【3−5】過剰摂取
ハイオーン侯爵家に引き取られ、義妹との差を見せつけられたシリルは、自分だけの武器を手に入れるために魔術の勉強を始めた。
魔術の素養があれば、貴族社会でも優位に立てる。
義妹には魔術の才能が無かったが、シリルには才能があった。生まれつき魔力量が平均値より多かった彼は、がむしゃらに魔術の勉強をし……その果てに、一つの病を発症した。
──魔力過剰摂取症。
人間は魔力を溜める器を持っているだけで、体内で魔力を生成することはできない。体外の魔力を少量ずつ吸収して回復するのだ。
この時、人間の体は器を超えるだけの魔力を溜めることはできない。器がいっぱいになったら、それ以上は体が魔力を拒み、吸収しなくなる。
器がいっぱいになってもなお、体が「魔力不足」と判断し、勝手に魔力を吸収し続けてしまう──それが、魔力過剰摂取症だ。
それは過食症に似ているかもしれない。満腹中枢が正常に機能せず、食事を求めてしまうように、シリルの体は魔力がいっぱいになったことを認識せず、どんどん魔力を吸収してしまう。そして、余剰な魔力は人間の体を蝕み、魔力中毒を起こす。故に、彼は器に収まらない余った魔力を定期的に体外に放出する必要があった。
医師が言うには、無茶な訓練を繰り返したことが発症の原因だったらしい。
この病を発症した時、シリルは絶望した。自分は侯爵家から捨てられてしまうに違いないと。
だが、ハイオーン侯爵はそんなシリルのために、魔力を吸収して放出する効果のある魔導具を用意してくれた。それが常に襟元につけているブローチだ。これを付けていれば、体内の余剰な魔力を吸収して体外に排出してくれる。
このブローチを身につけていれば、日常生活には支障がでない筈だった。
(……なのに、何故だ……っ!)
寮の裏にある森をフラフラと歩きながら、シリルは短く呪文を詠唱した。
目の前にある木が凍りつき、氷像と化す。魔術を使えば体内の魔力量が減って一時的に楽になれる……が、シリルの体は、すぐにまた魔力を吸収してしまう。
その速度がいつもより明らかに早い。早すぎる。幾ら魔術を使っても使っても体内の魔力が空にならない。寧ろ、増えていく一方だ。
器から溢れた余剰な魔力は人間の体を蝕む。頭がズキズキと痛い。吐き気がする。
シリルは膝をつき、蹲りながら襟元のブローチを握りしめた。
ハイオーン侯爵が──養父が、自分のために用意してくれた特注のブローチ。
これがあれば、魔力を吸収してくれる筈だ。
これがあれば、暴走なんてしない筈だ。
これがあれば……自分は、ハイオーン侯爵の期待に応えられる筈だ。
(……私は、期待に応えなければ、ならぬのだ!)
貴族とも呼べないような暮らしをしていたシリルを、侯爵家に引き取ってくれた養父の期待に応えたい。
君が必要だと言って、副会長に選んでくれた、第二王子の期待に応えたい。
そして、何より……
──××に、期待してもらいたい。
だから、シリルはこんなところで地を這いつくばっている場合ではないのだ。
しかし意に反して体が勝手に魔力を吸収してしまう。シリルは早口で呪文を詠唱し、氷の魔術を放った。
目の前の岩が凍りつき、少し体が楽になった……と思った矢先に、また体が魔力を吸収する。
体調不良になると、魔力の吸収速度が狂うことはしばしあったが、それでもこの早さは異常だ。
(何故だ、何故だ、何故……っ!?)
あぁ、早く詠唱をして次の魔術を使わなくては──だが、脈がでたらめになり、呼吸が狂いだした。これでは詠唱ができない。魔術が使えない。
「……ぁ………………ぐ……」
シリルは地面を掻き毟り、冷や汗を流しながら痙攣する。
目の前が真っ暗になり、意識が遠くなった、その時……
猫の鳴き声が、聞こえた。
* * *
リンの風の魔術(モニカの強い要望でゆっくり移動してもらった)で寮の自室を抜け出したモニカ、ネロ、リンの一行は、魔力の痕跡を追って森に移動し、木の陰からシリルの様子をうかがっていた。
シリルは苦しげに身悶えしながら、氷の魔術を乱発している。明らかに普通の状態ではない。
「秘密の魔術訓練にしては、様子がおかしいようにお見受けします」
リンの言葉にモニカは頷く。
「た、多分だけど……今のアシュリー様は、魔力中毒、です」
リンとネロが「「魔力中毒?」」と声を揃えた。どうやら二人とも、この病気のことを知らないらしい。
「に、人間の体は、精霊や竜と比べて魔力耐性が低くて、魔力を大量摂取すると、具合が悪くなります……その状態を魔力中毒って言って……最悪、死に至り、ます」
モニカがまだミネルヴァに通っていた頃、同じ症状になった者を何人か見たことがある。
「アシュリー様は、多分……魔力を吸収しやすい体質なんです。そういう人は、普段からこまめに魔術を使って魔力を減らしたり、余分な魔力を吸収してくれる魔導具を身につけてたりするから……」
シリルが日常的に魔力を冷気に変換して放出したり、グラスに氷を作っていたのも、恐らくはそのためだ。彼はそうやって、体内の余計な魔力を放出していた。
襟元のブローチをやけに気にしていたのは、あのブローチが魔力を吸収する魔導具だからだろう。
モニカの説明を聞いたリンは、人差し指と親指で輪を作り、その輪を覗き込むようにしてシリルを見た。
「魔力の流れを確認いたしました。襟元のブローチが体外に放出された魔力を集めて、あの方の体内に魔力を戻しているように見えます」
「やっぱり……! 魔導具が、誤作動を起こしてる……っ!」
魔導具が本来の効能と逆に作動しているのだ。一刻も早く、あのブローチを外す必要がある。
だが、モニカが近づいたら、何故こんなところにモニカがいるのかとシリルに問いただされてしまうだろう。
今のモニカは、一応外出用のフード付きマントをかぶってはいるが、ブローチに触れるほど近づけば、流石に気づかれる。
モニカが躊躇していると、ネロがニャウッ! と勇ましく鳴いた。
「そういうことなら、オレ様に任せろ!」
* * *
ネロは木の陰から飛び出すと、シリルに飛びかかり、襟元のブローチを咥えた。
「な、猫……っ!? やめろ……それに触るなぁっ!」
シリルは腕を振り回して抵抗するが、ネロはそれを難なくかわし、ブローチを外した。そうしてシリルから距離を取る。
「返せ……っ、返せぇぇぇっ!!」
シリルは目を血走らせてヒステリックに叫ぶと、早口で呪文を詠唱した。
途端に、ネロの進行方向が氷の壁で閉ざされる。
(げげっ……!?)
ネロは慌てて方向転換し、森に逃げ込もうとした……が、氷の壁は勢い良く広がっていき、ネロの逃げ道を塞ぐ。
気がつけばネロとシリルの周囲は、氷の壁で囲まれていた。
(やっべぇ……オレ様、すっげー寒さに弱いのにぃぃぃっ!)
足元を流れる冷気に、ネロは体を竦ませる。
それでもブローチだけはしっかり咥えて離さない。
「返せ……それを、返せ……」
シリルは目を血走らせてネロに近づいてくる。
荒い呼吸の合間に、虚ろな呟きが聞こえた。
「……それは……義父上が……くださっ、た…………認めて、もらわ、ないと……認め……」
シリルの目は正気を失い、執着心に淀んでいた。
その姿に、ネロは哀れまずにはいられない。
(……なんで、人間ってのは、どいつもこいつも馬鹿なんだろうねぇ)
きっと、この人間にはこの人間なりに、ブローチに執着する何らかの事情があるのだろう。だが、ネロには関係のないことだ。
シリルが早口に呪文を唱えた。彼の周囲に十本以上の氷の矢が浮き上がる。
一本一本が腕ほどの太さがあるそれは、もはや矢というより杭に近いだろう。なんにせよ、直撃したらただでは済まない。
「私は……認めてもらったんだ……義父上に…………殿下に…………なのに、何故……」
熱に浮かされたようなシリルの目が、虚ろにネロを見据える。
それでも、今、彼が見ているのはネロではない。
魔力に全身を蝕まれ、熱にうなされている彼は、ネロの知らない誰かの幻を見ている。
「…………何故……」
端正に整った顔が苦しげに、そして、どこか泣きそうに歪む。
「……何故……あなたは、認めてくれないのですか…………お母様」
その時、音もなく氷の壁が瓦解した。
氷の壁も、シリルの周囲に浮いていた氷の矢も、全てが炎に包まれ燃え上がっている。
シリルが生み出した氷は僅か数秒足らずで溶けて消え、氷を溶かした炎は、まるで意思を持っているかのように一箇所に集い、やがて炎の大蛇になった。
そして、崩れ落ちた氷の壁の向こう側に佇むのは、フードを目深に被った小柄な魔女。
無詠唱魔術の使い手にして、七賢人が一人。
〈沈黙の魔女〉モニカ・エヴァレット。




