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ヒュプノランタン  作者: 雪麻呂
好奇心は猫を撫でる
96/97

君に幸あれ。

12.






「あいたっ」


 尻餅を付いたヘンゼルに、ムゥが振り返りました。


「大丈夫か?」


 心配げに、手を差し伸べてきます。


「……先生?」

「怪我はないか? どこか打ったか?」


 矢継ぎ早の出来事に、ヘンゼルは、わけもわからず呆然とします。

 ええと、僕、紅葉さんと話してて、穴に落ちたんだよね?


「…………ぼく、どうなったの?」

「あの絵に吸い込まれたみたいだな」


 絵。

 悪魔が取り憑いていた、あの絵画。

 確かに、それが切欠でした。悪魔が溶けて、猫になって、頭がぼうっとして、気が付いたら、一人でススキの野原にいました。向日葵、椿、紅葉。季節のレリーフと引き換えに、彼等の望みを叶えて歩いたのです。少なくとも、数時間はそうしていたはずでした。

 ところが、ムゥの様子からして、どうも大事の気配がありません。そんなに長い間ヘンゼルが迷子になっていたなら、とっくに発狂しているはずなのに。

 ……夢、だったの?

 ポケットを探ります。

 レリーフは、一枚残らず、なくなっていました。


「はーァ、たまげたたまげた」


 背後から、揚々とセヴァが現れました。

 ヘンゼルが放り出したらしいリュックと、もうひとつ。

 ショッキングピンクの生首を、小脇に抱えて。


「その猫!」

「おう。そこに転がってやがッた」

「貸せ! 毛を毟ってやる!」

「よせよせ。ウンともスンとも言わねェよ」

「セヴァさん……」

「おッ、おチビ。怪我ァねェかい?」


 ずいぶん深い穴に落ちた気がしましたが、痛みはさほどありません。

 ちょっと滑って、転んだ程度です。

 つまり、自分と猫の時間だけが、何処か別の場所で流れていて。

 ムゥとセヴァにとって、それは一瞬だったということ?


「…………」


 ぼろぼろと、ヘンゼルの両眼から涙が零れました。

 それを見たムゥが、慌てて肩を擦ってきます。


「痛いのか? どこだ? 脚か? 腰か?」

「ちが……ひっく……」

「あぁ……怖かったのか。心配いらない。悪魔は退治したぞ」

「ん、うん、うん」


 ぎゅっとムゥに抱きついて、ヘンゼルは、何度も頷きました。

 怖かった。心細かった。心配ばかり掛けてごめんなさい。話したいことは、たくさんあります。でも今は、ただひとつの感情で、胸がいっぱいでした。

 ――帰ってこれたんだ。


「よしよし。私は此処にいるから」


 ムゥの胸に顔を埋めて、ヘンゼルは、心の底から安堵します。

 気が抜けたのでしょう。どっと疲れが襲ってきました。

 あまりに温かくて、心地良くて、このまま眠ってしまいたくなります。

 でも、いけません。

 自分の始めた物語です。

 結末を、見届けなくては。


「……もう……だいじょうぶ」


 きっぱりと顔を上げ、ヘンゼルは、ムゥの腕を解きました。

 涙を拭って見渡せば、どうやら此処は、大きな建物の内部です。

 床や壁は木造で、柱には、不思議な文様が彫り込まれています。元は美しかったのでしょう、禿げた金色の装飾が、中途半端に残っているのが、却って寂寥を煽りました。抜けるような高い天井とは言いますが、本当に抜けているのはどうか。頭上には青空が広がり、そこへ骨格めいた梁が、かつて屋根のあった痕跡を伺わせるのみです。

 どことなく、今暮らしている庵に造りが似ていました。

 しかし、雰囲気が違います。住居にしては、なんというか……。


「棄てられた本殿、か……」


 セヴァが呟きました。


「この場所を知っているのか?」

「いや知らねェ。知らねぇが」


 心なしか切ない視線が、部屋の奥へと流れます。

 ヘンゼルも気になっていました。

 そこには、観音開きの大きな戸棚がありました。


「おそらく、此処が目的地だぜ」


 言いながら歩み寄り、二拝二拍手一拝。

 綺麗な作法で施して、セヴァは、戸を開帳しました。


「! これは……!」


 中に収まっていたのは、くたびれた動物の像でした。

 前肢が、ぽっきり付け根から欠けていました。

 色こそ、くすんだ土色ですが、それでも一目でわかります。

 特徴的な肉付きの曲線。尻尾の形状。

 何より、頭がありません。

 ちょこんと()()()()したそれは、子供ほどある、猫の胴体でした。


「そうか……」


 ムゥが眼を細めます。

 王冠を取り戻すべく追い掛けてきた猫の生首は、それそのものが、目的であり、ゴールだったのです。自分たちが追い掛けてきた生首は、この猫の、頭だったのでした。王冠が外れないのも納得です。それだけ回収できるのなら、きっと三人は、こんなところまで来なかったでしょうから。


「ほらよ、勇者様」


 セヴァが、抱えた猫の生首を、ヘンゼルに差し出します。

 もう三人が三人とも、今すべきことを理解していました。


「お前のお役目だ。返してやんな」

「……うん」


 ヘンゼルは、受け取った生首の頬を、軽く撫でてやります。

 温かくて、ふわふわして、やっぱり王冠は取れません。

 変なの。くすっと笑って、今一度。お騒がせな毛玉を抱きしめました。

 でもありがとう。

 楽しかったよ。囁いて、ヘンゼルは、そっと生首を胴体の上へ乗せました。

 かちりと、ネジを締めたような手応えが伝わって、猫が、輝き始めました。

 黒ずんだ胴体と、ショッキングピンクの頭。ちぐはぐな色合いは、ほわり仄白い光に薄められて混ざり、絵の具めいて、桃色に染まります。合わせて春の香りが、花吹雪のように通り抜け、その行方を追って振り返った途端、ぶわり。

 視界に、春が咲き乱れました。

 歪んだ柱に、片落ちの扉に、剥がれた床に、ささくれた梁に。

 あちらに蒲公英(たんぽぽ)。こちらに桜。たちまちのうちに、朽ちた神殿は、穏やかな春に包まれたのでした。

 見惚れるヘンゼルの背後で、猫の眼が、かっと瞠目しました。

 続いて、ピンク色の鼻が、ひくひくと震えます。

 気付いたムゥが、素速くヘンゼルを後ろに庇いました。

 そこへ猫が、鋭い牙も露わに、くわっと大きな口を開けて――











『ふぅうわ……』


 欠伸をしました。

 そのまま顔を洗おうとしたのか、小首を傾げ、舌をぺろりと出して、前肢のないことを思い出したのでしょう。ちょっと不満げに眼を細め、尻尾で床を叩きます。代わりとばかりに、かかかっと後肢で耳の裏を掻き、一応は気が済んだ顔で、ふんと鼻を鳴らしました。


「ね、ネコさん?」

『うん? あぁ、勇者殿であるな。首を運んでくれて、どうもご苦労さんである。でも遅いのである。吾輩、待ちくたびれて眠ってしまったのである』


 桃色猫は、悪びれもせず言い放ちます。

 大きさが大きさなので、それなりに威厳のある姿なのですが、こそばゆい猫撫で声と恰幅の良さが相まって、絶妙な胡散臭さです。三日月の形こそ引っ込めていても、却って一癖ありそうな口元や、セヴァによく似た金色の眼は、やはり只猫ではなさそうでした。


『にゃむ、歳取るといろいろ緩くなっていかんのである。うっかり首落っことして困ってたのである。助かったのであるよ』

「そんなもの落とすか?」


 すかさずムゥがツッコミます。

 じゃあ何か。此処までのドタバタは、老猫の締まりの緩さが原因か?

 自分達の道中は、その介護だったのか?

 ドサクサで忘れそうになっていた怒りが、再燃しました。

 元はと言えば、それが切欠だったのですし。


「お前の被っている王冠は、陛下の御物だぞ! 真贋の問題じゃない。不敬この上ない所業だ! 帝国への侮辱が、どれほどの罪かわかっているのか?」

『知らんのである。吾輩、そんな国の出身ではないのである。市民権もないのに罪を問われては堪らんのである。あんなキラキラの面白そうなもの、これ見よがしに置いとく方が悪いのである』


 猫は、ムゥの剣幕など何処吹く風で、ぱたぱた尻尾を振りました。

 完全に猫の理屈です。こんな感性の相手では、問い詰めるだけ時間と気力の無駄というもの。毛を毟ったところで、マフにもなりません。己の怒りが徒労だったと知って、ムゥの身体から、ごっそり力が抜けました。

 一方、動物好きのヘンゼルは、興味津々。

 爛々と輝く眼は、どちらが猫だか、わかりません。


「はぁ……じゃあ、お前は何者だ? 落人か?」

『吾輩は猫である』

「いや見ればわかるが」

『にゃふふふ。まぁ、幸運を呼ぶ存在、と思ってもらえば良いのである』

「幸運? あれが? 不運の間違いじゃないか?」

『そこんとこは視点によるのである。まぁ信じなくとも構わぬよ』

「……どうして私たちにゲームをさせた?」

『吾輩、そういうものなのであるよ。幸運と試練は、同時に与えなければならんのである。挑み、乗り越えた者にこそ、掴む権利があるのである』


 猫は、ヘンゼルに向けて、ぱちりとウインクして見せました。


『諸君は合格である。数々の試練を乗り越え、よくぞ此処まで参ったのである。おめでとう。いずれ大いなる幸運が訪れるであろうよ』


 あぁやっぱり。猫は、ヘンゼルの望みを叶えてくれたのです。

 図らずも、試練そのものが願望という異例が成立したため、こんな顛末になってしまったのですね。


「ネコさん、お手々どうしたの?」


 訊きたいことは、他にもあったはずでした。

 でも、真っ先に口を突いたのは、その疑問です。

 頭はくっついたのに、前肢は生えてこないのでしょうか。


『招きすぎて()げてしまったのである。人間は猫遣いが荒いのである』

「幸運を?」

『にゃむ。吾輩、元は右手で財産を。左手で来客を招く猫である。よく店先などに祀られていたのである』

「猫を祀るのか?」

『にゃんでもかんでも祀るのが好きな民族がいるのである。樹木でも鏡でも、果ては石から悪霊まで、そりゃもうあちこちで祀ってるのである、彼奴ら』

「正気か……?」

『普通にカオスである』


 ドン引きする相方の隣で、セヴァは、心当たりに苦笑いしました。


『基本的には気の良い奴等なのであるが、一人の欲張りが、両手ならば更に莫大な幸運を得られるなどと言い出してにゃん。改造されてしまったのである』

「それで変質したッてわけかい」


 訳知り顔で、セヴァが肩を竦めました。

 猫の眉上毛(まゆげ)が、ぴしりと跳ね上がります。


『にゃむ? 貴殿は……珍しい。お仲間なのである』

「まァな。けど俺の方が格上だぜ?」

『そのようであるな。まぁ、お手柔らかに願うのである』

「おうともよ。同情するぜ。堕ちなくて良かったな」

『にゃむ……まったくである』


 僅かに桃色の毛並みを逆立て、猫は、耳を伏せました。


『とまれ、それから吾輩、大忙しである。求められれば応じる性質なのであるからして、働けば働くほど、仕事が増えるのである。それも、客だの財だのの規模ではないのである。求められる幸運が、桁違いなのである』


 脇腹ぺろぺろ、太腿はぐはぐ、肉球てしてし。

 強まる語気に合わせて、忙しない毛繕いが開始されます。

 噛んだり舐めたり、執拗とも言える仕草は、きっと蓄積した鬱憤を表しているのでしょう。心なし、尻尾もぴりぴりしています。


『地位、名誉、権力、承認、愛情、此の世のすべて。底なしの欲望に付き合わされて吾輩、来る日も来る日も、招きに招いたのである。そんなもん、あっという間にキャパオーバーである。危うく祟り神になるところだったのである』


 そこで深く溜息を吐き、その髭が、げんなりと垂れました。

 はたと動きを止めた猫に、心配になったヘンゼルが、身を乗り出します。

 瞬間、にたり。

 金色の双眸と、目が合いました。


『にゃふふ……しかし奴等は、幸運を掴むことができたのかにゃ? 求めた幸運の規模に応じて、それなりの試練が待っていたはずである。誰一人、お礼参りに来なかったのであるよ。にゃふふふふ……』


 さも愉快げな含み笑いは、何を考えているのやら。

 およそ人の倫理観の及ばぬ、ある種の享楽を湛えているのでした。


『――さて。はや頃合いであるな』


 ぐん、と今一度、猫は大きく伸びをしました。

 前肢のない身体で、器用に尻を持ち上げ、緩やかな丘となった背中の、端から端まで。心ゆくまで、入念に伸ばします。


『吾輩も楽しかったのであるよ。ありがとう』


 その輪郭が、ふわら。揺れたかと思うと、ぼやけ始めました。


「ネコさん!」


 驚いて声を上げるヘンゼルに、猫は、優しく微笑みます。


『少年。怖がることはないのである。諸君ならば、何があっても大丈夫だとも。君はずっと、いつまでも彼の子なのである。甘い時間は短い。どうか心残りなきように、好奇心の赴くまま楽しみたまえよ』


 尻尾の先から、猫の姿が、見えなくなります。

 透明な水を混ぜたみたいに、空間に溶けてゆきます。

 頭の上の王冠だけが、宙に浮いているみたいでした。桃色の毛並みが色を失うのに併せて、柱が、床が、淡く滲んで歪みます。やおら春の匂いも風花めいて解け、広がり、質感をなくした空間は、夢のように霞んで、もう何処に立っているのか。ヘンゼルは、わからなくなります。

 そのときです。

 今やほとんど背景と同化した、猫の最後まで残った口が、あの三日月の形でもって、にかっと歯を剥いたのでした。


『得ることは幸運か。失うことは哀しみか。叶えば失う熱の渇望。知れば失う無知の安寧。嗚呼、人生万事取捨選択。それはコインの――』


 裏表。

 言い残して、ぽとり。

 誰もいなくなった場所に、一枚のコインが落ちました。







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― 新着の感想 ―
 お前、チェシャ猫じゃなくて招き猫だったのか……。  そして確かに、福招きのご利益ばかりを求められれば荒魂に転じようともいうもの。人というものは幸福に貪欲ですからなあ。  しかし生首モードをやめて猫モ…
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