第二十八話 少女と元バディと昔話
◯開拓中継基地 トレーニングルーム
開拓中継基地の窓には、夜の漆黒が覗いていた。窓ガラスには明るいトレーニングルームとサンドバックが映り込んでいる。
スパンと小気味よい音が響く。
トレーニングウェアを着たイワオが、サンドバッグを叩いている。右頬から右肩口まで伸びる大きな傷の先には、機械の腕が付いていた。
肉と機械の腕を軋ませながら、イワオがトレーニングルーム入口を向いた。
「なんだ」
見つめる先にはアオイがいる。気弱そうな垂れ気味の丸目を泳がせながら、ワタワタと手を振った。
「いえ! ちょっと、通りかかっただけで!」
「別に怒ってはおらん」
「あ、いや、その……。すみませんでした」
「怒ってはおらんと言っている」
それからアオイは口をモゴモゴと動かすばかりで喋らなくなった。イワオが、ふぅと息を吐く。
「……セゴエが入ってきたときに世話をした。それだけだ」
「あの、笑ってしまって、その……」
「さては誤解されたか」
イワオが仕方無しと、白ひげを撫でる。
「怒ってはおらん。やつに懐かれている姿を見られるのが、むず痒いだけだ」
口にしたのはそれだけだったが、イワオを笑ってしまったという罪悪感が抜けていく。ようやっと、いつもの調子で喋ることができた。
「すごく慕っているようでしたけど」
「ヤツの気質だ。人懐っこさは昔から。誰にでもああだ」
「昔からって、イナビシの頃からですか?」
「ああ、その頃からだ。やつがまだ小僧の頃からだ」
「イナビシって、すごい人がいたんですね」
「セゴエ、トモ……いや社長、ジョウなど、当代の綺羅星が揃っていた」
イワオが遠くを見る。
「そこで思い知った。才能とは残酷だと」
憧れの宝物を見るような、消して手の届かない蜃気楼を見るような、遠い目だった。
「いくらでも上がいる。ワシが躓いているうちに、二段三段と飛ばして進む」
切れ長の三白眼が、頭に浮かんだ。
「本当に……そうですよね」
イワオがちらりとこちらを向いた。
「ソウ。やつか」
「……それ以外にも」
「難儀だな。互いに」
もし、自分を同じ悩みを引きずっているなら。もし、自分と同じような若い時があるならば。
「なんで、イワオさんは武装警備員を続けるんですか」
「どういう意味だ」
「なんで、そこまで色々頑張って、色々気を付けて、ずっと張り詰めて」
「そうだな。どうしても……」
「どうしても?」
「どうしても目に焼き付いた――」
その時、背後に気配を感じた。イワオの声を遮ったのは、老いて、それでも通る声だった。
「やはりここだったか」
逆立つような白髪に、額の小さなキズ。何より印象的なのは、鷲のようにギラついた瞳だ。
「ジョウか」
「あ、あなたは……!」
前回の威圧を思い出し、そのまま二歩三歩と下がる。そこへ、イワオが進み出た。
「アオイ。大丈夫だ」
「でも、この前みたいに」
「問題はあるまい。それよりも、頼みがあるのだが」
「な、なんですか?」
「二人にしてくれないか」
また、ひどいことを言われるのではないか。そう思い、前後ろと交互に見やる。
「分かりました。何かあったら――」
「大丈夫だ。ワシが一番、こやつを知っている」
なぜ、イワオがそんなことを言うのか。本当に大丈夫か。無数の疑問が浮かぶ。しかし、二人の老兵の間に流れる空気は、意外なほど穏やかだった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
トレーニングルームにイワオとジョウの二人が佇んでいる。鷹と鷲、猛禽同士が見つめ合う。羽を休める二羽のうち、鷹が語りかける。
「どこに?」
「ここで」
「ワシは続ける。適当にしろ」
「分かった」
イワオが黙々とサンドバッグを殴り続ける。そして、なんとなしに呟いた。
「ジョウ、今日は一人か」
「そういう気分の時もある」
またしばらくの沈黙。しかし、緊張はない。今はそういう事を気にしなくていい。互いが互いに、そういうものだと知っている。
「お前は変わらんな。ジョウ」
「何がだ」
「二人だと、静かだ」
ジョウがピクリと鼻を動かした。普段はギラついた鷲の目も、今は静かな光を湛えている。ジョウが額の小さなキズを掻きながら答えた。
「イワオ。貴様の前で騙るのは無意味だからな」
「お前はワシを買いかぶる。変わらんな、ジョウ」
「貴様は、相も変わらず卑屈だ」
「驕っておらんだけだ」
「俺への当てつけか?」
「別に。そう思うなら、そう思っておけ」
スパン、とサンドバッグを殴る音が響く。イワオの表情は変わらない。また、しばらくの無言が二人を包む。ややあって、今度はジョウが唇を開いた。イワオとよく似た仕草で、白ひげをしごく。
「人はバグを抱えている。原始の習性を、今の今まで引きずっている」
「珍しいな。語りたいのか?」
「悪いか?」
「いや、お前の語りは悪くはないさ。ジョウ」
そう言って、イワオが僅かに唇の端を上げた。
「お前は真実を撃ち抜く。言葉も、銃も」
「貴様は、相変わらず酔ったセリフを吐く。気色悪い」
「お前は慣れているはずだ。で?」
ジョウは少しだけ嫌そうに、眉間の深いシワを寄せる。そのまま軽く舌打ちをして、鼻息を一つならした。
「虚構の傲慢に群れる者どもは、本能のバグに支配されている無能だ。無能は傲慢な無頼を持ち上げる」
イワオが更にサンドバッグを殴る。そして、苦笑しながら答えた。
「ジョウ。それは、腕があるものに限れば……の話だ。無能が虚勢をまとっても、無視かリンチだ。群衆に、多少とも見極める目はある」
「多少しかないのだよ。大抵は、傲慢であるほど有能と誤認する」
ジョウが憂いを込めた深いため息を吐く。増長した者には不似合いな、心からのため息だった。
「上に立とうとすれば、身体の隅々まで驕りを染み込ませなければいけない。道化と分かっていてもな」
ジョウがガリガリとこめかみを掻く。
「自負を込めて振舞い、他者を貶め、適当に群れを慰めれば君臨は容易い。それは欺瞞だとわかっている。だが、欺瞞を見破り、本質を見抜く力など、大抵の者に備わってはおらん」
「それも、世の中だな」
「一方で、謙虚であれば虚仮にしてもよいと勘違いをする」
それを聞いて、イワオが苦笑いを漏らした。
「そういう輩も多かった」
「イワオ。世の中、無能が大半なのだ」
「ジョウ。ではなぜ、お前は群れる? 無能とそしる輩を囲う?」
その問いに、ジョウの瞳にギラつきが戻る。獲物を狙う猛禽の瞳が、イワオを見定めた。
「群れの力が必要だからだよ。逃げていては何も成せぬ」
「……耳が痛いな」
「お前は群れない。それゆえ、後をついて行くものはいない」
いま、イワオはサンドバッグを独りで叩いている。狙撃銃を構える時も、迫撃砲を狙いすます時も、偵察機が持ち帰った情報を検討する時も。
「そうだな……。そういえば、先ほどはセゴエに会ったよ」
「やつか。随分と貴様に懐いていたな」
「ワシだけ特別に、という訳ではない。当惑はしたがな」
そういって、イワオのパンチはキレをなくした。ボスンと、鈍い音がトレーニングルームに響く。
「お前の言うとおりだよ。セゴエはワシの後はついていかず、奴のスタイルは別物になった」
「貴様の育て方ならそうなるだろう。育てる……と言うより放任といった方がよいか。どこまでも一人が好きだな」
「好きと言うよりはツケなのだろう。気質を変えようとしなかった。気づけば今も一人だ」
そこで、手が止まった。隣で羽を休める鷲に、視線を向ける。
「積み上げてきたつもりだった。だがジョウ。ワシは本当に積み上げられているのか?」
「知るか。逃げてきた貴様が悪い」
「全く、己の愚鈍を思い知るばかりだ」
ジョウが、苦々しげに舌打ちをした。
「愚かな群衆の中で、本質を見る者は一握り」
「なんだ、ジョウ。いきなり」
「鷹の目を持つ者だけは、人なりを見極める。だから、貴様の前では驕りも威圧も意味がない」
それを聞いてイワオが、珍しい物を見たかのように目を少しだけ見開いた。
「ジョウ。ワシを慰めているのか?」
「話を戻しているだけだ。勘違いするな」
「そういう事にしておくか」
「……ふん」
イワオが白ひげを僅かに動かし、乾いた唇の端を上げる。
「人を見極めてなどいないさ。ジョウ。ワシは鈍感なだけだ」
「巌のごとく泰然と」
「そう言われれば、聞こえはいいな」
「俺はそれが、ずっと気に食わなかった」
「ほう。それは知らなかった」
ジョウが、自分の発言に今更気づいたように、目を開いた。そして、鷲の眼を不快げに歪ませて、額の小さな傷を搔いた。
「……チッ。しゃべり過ぎたな」
「珍しい日もあるものだ」
「なぜだろうな。勘の虫が騒ぐ」
「お前の勘は、よく当たる。近々何かあるのかもな」
「貴様は、知ったように俺の事を語る」
「だが、お前と過ごした時間が一番長かったのも事実だ」
鷹の目はどこか遠くを見る。
「ワシとお前。バディを解消した後も、戦場に在ったな。味方として、敵として」
「俺と貴様。助け合った日も、撃ち合った日もあった」
「そう言えば、あれには驚いたな」
「どれだ。イワオ」
「ワシとお前で撃ち合った日に、お前の幻影が傍に、コックピットにいた事だ」
その言葉にジョウが、イワオと同じ様に白ひげをしごいた。
「あの日か。貴様にその事を話されて、俺も驚いた」
クツクツとジョウが笑う。
「貴様の幻影も、俺の傍にいたからな。コックピットで、貴様と語り合うとは思わなかった」
「しかも、一言一句まで俺が幻影の貴様に話した事と――」
「ワシが幻影のお前に話したことが一致するとはな」
そこから二人は、当時の様子を語り合う。
イワオは暗闇のコックピットで、狙いを定めていた。トリガーを引く瞬間、ひらひらと舞い落ちる黒曜の葉が徐々に遅くなり、ピタリと止まる。極限の集中で、起こる時間感覚の歪みだった。
そして、コックピットにジョウが浮かび上がった。極限まで遅くなった時間の中で、幻影のジョウが語りかけてきたことを思い出す。
お互いの偽装、隠れ場所、狙い。
存分に互いの作品を語り合い、狙いを定めた瞬間に引き金を絞った。
内心のおかしさを隠しつつ、肩をすくめる。
「あれはいったい何だったんだろうな」
「あれも一種の勘だよ。イワオ」
「ほう。聞かせろ」
「勘とは、無意識下における予測だ」
ジョウの声からは獰猛さが消え、求道者たる落ち着いた調子になる。優秀な猟師ゆえの、知恵深さが垣間見えた。
「対象について知れば知るほど、考えれば考えるほど精度を増す」
「なるほどな。お前を撃ち殺すために、お前を知ろうとして、お前の事を考えた。四六時中な」
「気色悪い。懸想のような物言いをするな」
ジョウが苦々しげに舌打ちを一つした。
「それでは俺が貴様の事を考えていた様ではないか」
「ワシはそうだった。お前は違うのか?」
「違う。断じて違う」
「ワシの中では、そう言う事にしておこう」
元相棒が忌々しげに鷲の眼を向ける。イワオはそれを軽くいなし、ふと笑った。
「お前の方はさておき、ワシは考えに考え抜いてお前に挑んだということだ」
「返り討ちに遭っては仕方あるまい」
「全くだ。右腕を失うとは思わなんだ」
肩口の傷と、義手となった右腕を見る。
互いを見つけるのも、照準を合わせるのも、撃つのもほぼ同時の勝負だった。
「お前の方が数瞬だけ撃つのが早かった。ほんの数瞬だけ」
「負け惜しみを。その数瞬が決定的な差だ」
ジョウが勝ち誇るような笑みを浮かべる。
しかし、徒党を組んでいた時のような嘲りは見えなかった。子どもの遊戯に勝ったような、無邪気な少年の笑みだった。老いてなおギラつく瞳を向けながら、ジョウが断言した。
「イワオ。貴様には埋められんよ」
「そうかもな。そうでないかも知れんが」
「老い先は短いぞ? できるのか?」
「さあな。夢だけは見て、いまも戦場を彷徨っている」
イワオが、なにかに気づいたように眉を上げた。
「そう言えば今日、お前の真似をしてみたよ」
「俺の真似? どれだ」
「蒸気の向こう、つまりセンサー感知範囲の向こうを撃ってみた」
イワオが、ため息と嘲笑をこぼした。
「当たらなかったよ。お前の様には」
「そうか」
ジョウは嗤わなかった。静かな鷲の眼を見て、問いかける。
「ジョウ。聞いていいか?」
「ダメだ。どうせ、いつものだろう?」
やれやれとジョウが首を振る。まるで、菓子をねだる子どもを前にした親のような仕草だった。
「俺がスナイパーとして一流な理由は? 貴様との差は何か? 何度、同じことを聞く」
ジョウが腕を組んだ。
「自分こそが撃つ側と言う、自負こそが――」
「お前こそ、何度同じことを言わせる。腕を組んでいるぞ」
ジョウがピタリと動きを止めた。そのまま組んだ腕に視線を下げると、ジョウが苦々しげに腕をほどいた。
そして、再びイワオが問いかける。
「ワシは、本当の事を聞きたいのだ」
ジョウがうつむいたまま唇を締めた。それはジョウが見せる黙秘の合図だった。
「毎度毎度、なぜ拒む」
「貴様には言いたくない。それ以外に理由はない」
イワオが、諦めたようにサンドバッグへ振り返ったときだった。
「だが……そうだな。今回だけ。今回だけは特別にヒントをやろう」
イワオが立ち止まり、ジョウを向いた。語る鷲を、静かに見つめる。
「ほう。どういう心変わりだ」
「勘だよ。勘の虫が騒ぐからだ」
「先ほどもそうだが、珍しいな。で?」
「俺には鴫の気持ちが分かる」
「つまり鴫撃ちの獲物の気持ちか……」
スナイパーとは、元々は鴫撃ちの尊称である。
天敵の気配を素早く察知する鴫を撃つのは至難の技だ。一旦飛び立てばジグザグに飛行し、射撃難度に拍車をかける。だからこそ、鴫撃ちは尊敬される。
「ワシも、知恵をつけて、分かろうとしているのだがな」
「心で分かる俺には敵わんよ。頭でしか分からない間にはな」
ジョウがちらりと時計を見た。
「しゃべり過ぎたな。今日は寝る」
「そうか。ワシもしばらくしたら寝るよ」
トレーニングルームの入り口へ向かうジョウが、ふと歩みを止めた。そして、肩越しに鷲の眼を向ける。
「俺がしばらく戦場に現れなかった理由は聞かないのか」
「聞いたら答えるのか?」
「……いや」
「だと思ったから、聞かなかった」
「ふん。やはり小癪な奴だ」
それだけ言って、ジョウは去っていった。
イワオはまた独りに戻り、サンドバッグを叩き続ける。
「ジョウ。お前はいつも何かをつかんでいた。それがワシにはつかめなかった」
雲を突き抜けるような高みを飛ぶ鷲を見上げながら、片翼の鷹は今日も地べたを往く。
「己のような凡愚が、スナイパーへ憧れ続けたが故の苦悩か。自業自得だな」
イワオは今日も己という精密機械を調整し続ける。ずっと、これからも。




