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今日、話ができるということ

作者: P4rn0s
掲載日:2026/02/12

夕方の駅前は、今日も騒がしかった。

仕事帰りの足音と、信号機の電子音と、誰かの笑い声が混ざり合って、街は何事もない顔をしている。


私は改札横のベンチに座り、ただ人の流れを眺めていた。


少し離れた場所で、若いカップルが言い合っている。


「なんで既読ついてるのに返さないの」

「仕事だったって言ってるじゃん」

「でも、ちょっとくらい返せたでしょ」


ありふれたやり取り。

きっと明日には元通りになる、そんな温度の衝突。


彼女はしばらく黙ったあと、小さく言った。


「……少し距離置こうよ」


その言葉を聞いた瞬間、胸の奥で何かが軋んだ。


距離を置こう。

そう言えるのは、また戻れる未来をどこかで信じているからだ。


距離は、縮め直せる人にしか使えない言葉だ。


私は目を伏せた。


私の恋人は、もういない。


喧嘩が増えていた。

些細なすれ違いが積もって、言わなくていいことまで言うようになっていた。

既読が遅いとか、会えない日が続くとか、優先順位がどうとか。

どれも、今思えば取るに足らないものだった。


あの日も、くだらないことで口論になった。


「少し考えたい」

「俺も」


そのまま、連絡は途切れた。


私は本気で距離を置くつもりだったわけじゃない。

頭を冷やせば、また戻れると思っていた。

時間が解決すると思っていた。


数日後、彼は自分で命を絶った。


理由は、私との喧嘩だけじゃなかった。

仕事のこと、家族のこと、昔から抱えていたもの。

色々な重なりの上に、最後の一滴が落ちただけだと、周りは言った。


それでも。


最後に突き放した言葉が私だったという事実は、消えない。


目の前のカップルは、まだぎこちなく向き合っている。


「ちゃんと考えたいだけ」

「終わりたいわけじゃない」


彼の声は震えている。

彼女も泣きそうな顔で頷いている。


ああ、と私は思う。


あなたたちは幸せだ。


その人にはその人なりの辛さがある。

今この瞬間だって、胸が張り裂けそうなのだろう。

それは本物の痛みだ。


それでも。


距離を置こうと言える相手が、まだ生きている。


時間をあげたいと思える相手が、明日も息をしている。


それが、どれだけの奇跡か。


私は、もう距離すら置けない。

冷却期間もない。

戻るという選択肢もない。


会えないのではない。

二度と会えないのだ。


もしあの日に戻れるなら。


距離なんていらないと言う。

喧嘩なんてどうでもいいと言う。

嫌われてもいいから、そばにいると言う。


既読が遅くてもいい。

未読でもいい。

ブロックされてもいい。


ただ、生きていてほしかった。


やがて彼女が小さく息を吐き、「ごめん」と言った。

彼も「俺も」と返す。

二人の間に、細いけれど確かな糸が戻る。


私は立ち上がる。


距離を置こうと言える未来がある人たちへ、

どうかその時間を無駄にしないでほしいと、勝手に願いながら。


夜空を見上げる。


あの人の時間は、もう進まない。

私の中でだけ、止まったまま残っている。


距離を置こう。

そう言えたあの日。

それが最後の言葉になるなんて、思ってもいなかった。


もしもう一度だけ会えるなら。


私は、距離なんて置かない。

喧嘩もする。

泣きもする。

それでも、手を離さない。


生きているということは、

やり直せる可能性があるということだ。


それを失ってから、私はようやく知った。

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