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ヒュプノランタン  作者: 雪麻呂
アンノウン・ハロウィーン
76/97

足りない

5.






 髪も乾かさないまま、ムゥは夕食の支度に取り掛かりました。

 この際、味は二の次です。とにかく迅速大量に。料理を用意しなければなりません。相手は木製の玩具を食べるほどに飢えているのです。下手をすると、テーブルが食われかねない。


「よっぽどお腹が空いてたんだね」


 目を離すのは怖かったので、手伝いを頼んでヘンゼルを傍に置きました。

 初めこそシィちゃんの身体構造と異常行動に驚いていたヘンゼルですが、きっと蛸の落人なんだと言えば、まんまと納得してくれました。安心半分、自己嫌悪半分です。いくら森育ちとはいえ、これはちょっと常識が危険信号です。この件が解決したら、一度しっかり教育を施す必要がある。ムゥは心に決めました。

 そうして大急ぎで完成させた食卓は、我ながら酷い手抜き料理でした。

 パン、スープ、兎肉を香辛料で焼いたもの、サラダ。それぞれ形は歪なくせに、量だけは馬鹿みたいにあります。なにせ急いでいたのです。保冷庫の食材はすべて使い切りました。それに床下収納の野菜も足して、終いには煮た南瓜が丸ごと大皿に乗っている始末です。山賊の宴か何かでしょうか。


「すまない。明日はちゃんと作るから……」

「すごい! こんなの初めてだね!」


 ヘンゼルは、却って喜んでいました。見慣れない献立が面白いらしい。

 ムゥは、複雑な気持ちで食卓に着きました。

 いつもセヴァが座る場所には、当然のようにシィちゃんが座っていました。

 さぁ晩餐です。


「いっただきます!」


 両手を合わせて、ヘンゼルが頭を垂れました。簡易的ですが、食前の祈りです。何故だかこういう作法にはうるさいセヴァが、根気よく仕込んだのです。かつての信仰を捨てたムゥも、今はこの形式が板に付いていました。

 シィちゃんが、僅かに首を傾げました。

 ぬるりと長い手が伸びて、スプーンを握ります。

 初手スープか。いいぞ。ムゥはホッとしました。液体なら腹が膨れるし、容量もたっぷりです。寸胴鍋に満タン作りましたからね。しかしスプーンで食べるとは、意外にお行儀が良い……


 ぱっきん。


 金属の折れる音がしました。


 ごりごり、ぱき、ぐっちゃぐちゃ、きしきしきし。


「…………」


 考えてみれば、木製の玩具を食べるのです。金属のスプーン如きは、味変感覚でぺろりといっても不思議ではありませんでした。ありませんでしたが、ムゥはもうドン引きです。ヘンゼルも唖然として、フォークを持ったまま固まっています。

 スプーンを食べ終わったのか、シィちゃんは、手前の皿に覆い被さりました。


 むしゃむしゃ、ぺちゃ、ぐちゃ、ばきべき、ぺき。


 未だかつて聞いたこともない咀嚼音が始まります。

 そのまま乗り上げた身体が、テーブルの上を這い始めました。広がったシーツの中から、今度は両手が出てきて、辺りの料理を掻き込みます。文字どおり手当たり次第です。ぺちゃ、くちゃ、ごきっ。撒き散らされる食べ滓を顔面で受けながら、ムゥとヘンゼルは言葉を失っていました。

 その勢いの凄まじいこと。こんなものは食事とは言いません。犬や猫の方が、よほど上品です。さながら捕食。あまりに暴力的な、一方的な食欲でした。

 蛸と言ったのは、あながち間違いではないかもしれません。

 頭を振り、両腕を振り回し、掴み、押し込み、シィちゃんは食卓を蹂躙します。


 ぐちゅ、べきべき、ぱき、ずずずっ、

 がり、ぼきん、ずるずるずる、

 ごりごりごりぼきぱきむしゃむしゃ――ごっくん。


 一分と経たずに、すべての料理がシィちゃんの胃袋へと消えて。

 リビングは、しんと静まり返りました。






                  †






 目の前に、シィちゃんの細い脚が座っています。

 よし。いるな。おとなしくしてるな。

 何度も確認しながら、ムゥは床を拭いていました。食事が済んだら、片付けなくてはなりませんからね。洗うべき調理器具や食器は消滅しましたが、シィちゃんの食べ散らかした残骸が、床に散らばっているのです。テーブルが残っただけ、マシと考えるべきでしょうか。

 ぐぅと鳴く腹を押さえて、頭を振ります。

 大丈夫。一晩くらい食べなくても、死にはしません。ヘンゼルだって空腹なはずなのです。あんな小さい子が健気に我慢しているのですから、大人の自分が弱気になるわけには、いかないのでした。


「おまたせ!」


 スケッチブックを持って戻ってきたヘンゼルが、シィちゃんの隣に座りました。あの空気の中で「お絵描きしよう」と言い出せるのは、もはや才能です。うちの子が世間知らず陽キャで胃が痛い件。


「見て見て! これがね、春のお花見。こっちが先生で、こっちがセヴァさん」


 頭上で聞こえる弾んだ声に、ふと手が止まりました。


「これはたなぼた? たなばた? の。今年はヒマワリいっぱい咲いたんだ。これは花火。楽しかったよ! こっちは、うふふ。秘密のせっけーず! いつか先生に作ってもらうんだ」


 ヘンゼルが、これまで描き溜めた絵です。動物や植物、ムゥとセヴァ、その日の出来事など、他愛のない日常風景です。熱心に描いているのは知っていましたが、その理由が今、わかりました。

 ……ずっと誰かに見せたかったんだな……。


「クレヨン、これしかないんだ。いっしょに使おう」


 スケッチブックは何冊かありますが、クレヨンは一セットだけです。

 一セットで、良かったのです。

 ムゥは、雑巾を握りしめていました。

 この落人、説得は本当に不可能だろうか?

 意思の疎通が叶えば、話し合えるんじゃないか?

 そうしたら、ヘンゼルの友達に……、


「あーーーっ!」

「ヘンゼル!? どうし……ッ」


 反射的に立ち上がってしまって、ムゥは強かに脳天をぶつけました。

 テーブルの下にいましたからね。


「痛……どうしたヘンゼル?」


 それでも急いで這い出すと、すぐさまヘンゼルが飛び付いてきました。


「シィちゃんがクレヨン食べた!」


 いや、確かに食べても害のない素材で作ってはあるけども。

 そんなスナックみたいにポリポリ食べられて、良いわけがありません。

 見れば、既に手遅れです。四十二色が、ほぼ全滅していました。

 ――やっぱり駄目!

 絶対に関わったら駄目!


「お絵描きしようって言ったのに! ぼくの大事なクレヨンなのに!」


 ヘンゼルが、語気を荒げて訴えます。

 そうでしょう。相手は非常識な落人ですが、ヘンゼルだって七歳の子供です。

 いくら好奇心と善意で抑えようとも、自分のものを食べられてしまった事実が、消えてなくなるわけではないのです。夕飯を食べ損ね、シィちゃんの異常行動にも慣れてきて、そろそろ不満の溢れる頃でした。


「なんで黙ってるの! ごめんなさいしなきゃダメなんだよ!」

「ま、待てヘンゼル!」


 シィちゃんに躙り寄るヘンゼルを、ムゥは慌てて押し止めました。


「なんで! シィちゃんが悪いんだよ!」

「そ、そうだな。うん。でもな」


 なんとか宥めなければ。とにかく刺激するのは不味い。


「シィちゃんは、お腹が空いてるんだ」

「うそだよ! あんな食べたのに!」

「きっと、まだ足りないんだ」


 ムゥは頭をフル回転させて、屁理屈を捏ね上げます。


「此処へ来る前に、うんとひもじい思いをしたんだ。可哀想だろう?」

「だけど……」

「な? ヘンゼルは良い子だろう。我慢してやってくれ。明日はヘンゼルの好きな物なんでも作ってやるから。な? クレヨンも、また作るから」

「でも……」

「シィちゃんだって悪いと思ってるさ。恥ずかしくて言えないんだ、きっと」

「…………」


 どうでしょう。

 シィちゃんは、様々な色に塗れたシーツで、じっと此方を向いています。

 何を考えているのか、さっぱりわからないのが不気味です。

 ムゥはムゥで、苦し紛れを承知の上でした。根が生真面目ですから、それらしい設定など、咄嗟に出てきません。明らかに挙動不審、誰が見ても怪しさ満点です。聡明なヘンゼルに気取られぬはずがありません。

 ただ、ヘンゼルは優しい子でした。

 人並みの癇癪は起こしても、本来、思い遣りの深い、優しい子でした。


「……うん」


 なので、納得のいかない感情を飲み込んで、懇願するようなムゥの表情に、しぶしぶ頷いてみせるのでした。







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― 新着の感想 ―
 絵面に凝るとはお聞かせいただいたことでありますが、今回のお食事シーンも素敵でした。  まさに「貪る」としか言いようのない具合で、タイトルの「足りない」と相まって、欲望に忠実、あるいは欲以外ない印象が…
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