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ヒュプノランタン  作者: 雪麻呂
アンノウン・ハロウィーン
75/97

箱が

4.






 薄暗い廊下の端に、白い姿が佇んでいます。

 シィちゃんでした。

 いつの間に? どうして気が付かなかったのでしょう。

 玄関には、自分がいました。セヴァとムゥもいました。傍を通ったなら、わからないはずがないのに。


「ど、どこから入ったの?」


 やはりシィちゃんは答えず、ムゥは険しい表情で、そんな彼を凝視しています。

 不法侵入を咎められるのだと思ったヘンゼルは、慌てて口を開きました。


「あのね、洗濯物のところで」

「馬鹿な」


 セヴァの呟きが、ヘンゼルの声を掻き消しました。

 ええ。押し殺した小声が、何故だか、やけに重く響いたのです。


「早すぎる……どうなってんだ……」


 よろめいて、セヴァは片手で額を覆いました。

 その顔を覗き込んで、ヘンゼルは絶句します。

 蒼白でした。


「おい、どうした?」


 声を掛けたのはムゥでした。

 ちらとシィちゃんを見遣り、爪先立ちで、セヴァに耳打ちします。


「あれ、か? 落人だな? 何か不味い奴なのか?」


 セヴァは答えません。

 ムゥに揺さぶられるまま、色をなくした唇で、ぶつぶつと何か呟くのみです。

 何を言っているのか、ヘンゼルには、わかりませんでした。

 ムゥにもわからなかったでしょう。

 ただ一言、


「箱が――……」


 拾い上げた言葉が、とても不吉なものに思えました。


「おいセヴァ、きちんと説明しろ」


 業を煮やしたムゥが、セヴァを揺さぶります。

 金色の双眸がぎろりと動いて、ムゥを見据えました。


「時間がない。俺は行く」

「は?」

「いいか、よく聞け」


 セヴァが、ムゥの両肩に手を置いて、額の高さを合わせます。

 ムゥは、とうとう頭にきました。さっきからなんだ。いい加減にしろ。眦を吊り上げ、怒鳴り付けてやろうと息を吸って――

 吐けませんでした。

 眼光の鋭さに気圧された。

 それもあります。

 けれどなにより、長い付き合いの勘で、理解してしまったのです。

 今からセヴァが言うことは。

 決して聞き逃してはならない、と。


「あの子供を絶対に怒らせるな。刺激するな。俺は役目を果たす。夜明けまでにはなんとかしてやるから、それまで持ち堪えろ。陽が昇っても俺が戻らなかったら、チビと二人で“庵”へ行け」


 一息に言って、セヴァは踵を返しました。

 そのまま傘も差さずに、土砂降りの中へ飛び出します。


「セヴァ!」

「セヴァさん!」


 止める間もありません。

 ヘンゼルが声を掛けたときには、もう背中が小さくなっていました。

 こんなに雨が降っているのに、何処へ。

 せめて傘をと、セヴァを追うべく、爪先を靴に突っ込みます。

 ぐいと、後ろからムゥに引き戻されました。

 あまりの力の強さに、蹈鞴(たたら)を踏みます。

 その遣り取りに気付いたのでしょうか。一瞬、セヴァが振り返りました。


「くれぐれも! 顔を見るなよ!」


 雨に消える後ろ姿が、そう言い残して、すぐに見えなくなりました。


「…………」


 ヘンゼルは、ムゥを見上げます。

 ムゥは紙のような顔色で、シィちゃんを見つめていました。






                  †






「シィちゃん、お風呂いいのかな? 寒くないかな?」

「苦手なんだろう。無理強いは良くないぞ」

「うーんそっか。そうだね」


 濡れてなかったしな……。

 ぼそり心中でぼやいて、ムゥは笑顔を作りました。


「やっぱり恥ずかしがり屋なのかなぁ」


 身体を洗い終わったヘンゼルが、湯船に飛び込んできました。

 浮かべたアヒルの玩具が、いっとき飛沫に沈んで、ぷかりと顔を出します。


「それか、もしかして女の子なのかも!」


 ヘンゼルは、えへへと笑って、両手で水面を波立たせました。

 気取られぬよう、ムゥは溜息を吐きました。

 ヘンゼルの気持ちは、よくわかりました。まだ七歳、幼くして母親とはぐれて、こんな森に閉じ込められてしまったのです。それは寂しいでしょう。おそらく心配をかけまいと、黙っていただけなのです。ずっとずっと。

 あぁ。友達が欲しかったに決まっているのです。

 うっかりしていました。強く賢い子なので、あまりその辺りの事情を考えてやれなかった。後悔はあります。実際、シィちゃんが落人でもなんでもない人間であれば、普通の子供であれば、ムゥは大いに歓迎したでしょう。

 でも駄目です。あれは断じていけません。


 ――絶対に怒らせるな。


 セヴァの低い声が、脳裏に蘇ります。

 あの様子は只事ではありません。

 久しく見なかった表情に、緊急事態を悟りました。

 役目を果たすと言っていたな。早めに片が付けば良いが。

 万が一の場合は庵へ。

 ずっと昔、二人で暮らした、あの場所。

 いつかヘンゼルを連れて行ってやろうとは思っていたが……。


「セヴァさん、いつ帰ってくるんだろ?」

「さ、さぁ。遅くなるかもな」

「なんか変だったけど……大丈夫かな?」

「あ、あ、うん。あれは拾い食いしたトカゲに(あた)ったんだろう」

「いや大丈夫かな?」


 思案に耽っていたところにセヴァの話題を振られて、慌てたムゥは、つい出鱈目を言ってしまいました。

 即興で急用を作り上げ、強引に話題をすり替え、留守番と手伝いを大袈裟に褒めちぎって、どうにか誤魔化し、風呂へ放り込んだのです。勘付かれては困ります。奇行を捏造されたセヴァは気の毒ですが、そこは負の信頼です。子供というのは、大人の日頃の行いをよく見ているものなのでした。

 セヴァは、ときどきこうして、ふらっといなくなっては、ひょっこり返ってくることがあります。役目がどうとか聞いていますが、あまり詳しくは知りません。彼にも事情があるのでしょう。自分にだってヘンゼルにだってあるのです。この森に訪れる者は、たぶん、誰もがそうなのです。

 実のところ、ヘンゼルは薄々気付いているのではないかと思います。聡い子ですし、二年も一緒にいるのですから。

 ……とにもかくにも、無事に乗り切ることが先決か。

 長い夜になりそうだ。

 浴槽に背中を預け、ずるずると後頭部を沈めると、水色の後れ毛が、ゆらり湯船に広がりました。


「上がりまーす!」


 ヘンゼルの声に、ハッと身を起こします。

 持ち上げられてゆくアヒルの玩具と、目が合いました。


「あ、百! 百数えないと風邪を引くぞ!」

「数えたもん!」


 伸ばした手は鮮やかに(かわ)され、ヘンゼルが風呂場を飛び出て行きました。

 そして脱衣所にあった大きなバスタオルを手に取って、にやり。

 あれは何か思い付いた顔です。

 果たしてムゥが止める間もなく、濡れ髪のヘンゼルは、バスタオルとアヒル両手に廊下を駆けていってしまいました。


「ヘンゼル!」


 びしょ濡れのまま、腰にタオルだけを巻いて、慌てて追い掛けます。

 案の定、ヘンゼルはシーツをすっぽり被って、シィちゃんの向かいに立っていました。しかも頭頂部にアヒルを乗せて、それを落とさないよう、お化けのポーズでくねくねと身を捩っています。


「シィちゃんのマネ~」

『…………』

「えへへ、似てる?」

『…………』


 いや近い近い! 煽らないでくれ頼むから!

 ムゥが胸中で叫んだそのとき、シーツの裾が、ずるっと持ち上がりました。

 ヘンゼルの、ではありません。シィちゃんの被るシーツ、脚が出ているその部分から、出てきたのです。

 何って、手です。

 手……だと思います。

 骨と皮だけに痩せ細り、やや紫がかった肌色で、枯れ枝と見紛うような五本の指が、それでもちゃんと動いていましたから。

 ただ、長い。

 脚ではありませんよ。手です。腕です。それが裾から出ているのです。シーツは僅かに捲れているのみで、露出しているのは臑、せいぜい膝が見えるか見えないかくらいのものです。これが肩から生えているとしたら、いったいどういう構造をしているのでしょうか。いくらなんでも、長すぎます。

 その手がヘンゼルに伸びて、頭のアヒルを掴みました。

 そして、出てきたときとは正反対に、素速くシーツの中へ引っ込みます。

 ばりばり、ごき!

 奇妙な音が上がりました。

 シィちゃんの顔の部分が、盛り上がったり窄まったり、忙しく動き始めます。

 ばり、ぼき、ごき、ごっくん、ばり、ばり。


「……え」


 硬直したムゥの喉から、ようやく間抜けな声が出ました。


 ばりばりばりごりごりぽきぽきぐじゅっ、ごくん。


 ヘンゼルの被っていたシーツが、はらりと落ちました。

 ついでにムゥの腰のタオルも落ちました。


「…………」


 食べた、のか?

 アヒルを? 木製の? 玩具を??


『…………』







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― 新着の感想 ―
 大変遅ればせながら「アンノウン・ハロウィーン」、4話目まで拝読しました。  開幕からムゥが親バカすぎる……。  そしてセヴァがお父さんすぎる。ベストを尽くさないと、「何故ベストを尽くさないのか」と叱…
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