシリルに、フェリクスはいつもの穏やかな笑顔で笑いかける。

「別に私に隠さなくて良いのに。私はそういうことは気にしないよ?」

「そ、その……ですが」

 シリルの狼狽えようたるや、まるで違法薬物の所持が見つかった犯罪者のようである。どうして、彼はそこまで狼狽えているのだろう?

「私もそのチョコレートが欲しいな。用意してくれるかい?」

 フェリクスがそう言うと、シリルはどこかホッとしたような顔で「はいっ!」と返事をし、キビキビと早足で部屋を出て行った。

 その背中を見送り、フェリクスはやれやれと息を吐く。

「そんなに気を遣わなくて良いのに」

 フェリクスとシリルのやりとりが意味するところが分からず、モニカは恐る恐るフェリクスに訊ねる。

「あ、あの……このチョコレートは、の、飲んではいけない物、なのですか?」

「いや? そんなことはないよ。うちの国の貴族達の間で最近流行しているしね」

 なら、何故シリルはあんなにも狼狽えていたのだろう?

 モニカが首を捻ると、フェリクスはなんでもないことのように言う。

「カカオ豆から脂肪分を取り除く技術はね、隣国のランドール王国の学者が発明したものなんだ」

 ランドール王国とは、このリディル王国と東の大帝国の間に位置する小国だ。

 そこの学者が発明したことと、シリルの動揺がどう関係しているのか。今一つピンとこないモニカに、フェリクスは言う。

「私の兄、ライオネルの母君がランドールの姫君なんだよ」

 ようやくモニカは、シリルがフェリクスにチョコレートのことを隠そうとした理由を理解した。

 この国には三人の王子がいるが、それぞれ母親が違う。

 第一王子ライオネルの母はランドールの姫。ともなれば、第一王子派は当然にランドールとの繋がりを重視する者が多い。

 シリルはランドールの最新技術のチョコレートを愛飲することで、自分が第一王子派だと思われないか不安だったのだろう。

「だから、私がお茶会に顔を出しても、誰もランドールの技術を使ったチョコレートを出してはくれないんだ。美味しい物に罪はないのにね」

 そう言って、フェリクスはモニカの手からカップをすっと抜き取ると、一口だけチョコレートを飲む。

 人が口をつけたカップに王子自ら口をつけるなんて、シリルが見たら目を剥きそうな光景だ。

 だが、モニカには今のフェリクスの行為が、彼の意思表示に見えた。

 きっとこの人は本当に、そんな些細なことなど、くだらないと思っているのだろう。

「……王族って、大変なんですね」

「あぁ、全く」

 呟くフェリクスの横顔に、いつもの穏やかさが無く……馬鹿馬鹿しいと見下すような、冷ややかさがあった。


作中で登場する飲むチョコレートは、所謂ココアです。

この国ではドロドロのチョコレートを混ぜこんだ「チョコレートケーキ」などはありますが、固形の食べるチョコレートはまだ存在していません。

ですがココアの技術が確立されているので、遠くない未来、食べるチョコレートも登場するかと思います。

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