朝のまかない アンナ編
水曜日、早朝。まだ6時の鐘が鳴る前だ。
この時間、普段であればアンナは見習いの料理人たちに混じって自分も実家である大盾亭の厨房に立ち、修行の一環として朝のまかない作りをしているのだが、今日は立つ場所が違った。
今日、アンナが立っている厨房は、最近になって雇ってもらったナダイツジソバの厨房だ。
アンナ、チャップ、アレクサンドルという、調理も担当する従業員3人の修行として、それぞれ週に1日だけ朝のまかないを担当することになったのだが、各人の都合などを擦り合わせた結果、アンナは水曜日の担当となった。
大盾亭とナダイツジソバ、その両方で働くアンナには、当然ながらナダイツジソバに出勤しない日がある。それを考慮して、各人が朝のまかないを担当する日は、アンナの出勤日に合わせよう、ということになったのだ。
何だか気を遣ってもらったようで申し訳ないのだが、アンナは皆の厚意に甘えることにした。
今日は初めてアンナが朝のまかないを担当する日なのだが、実のところ、以前からあることを考えていたので、今回はそれを試そうと思っている。
その、以前から考えていたことというのが、ずばり『ナダイツジソバのダシで大盾鍋を作ったらどうなるのだろう』ということだ。
料理人としての経験上、食材を煮込んだ湯には、食材の旨味が溶け出すということは知っていた。食材の旨味が溶け出した湯をダシと呼称するというのはナダイツジソバで学んだことだが、ともかく、アンナはそうとは知らず、普段からダシに接していたということになる。
実家である大盾亭の名物、大盾鍋。これは肉でも魚でも野菜でも、何でも煮込んで食べるものだ。基本は肉と野菜の鍋なのだが、客側が追加で魚や貝といった具材も注文出来る、といった具合である。
しかしながら、何でも煮込むという性質上、どうしてもごった煮風の味わいになるし、あまりにも具材を沢山入れ過ぎると食材の良くない面、例えば雑味のようなものも目立つようになるのも事実。
何せ基礎の味付けが塩と、カテドラル王国でも手に入るようなそこまで香りの強くない、辛味というよりは酸味の強い香草だけなのだ。大衆向けの食堂という性質上、食材の臭みを消すガツンとしたパンチのある香辛料は手に入らない。
また、雑味の元になるからと、何でも入れれば良いというものではない、などと客に言える筈もなかった。
何処までも上品なナダイツジソバのダシ。ここに、ごった煮風にならないよう、アンナの厳選した具材を入れて煮込み、大盾亭とナダイツジソバの良いとこ取りをした鍋を作れないかと、そう画策している次第。
今日は鍋にする。その料理に名前を付けるとするならば、ナダイツジソバ風大盾鍋、といったところか。
食材はナダイツジソバにあるものを好きに使っていい、ということだったので、肉は店の冷蔵庫にある豚肉を使う。
大盾亭で使っている肉は主に魔物の肉なのだが、これは正直、ナダイツジソバの豚肉には劣っている。
タイラントボアやレッドバイソン、フェニックスモドキといった一部の魔物の肉は極上の美味さを秘めているのだが、そういった肉は総じて市場価格が高く、大衆食堂で扱うには向かないものだ。だから大盾亭ではオークやミノタウロスの肉といったものを使っているのだが、これらの肉は先にも触れたように、ナダイツジソバの豚肉に敵うものではない。
だが、野菜については大盾亭から持参するものを使わせてもらう。ナダイツジソバで使われているペコロスや人参、ネギといったものは確かに美味いのだが、鍋の具材として考えると、それだけでは足りない。大盾鍋で使う野菜は、キャベツ、季節のキノコ、ロータスと呼ばれる蓮の根、カボチャといったものが主。
残念なことに、これらの野菜はナダイツジソバでは取り扱っていない。それ故の持参だ。
店長であるフミヤ・ナツカワは、食材を持ち込む場合はちゃんとその分の金を払うと言ってくれたのだが、今回に限っては、アンナにその金を受け取るつもりはない。
これは確かに修行ではあるのだが、同時に、アンナが以前から構想していたことを試すものでもある。言わば、まかないという場を借りて試作料理の試食をしてもらうようなもの。これで金を取るのはアンナの心情的に否である。
まだ陽も昇らない朝っぱらから重たい野菜を担いで来るのは少々骨が折れたが、まあ、これも修行だ。見習い時代はこれくらいのことは毎日やっていた。初心忘れるべからずだ。
ナダイツジソバの質の良い豚肉と野菜、家から持って来た各種野菜を調理台に並べるアンナ。
まずは食材をそれぞれ一口大に切ってから、大鍋にダシを移し、火が通るのに時間のかかるロータスと人参、カボチャから煮ていく。全ての食材を一度に煮てしまうと火の通り方がバラバラになって、肉は食えても野菜はまだ生で食えない、などということが起こってしまうからだ。それに一度に全ての食材を煮てしまうと、灰汁の量が凄いことになってしまう。灰汁というのはエグみの塊。鍋に浮くのは極力避けたいものだし、口に入れたいものでもない。
丹念に灰汁を取り、減った分のダシを適宜足しながら、キャベツ、キノコ、豚肉と入れていき、最後にショウユとシチミ少量を入れる。ここでカエシを入れてしまうとまんまソバツユになってしまうので、今回はショウユでスッキリとまとめてみたのだ。
シチミを入れたのは単純にアンナが辛いものが好きで、カレーライスを食べて以来、辛い料理への熱が上がっているからなのだが、フミヤ曰く、シチミには7種類もの香辛料が入っているらしい。7種類もの異なる刺激。これは入れない手はないだろう。
カレーライスのルーを入れた鍋というのも一瞬は考えたのだが、それはもう具材がいつもと異なるカレーライスにしかならないだろうと思ってやめたのだ。
丹念に灰汁を取りながら、そろそろネギを入れるかな、と思っていたところで、2階からすでに制服に着替えたフミヤが下りて来た。彼だけ先に下りて来たということは、同居しているルテリアとシャオリンはまだ寝ているか、ゆっくり身支度をしているのだろう。
熱心に作業している間に、どうやら6時の鐘も鳴っていたようだ。あの大きな鐘の音に気付かなかったということは、それだけ作業に集中していたのだろう。
「やあ、おはよう、アンナさん。いい匂いするね?」
エプロンのポケットから三角巾を取り出し、それを頭に巻きながらフミヤが朝の挨拶をしてきたので、アンナも顔だけ向けて挨拶を返す。
「おっす、おはよう、店長」
「おー、美味そうだね。今朝は鍋かい?」
背後から具材を煮込んでいる最中の鍋を覗き込み、フミヤがそう訊いてくるので、そうだとアンナは頷いた。
「ああ。うちの大盾鍋と、ツジソバのダシとを掛け合わせてみようと思ってさ」
「へえ、うちと大盾亭のコラボか……」
「こらぼって何だい?」
コラボ。聞き慣れない言葉である。何かの料理用語だろうか。
疑問に思ったアンナが質問すると、フミヤは何故だか少し困ったような顔をしてから、苦笑して答えた。
「え? あ、ああ、つまりはあれだ、今、アンナさんが言った、掛け合わせって意味だよ」
「ふうん……」
自分から質問しておいて何だが、アンナはそう生返事をする。
別に料理用語でも何でもなかったが、まあ、世の中にはそういう言葉があるのだろう。アンナはお貴族様のように学び舎へ行っていた訳ではないので知らない言葉も多い。詮索するような真似はしていないが、フミヤは家名があるから恐らくは貴族の出身だろうし、何より人生の先輩だからアンナより物知りなのだろう。
アンナがそんなことを考えていると、ふと、フミヤが真面目な顔をして鍋を指差した。
「それより鍋、見てなくていいの? 灰汁出てるよ?」
「え? あッ!?」
指摘されて振り返ると、確かに肉のあたりから灰汁が出ている。肉というのは目を離すとすぐ灰汁を出す。経験則として知っていた筈なのに、すっかり油断してしまった。
「あーっとっと……」
大慌てで灰汁取りをするアンナの横で、フミヤが笑いながら朝の仕込みを始める。
丹念に灰汁を取ってから、鍋の火を小さくして、家から持参した香草を刻むアンナ。普段はこの香草を最初に煮込んで味と香りを鍋のスープに移すのだが、今回は細かく刻んだものを各自好きなだけ入れてもらうことにした。つまり、薬味ということだ。チャップやアレクサンドルあたりは何でも食うだろうが、シャオリンあたりはあまり好まないかもしれないと、そう思い、こういう形にしてみた。
そして次は、付け合わせにと持って来たピクルスを刻む。これはオーソドックスな酢漬けなのだが、これにも少量の香草を入れ、香りを移している。酢漬けなので元来が酸っぱい味わいになってはいるものの、香草を入れると、酢のストレートな酸っぱさが何故か少し丸くなるのだ。本来であれば砂糖など入れたいところなのだが、そのような高級品は大盾亭のような大衆食堂では扱っていない。
と、アンナがピクルスを刻み終え、もうそろそろ鍋も良い具合になるな、というところで、まだ少し眠そうなルテリアとシャオリンが2階から下りて来て、挨拶も早々に着替えを終えた。
厨房の脇を通って着替えに行く途中、2人はアンナの鍋に視線を移し、
「朝から豪勢だね」
「美味しそう」
とそれぞれ笑顔を浮かべていたので、反応は上々といったところか。
彼女らも着替えを終え、布巾を手にホールの拭き掃除を始めたところで、今度はチャップとアレクサンドルが出勤してきた。
彼らも挨拶をしてから着替えに行く途中、作業をしているアンナの後ろで足を止め、それぞれ、
「お、鍋料理ですか。美味そうだなあ」
「大盾鍋……とは少し違いますね。なるほど、これはナダイツジソバのダシの香りだ」
と感想を述べる。
2人とも笑顔でそう言っていたので、アンナは少しほっとしてしまった。
別に何かの競争をしている訳ではないのだが、彼らとは切磋琢磨し合う間柄。しかも、今回の鍋はアンナも初めて作る料理。そんな彼らにもこの鍋は今のところ好印象なようだったので、思わず安堵したのだ。無論、本番は実食の時なのだが、まあ、第一関門はとりあえずクリア、といったところか。
そうこうしているうちに、最も火の通り難いロータスやカボチャも煮え、鍋が完成する。
コンロの火を止めて顔を上げると、丁度ホールの清掃が終わったところだった。
「まかない出来たよ! みんな、座っとくれ!」
大きな鍋を持ってアンナがホールに出ると、皆が待ってましたとばかりに歓声を上げ、一斉に席に着いた。
アンナがテーブルの上に鍋を置くと、皆が首を伸ばして鍋を覗き込む。
「「「「「おおおおぉー……」」」」」
鍋からもうもうと立ち昇る湯気をたっぷりと顔に浴びながら、アンナ以外の5人が感嘆の声を洩らす。
この美味そうな匂い。作った本人であるアンナでさえ口内に唾液が溢れているのだから、彼らにしてみれば辛抱堪らないだろう。
5人が鍋に見惚れている間に、どんぶりに人数分のコメをよそって持って来るアンナ。それを皆に配り、鍋用のどんぶりも配り終えると、いよいよ実食だ。
「「「「「「いただきまーす!!」」」」」」
各々がレードルで好きな具材を掬い、それぞれ食べ始める。フミヤはペコロスを、ルテリアはロータスを、チャップはカボチャを、シャオリンは肉を、アレクサンドルはキャベツを。アンナはダシが出ていそうなキノコだ。
「うん」
キノコを咀嚼しながら、アンナは思わず唸ってしまった。
我ながら美味い。
このキノコのプリプリとした食感に、いつもの大盾鍋とは違う、コンブとカツオブシのダシ、ショウユの独特な香りと塩味。そこに煮込まれた具材から出た旨味も加わり、予想以上に玄妙な味わいになっている。シチミを加えたことにより、具材を嚥下した後にピリリとした辛味が際立つのもいい。
そしてこの濃厚な鍋の味は、実にコメが進む。具材1口に対し、コメ1口。スープを飲んでコメ1口。
自画自賛のようであれなのだが、これは実に良い。大盾鍋では、こうもパンやパスタが進むということはないだろう。別に大盾鍋がこれに劣っているということではない。あれは鍋だけで完結しているものだという、それだけの違いだ。
普通に食べるのも美味いが、ここでふと、薬味として香草を用意していたことを思い出し、よそった鍋にひと摘みほど入れて食べてみる。
「おぉ……ッ」
思わず声が出てしまった。
たったひと摘み香草を入れただけだというのに、それだけで随分と味わいが大盾鍋に近付いた。
この香草の酸味。これが大盾鍋を大盾鍋たらしめているのだと、改めて思い知らされたような気がする。
見れば、皆、一心不乱に鍋をがっつき、シャオリンなどは早々にコメをおかわりしてまで食べていた。そして、薬味の香草を入れて食べると、やはりアンナと同じように「おぉ」と感心したように声を洩らすのだ。
「これはいいね。冬に食べたら、身体があったまるだろうね」
「ですね。お米にも抜群に合います」
「オコメ、おかわりしないと足りない……」
「それにこの香草がまたいい仕事してくれますよね」
「ええ。これがあるとないとで、味わいが随分違います」
皆が笑顔で鍋の感想を述べ合っている。どうやらかなり好評なようだ。
アンナが満足そうに頷いていると、ここで急に、ルテリアが何事か思い出したというように「あ!」と声を上げた。
「そうだ! いいこと思い付いた! これ、鍋の締めでおじやにしたら美味しいんじゃないですか!?」
「「「「オジヤ……?」」」」
オジヤ、という聞き慣れない言葉に対し、アンナ、チャップ、シャオリン、アレクサンドルの4人が首を傾げる。
恐らくはこの鍋に何か手を加えた料理のことを言うのだろうが、アンナはそんなものの存在は知らなかった。創業当時から鍋料理を出し続けている大盾亭の娘だというのに。そう思うと、何だか悔しいような気持ちが湧いてくる。
不思議そうな4人とは対照的に、フミヤは「おぉ!」と笑顔を浮かべて頷いた。きっと、彼はオジヤなるものが何なのか知っているのだろう。
「おぉ、おじやね。確かに美味しそうだね、それ」
2人だけが知っている謎の料理、オジヤ。
鍋料理の老舗、大盾亭に生まれたアンナが、鍋とは別の料理人に鍋のことで教えを乞う。以前のアンナであれば、妙なプライドが邪魔して素直に訊けなかったかもしれないが、今は違う。小さなプライドよりも学びの方が遥かに大事だ。
アンナは堪らずに「あの……」と、フミヤに訊く。
「オジヤ……って何?」
アンナが訊くと、フミヤは「ああ」と頷いてから説明してくれた。
「おじやっていうのはさ、鍋の締めに、残ったスープにごはんを入れて軽く煮込んだ料理なんだ。卵なんか一緒に入れて煮込むと、もっと美味しくなるんだよね。麺で締めることもあるけど、俺は断然おじや派だな」
「あっ、私も」
フミヤに同意するよう、ルテリアも頷く。
鍋の締め、という言葉自体、アンナには聞き覚えがない。残ったスープはそのまま飲んでしまうか、それでなければ飲まずに捨ててしまうもの。これを使って更に別の料理を作るという発想自体がアンナにはなかった。というか、そんなものは父や兄にすらもないだろう。
フミヤ・ナツカワという男。まさか鍋料理にまで造詣が深いとは、何とも恐れ入る。
「な、何それ!? すげー美味しそうじゃんか!!」
興奮して、思わず声を上げるアンナ。
具材の旨味が溶け込み、凝縮したスープ。そして、そのスープを余すことなく吸ったコメは、どんな味になるのだろうか。ナダイツジソバの従業員ではあるが、同時に大盾亭の娘であるアンナにとっては何より興味深いことだ。
「あんたたち、急いで全部食いな! あんたたちも食いたいだろ、締めのオジヤってやつ?」
「「「おーーーーーッ!!」」」
アンナが音頭を取り、チャップ、シャオリン、アレクサンドルがそれに応えて大音声を上げる。
アンナだけではない、やはり皆、その締めとやらに興味津々なのだ。
自分の器に勢い良く鍋の具をよそいながら、アンナは、この締めという概念を何としてでも大盾亭に持ち帰らねばと、そう決意を固めていた。
コメという穀物はこのナダイツジソバ以外で見たことがないので、オジヤの再現は難しいだろう。だが、彼は先ほど、確かに「麺で締めることもある」と、そう言っていたのだ。パスタならば大盾亭でも取り扱っている。パスタを打つのは兄の方が得意なので、兄にも協力してもらうべきだろう。
手始めにパスタを大盾鍋に入れて煮込んでみるかと、アンナは鍋をがっつきつつ、早くも家に帰った後の算段を立てていた。
書籍版『名代辻そば異世界店』の発売がいよいよ来週25日に迫っております。
1人でも多くの読者様にお読みいただけることを、作者として切に願っております。




