君に幸あれ。
12.
「あいたっ」
尻餅を付いたヘンゼルに、ムゥが振り返りました。
「大丈夫か?」
心配げに、手を差し伸べてきます。
「……先生?」
「怪我はないか? どこか打ったか?」
矢継ぎ早の出来事に、ヘンゼルは、わけもわからず呆然とします。
ええと、僕、紅葉さんと話してて、穴に落ちたんだよね?
「…………ぼく、どうなったの?」
「あの絵に吸い込まれたみたいだな」
絵。
悪魔が取り憑いていた、あの絵画。
確かに、それが切欠でした。悪魔が溶けて、猫になって、頭がぼうっとして、気が付いたら、一人でススキの野原にいました。向日葵、椿、紅葉。季節のレリーフと引き換えに、彼等の望みを叶えて歩いたのです。少なくとも、数時間はそうしていたはずでした。
ところが、ムゥの様子からして、どうも大事の気配がありません。そんなに長い間ヘンゼルが迷子になっていたなら、とっくに発狂しているはずなのに。
……夢、だったの?
ポケットを探ります。
レリーフは、一枚残らず、なくなっていました。
「はーァ、たまげたたまげた」
背後から、揚々とセヴァが現れました。
ヘンゼルが放り出したらしいリュックと、もうひとつ。
ショッキングピンクの生首を、小脇に抱えて。
「その猫!」
「おう。そこに転がってやがッた」
「貸せ! 毛を毟ってやる!」
「よせよせ。ウンともスンとも言わねェよ」
「セヴァさん……」
「おッ、おチビ。怪我ァねェかい?」
ずいぶん深い穴に落ちた気がしましたが、痛みはさほどありません。
ちょっと滑って、転んだ程度です。
つまり、自分と猫の時間だけが、何処か別の場所で流れていて。
ムゥとセヴァにとって、それは一瞬だったということ?
「…………」
ぼろぼろと、ヘンゼルの両眼から涙が零れました。
それを見たムゥが、慌てて肩を擦ってきます。
「痛いのか? どこだ? 脚か? 腰か?」
「ちが……ひっく……」
「あぁ……怖かったのか。心配いらない。悪魔は退治したぞ」
「ん、うん、うん」
ぎゅっとムゥに抱きついて、ヘンゼルは、何度も頷きました。
怖かった。心細かった。心配ばかり掛けてごめんなさい。話したいことは、たくさんあります。でも今は、ただひとつの感情で、胸がいっぱいでした。
――帰ってこれたんだ。
「よしよし。私は此処にいるから」
ムゥの胸に顔を埋めて、ヘンゼルは、心の底から安堵します。
気が抜けたのでしょう。どっと疲れが襲ってきました。
あまりに温かくて、心地良くて、このまま眠ってしまいたくなります。
でも、いけません。
自分の始めた物語です。
結末を、見届けなくては。
「……もう……だいじょうぶ」
きっぱりと顔を上げ、ヘンゼルは、ムゥの腕を解きました。
涙を拭って見渡せば、どうやら此処は、大きな建物の内部です。
床や壁は木造で、柱には、不思議な文様が彫り込まれています。元は美しかったのでしょう、禿げた金色の装飾が、中途半端に残っているのが、却って寂寥を煽りました。抜けるような高い天井とは言いますが、本当に抜けているのはどうか。頭上には青空が広がり、そこへ骨格めいた梁が、かつて屋根のあった痕跡を伺わせるのみです。
どことなく、今暮らしている庵に造りが似ていました。
しかし、雰囲気が違います。住居にしては、なんというか……。
「棄てられた本殿、か……」
セヴァが呟きました。
「この場所を知っているのか?」
「いや知らねェ。知らねぇが」
心なしか切ない視線が、部屋の奥へと流れます。
ヘンゼルも気になっていました。
そこには、観音開きの大きな戸棚がありました。
「おそらく、此処が目的地だぜ」
言いながら歩み寄り、二拝二拍手一拝。
綺麗な作法で施して、セヴァは、戸を開帳しました。
「! これは……!」
中に収まっていたのは、くたびれた動物の像でした。
前肢が、ぽっきり付け根から欠けていました。
色こそ、くすんだ土色ですが、それでも一目でわかります。
特徴的な肉付きの曲線。尻尾の形状。
何より、頭がありません。
ちょこんとおすわりしたそれは、子供ほどある、猫の胴体でした。
「そうか……」
ムゥが眼を細めます。
王冠を取り戻すべく追い掛けてきた猫の生首は、それそのものが、目的であり、ゴールだったのです。自分たちが追い掛けてきた生首は、この猫の、頭だったのでした。王冠が外れないのも納得です。それだけ回収できるのなら、きっと三人は、こんなところまで来なかったでしょうから。
「ほらよ、勇者様」
セヴァが、抱えた猫の生首を、ヘンゼルに差し出します。
もう三人が三人とも、今すべきことを理解していました。
「お前のお役目だ。返してやんな」
「……うん」
ヘンゼルは、受け取った生首の頬を、軽く撫でてやります。
温かくて、ふわふわして、やっぱり王冠は取れません。
変なの。くすっと笑って、今一度。お騒がせな毛玉を抱きしめました。
でもありがとう。
楽しかったよ。囁いて、ヘンゼルは、そっと生首を胴体の上へ乗せました。
かちりと、ネジを締めたような手応えが伝わって、猫が、輝き始めました。
黒ずんだ胴体と、ショッキングピンクの頭。ちぐはぐな色合いは、ほわり仄白い光に薄められて混ざり、絵の具めいて、桃色に染まります。合わせて春の香りが、花吹雪のように通り抜け、その行方を追って振り返った途端、ぶわり。
視界に、春が咲き乱れました。
歪んだ柱に、片落ちの扉に、剥がれた床に、ささくれた梁に。
あちらに蒲公英。こちらに桜。たちまちのうちに、朽ちた神殿は、穏やかな春に包まれたのでした。
見惚れるヘンゼルの背後で、猫の眼が、かっと瞠目しました。
続いて、ピンク色の鼻が、ひくひくと震えます。
気付いたムゥが、素速くヘンゼルを後ろに庇いました。
そこへ猫が、鋭い牙も露わに、くわっと大きな口を開けて――
『ふぅうわ……』
欠伸をしました。
そのまま顔を洗おうとしたのか、小首を傾げ、舌をぺろりと出して、前肢のないことを思い出したのでしょう。ちょっと不満げに眼を細め、尻尾で床を叩きます。代わりとばかりに、かかかっと後肢で耳の裏を掻き、一応は気が済んだ顔で、ふんと鼻を鳴らしました。
「ね、ネコさん?」
『うん? あぁ、勇者殿であるな。首を運んでくれて、どうもご苦労さんである。でも遅いのである。吾輩、待ちくたびれて眠ってしまったのである』
桃色猫は、悪びれもせず言い放ちます。
大きさが大きさなので、それなりに威厳のある姿なのですが、こそばゆい猫撫で声と恰幅の良さが相まって、絶妙な胡散臭さです。三日月の形こそ引っ込めていても、却って一癖ありそうな口元や、セヴァによく似た金色の眼は、やはり只猫ではなさそうでした。
『にゃむ、歳取るといろいろ緩くなっていかんのである。うっかり首落っことして困ってたのである。助かったのであるよ』
「そんなもの落とすか?」
すかさずムゥがツッコミます。
じゃあ何か。此処までのドタバタは、老猫の締まりの緩さが原因か?
自分達の道中は、その介護だったのか?
ドサクサで忘れそうになっていた怒りが、再燃しました。
元はと言えば、それが切欠だったのですし。
「お前の被っている王冠は、陛下の御物だぞ! 真贋の問題じゃない。不敬この上ない所業だ! 帝国への侮辱が、どれほどの罪かわかっているのか?」
『知らんのである。吾輩、そんな国の出身ではないのである。市民権もないのに罪を問われては堪らんのである。あんなキラキラの面白そうなもの、これ見よがしに置いとく方が悪いのである』
猫は、ムゥの剣幕など何処吹く風で、ぱたぱた尻尾を振りました。
完全に猫の理屈です。こんな感性の相手では、問い詰めるだけ時間と気力の無駄というもの。毛を毟ったところで、マフにもなりません。己の怒りが徒労だったと知って、ムゥの身体から、ごっそり力が抜けました。
一方、動物好きのヘンゼルは、興味津々。
爛々と輝く眼は、どちらが猫だか、わかりません。
「はぁ……じゃあ、お前は何者だ? 落人か?」
『吾輩は猫である』
「いや見ればわかるが」
『にゃふふふ。まぁ、幸運を呼ぶ存在、と思ってもらえば良いのである』
「幸運? あれが? 不運の間違いじゃないか?」
『そこんとこは視点によるのである。まぁ信じなくとも構わぬよ』
「……どうして私たちにゲームをさせた?」
『吾輩、そういうものなのであるよ。幸運と試練は、同時に与えなければならんのである。挑み、乗り越えた者にこそ、掴む権利があるのである』
猫は、ヘンゼルに向けて、ぱちりとウインクして見せました。
『諸君は合格である。数々の試練を乗り越え、よくぞ此処まで参ったのである。おめでとう。いずれ大いなる幸運が訪れるであろうよ』
あぁやっぱり。猫は、ヘンゼルの望みを叶えてくれたのです。
図らずも、試練そのものが願望という異例が成立したため、こんな顛末になってしまったのですね。
「ネコさん、お手々どうしたの?」
訊きたいことは、他にもあったはずでした。
でも、真っ先に口を突いたのは、その疑問です。
頭はくっついたのに、前肢は生えてこないのでしょうか。
『招きすぎて捥げてしまったのである。人間は猫遣いが荒いのである』
「幸運を?」
『にゃむ。吾輩、元は右手で財産を。左手で来客を招く猫である。よく店先などに祀られていたのである』
「猫を祀るのか?」
『にゃんでもかんでも祀るのが好きな民族がいるのである。樹木でも鏡でも、果ては石から悪霊まで、そりゃもうあちこちで祀ってるのである、彼奴ら』
「正気か……?」
『普通にカオスである』
ドン引きする相方の隣で、セヴァは、心当たりに苦笑いしました。
『基本的には気の良い奴等なのであるが、一人の欲張りが、両手ならば更に莫大な幸運を得られるなどと言い出してにゃん。改造されてしまったのである』
「それで変質したッてわけかい」
訳知り顔で、セヴァが肩を竦めました。
猫の眉上毛が、ぴしりと跳ね上がります。
『にゃむ? 貴殿は……珍しい。お仲間なのである』
「まァな。けど俺の方が格上だぜ?」
『そのようであるな。まぁ、お手柔らかに願うのである』
「おうともよ。同情するぜ。堕ちなくて良かったな」
『にゃむ……まったくである』
僅かに桃色の毛並みを逆立て、猫は、耳を伏せました。
『とまれ、それから吾輩、大忙しである。求められれば応じる性質なのであるからして、働けば働くほど、仕事が増えるのである。それも、客だの財だのの規模ではないのである。求められる幸運が、桁違いなのである』
脇腹ぺろぺろ、太腿はぐはぐ、肉球てしてし。
強まる語気に合わせて、忙しない毛繕いが開始されます。
噛んだり舐めたり、執拗とも言える仕草は、きっと蓄積した鬱憤を表しているのでしょう。心なし、尻尾もぴりぴりしています。
『地位、名誉、権力、承認、愛情、此の世のすべて。底なしの欲望に付き合わされて吾輩、来る日も来る日も、招きに招いたのである。そんなもん、あっという間にキャパオーバーである。危うく祟り神になるところだったのである』
そこで深く溜息を吐き、その髭が、げんなりと垂れました。
はたと動きを止めた猫に、心配になったヘンゼルが、身を乗り出します。
瞬間、にたり。
金色の双眸と、目が合いました。
『にゃふふ……しかし奴等は、幸運を掴むことができたのかにゃ? 求めた幸運の規模に応じて、それなりの試練が待っていたはずである。誰一人、お礼参りに来なかったのであるよ。にゃふふふふ……』
さも愉快げな含み笑いは、何を考えているのやら。
およそ人の倫理観の及ばぬ、ある種の享楽を湛えているのでした。
『――さて。はや頃合いであるな』
ぐん、と今一度、猫は大きく伸びをしました。
前肢のない身体で、器用に尻を持ち上げ、緩やかな丘となった背中の、端から端まで。心ゆくまで、入念に伸ばします。
『吾輩も楽しかったのであるよ。ありがとう』
その輪郭が、ふわら。揺れたかと思うと、ぼやけ始めました。
「ネコさん!」
驚いて声を上げるヘンゼルに、猫は、優しく微笑みます。
『少年。怖がることはないのである。諸君ならば、何があっても大丈夫だとも。君はずっと、いつまでも彼の子なのである。甘い時間は短い。どうか心残りなきように、好奇心の赴くまま楽しみたまえよ』
尻尾の先から、猫の姿が、見えなくなります。
透明な水を混ぜたみたいに、空間に溶けてゆきます。
頭の上の王冠だけが、宙に浮いているみたいでした。桃色の毛並みが色を失うのに併せて、柱が、床が、淡く滲んで歪みます。やおら春の匂いも風花めいて解け、広がり、質感をなくした空間は、夢のように霞んで、もう何処に立っているのか。ヘンゼルは、わからなくなります。
そのときです。
今やほとんど背景と同化した、猫の最後まで残った口が、あの三日月の形でもって、にかっと歯を剥いたのでした。
『得ることは幸運か。失うことは哀しみか。叶えば失う熱の渇望。知れば失う無知の安寧。嗚呼、人生万事取捨選択。それはコインの――』
裏表。
言い残して、ぽとり。
誰もいなくなった場所に、一枚のコインが落ちました。




