今日、話ができるということ
夕方の駅前は、今日も騒がしかった。
仕事帰りの足音と、信号機の電子音と、誰かの笑い声が混ざり合って、街は何事もない顔をしている。
私は改札横のベンチに座り、ただ人の流れを眺めていた。
少し離れた場所で、若いカップルが言い合っている。
「なんで既読ついてるのに返さないの」
「仕事だったって言ってるじゃん」
「でも、ちょっとくらい返せたでしょ」
ありふれたやり取り。
きっと明日には元通りになる、そんな温度の衝突。
彼女はしばらく黙ったあと、小さく言った。
「……少し距離置こうよ」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥で何かが軋んだ。
距離を置こう。
そう言えるのは、また戻れる未来をどこかで信じているからだ。
距離は、縮め直せる人にしか使えない言葉だ。
私は目を伏せた。
私の恋人は、もういない。
喧嘩が増えていた。
些細なすれ違いが積もって、言わなくていいことまで言うようになっていた。
既読が遅いとか、会えない日が続くとか、優先順位がどうとか。
どれも、今思えば取るに足らないものだった。
あの日も、くだらないことで口論になった。
「少し考えたい」
「俺も」
そのまま、連絡は途切れた。
私は本気で距離を置くつもりだったわけじゃない。
頭を冷やせば、また戻れると思っていた。
時間が解決すると思っていた。
数日後、彼は自分で命を絶った。
理由は、私との喧嘩だけじゃなかった。
仕事のこと、家族のこと、昔から抱えていたもの。
色々な重なりの上に、最後の一滴が落ちただけだと、周りは言った。
それでも。
最後に突き放した言葉が私だったという事実は、消えない。
目の前のカップルは、まだぎこちなく向き合っている。
「ちゃんと考えたいだけ」
「終わりたいわけじゃない」
彼の声は震えている。
彼女も泣きそうな顔で頷いている。
ああ、と私は思う。
あなたたちは幸せだ。
その人にはその人なりの辛さがある。
今この瞬間だって、胸が張り裂けそうなのだろう。
それは本物の痛みだ。
それでも。
距離を置こうと言える相手が、まだ生きている。
時間をあげたいと思える相手が、明日も息をしている。
それが、どれだけの奇跡か。
私は、もう距離すら置けない。
冷却期間もない。
戻るという選択肢もない。
会えないのではない。
二度と会えないのだ。
もしあの日に戻れるなら。
距離なんていらないと言う。
喧嘩なんてどうでもいいと言う。
嫌われてもいいから、そばにいると言う。
既読が遅くてもいい。
未読でもいい。
ブロックされてもいい。
ただ、生きていてほしかった。
やがて彼女が小さく息を吐き、「ごめん」と言った。
彼も「俺も」と返す。
二人の間に、細いけれど確かな糸が戻る。
私は立ち上がる。
距離を置こうと言える未来がある人たちへ、
どうかその時間を無駄にしないでほしいと、勝手に願いながら。
夜空を見上げる。
あの人の時間は、もう進まない。
私の中でだけ、止まったまま残っている。
距離を置こう。
そう言えたあの日。
それが最後の言葉になるなんて、思ってもいなかった。
もしもう一度だけ会えるなら。
私は、距離なんて置かない。
喧嘩もする。
泣きもする。
それでも、手を離さない。
生きているということは、
やり直せる可能性があるということだ。
それを失ってから、私はようやく知った。




