箱が
4.
薄暗い廊下の端に、白い姿が佇んでいます。
シィちゃんでした。
いつの間に? どうして気が付かなかったのでしょう。
玄関には、自分がいました。セヴァとムゥもいました。傍を通ったなら、わからないはずがないのに。
「ど、どこから入ったの?」
やはりシィちゃんは答えず、ムゥは険しい表情で、そんな彼を凝視しています。
不法侵入を咎められるのだと思ったヘンゼルは、慌てて口を開きました。
「あのね、洗濯物のところで」
「馬鹿な」
セヴァの呟きが、ヘンゼルの声を掻き消しました。
ええ。押し殺した小声が、何故だか、やけに重く響いたのです。
「早すぎる……どうなってんだ……」
よろめいて、セヴァは片手で額を覆いました。
その顔を覗き込んで、ヘンゼルは絶句します。
蒼白でした。
「おい、どうした?」
声を掛けたのはムゥでした。
ちらとシィちゃんを見遣り、爪先立ちで、セヴァに耳打ちします。
「あれ、か? 落人だな? 何か不味い奴なのか?」
セヴァは答えません。
ムゥに揺さぶられるまま、色をなくした唇で、ぶつぶつと何か呟くのみです。
何を言っているのか、ヘンゼルには、わかりませんでした。
ムゥにもわからなかったでしょう。
ただ一言、
「箱が――……」
拾い上げた言葉が、とても不吉なものに思えました。
「おいセヴァ、きちんと説明しろ」
業を煮やしたムゥが、セヴァを揺さぶります。
金色の双眸がぎろりと動いて、ムゥを見据えました。
「時間がない。俺は行く」
「は?」
「いいか、よく聞け」
セヴァが、ムゥの両肩に手を置いて、額の高さを合わせます。
ムゥは、とうとう頭にきました。さっきからなんだ。いい加減にしろ。眦を吊り上げ、怒鳴り付けてやろうと息を吸って――
吐けませんでした。
眼光の鋭さに気圧された。
それもあります。
けれどなにより、長い付き合いの勘で、理解してしまったのです。
今からセヴァが言うことは。
決して聞き逃してはならない、と。
「あの子供を絶対に怒らせるな。刺激するな。俺は役目を果たす。夜明けまでにはなんとかしてやるから、それまで持ち堪えろ。陽が昇っても俺が戻らなかったら、チビと二人で“庵”へ行け」
一息に言って、セヴァは踵を返しました。
そのまま傘も差さずに、土砂降りの中へ飛び出します。
「セヴァ!」
「セヴァさん!」
止める間もありません。
ヘンゼルが声を掛けたときには、もう背中が小さくなっていました。
こんなに雨が降っているのに、何処へ。
せめて傘をと、セヴァを追うべく、爪先を靴に突っ込みます。
ぐいと、後ろからムゥに引き戻されました。
あまりの力の強さに、蹈鞴を踏みます。
その遣り取りに気付いたのでしょうか。一瞬、セヴァが振り返りました。
「くれぐれも! 顔を見るなよ!」
雨に消える後ろ姿が、そう言い残して、すぐに見えなくなりました。
「…………」
ヘンゼルは、ムゥを見上げます。
ムゥは紙のような顔色で、シィちゃんを見つめていました。
†
「シィちゃん、お風呂いいのかな? 寒くないかな?」
「苦手なんだろう。無理強いは良くないぞ」
「うーんそっか。そうだね」
濡れてなかったしな……。
ぼそり心中でぼやいて、ムゥは笑顔を作りました。
「やっぱり恥ずかしがり屋なのかなぁ」
身体を洗い終わったヘンゼルが、湯船に飛び込んできました。
浮かべたアヒルの玩具が、いっとき飛沫に沈んで、ぷかりと顔を出します。
「それか、もしかして女の子なのかも!」
ヘンゼルは、えへへと笑って、両手で水面を波立たせました。
気取られぬよう、ムゥは溜息を吐きました。
ヘンゼルの気持ちは、よくわかりました。まだ七歳、幼くして母親とはぐれて、こんな森に閉じ込められてしまったのです。それは寂しいでしょう。おそらく心配をかけまいと、黙っていただけなのです。ずっとずっと。
あぁ。友達が欲しかったに決まっているのです。
うっかりしていました。強く賢い子なので、あまりその辺りの事情を考えてやれなかった。後悔はあります。実際、シィちゃんが落人でもなんでもない人間であれば、普通の子供であれば、ムゥは大いに歓迎したでしょう。
でも駄目です。あれは断じていけません。
――絶対に怒らせるな。
セヴァの低い声が、脳裏に蘇ります。
あの様子は只事ではありません。
久しく見なかった表情に、緊急事態を悟りました。
役目を果たすと言っていたな。早めに片が付けば良いが。
万が一の場合は庵へ。
ずっと昔、二人で暮らした、あの場所。
いつかヘンゼルを連れて行ってやろうとは思っていたが……。
「セヴァさん、いつ帰ってくるんだろ?」
「さ、さぁ。遅くなるかもな」
「なんか変だったけど……大丈夫かな?」
「あ、あ、うん。あれは拾い食いしたトカゲに中ったんだろう」
「いや大丈夫かな?」
思案に耽っていたところにセヴァの話題を振られて、慌てたムゥは、つい出鱈目を言ってしまいました。
即興で急用を作り上げ、強引に話題をすり替え、留守番と手伝いを大袈裟に褒めちぎって、どうにか誤魔化し、風呂へ放り込んだのです。勘付かれては困ります。奇行を捏造されたセヴァは気の毒ですが、そこは負の信頼です。子供というのは、大人の日頃の行いをよく見ているものなのでした。
セヴァは、ときどきこうして、ふらっといなくなっては、ひょっこり返ってくることがあります。役目がどうとか聞いていますが、あまり詳しくは知りません。彼にも事情があるのでしょう。自分にだってヘンゼルにだってあるのです。この森に訪れる者は、たぶん、誰もがそうなのです。
実のところ、ヘンゼルは薄々気付いているのではないかと思います。聡い子ですし、二年も一緒にいるのですから。
……とにもかくにも、無事に乗り切ることが先決か。
長い夜になりそうだ。
浴槽に背中を預け、ずるずると後頭部を沈めると、水色の後れ毛が、ゆらり湯船に広がりました。
「上がりまーす!」
ヘンゼルの声に、ハッと身を起こします。
持ち上げられてゆくアヒルの玩具と、目が合いました。
「あ、百! 百数えないと風邪を引くぞ!」
「数えたもん!」
伸ばした手は鮮やかに躱され、ヘンゼルが風呂場を飛び出て行きました。
そして脱衣所にあった大きなバスタオルを手に取って、にやり。
あれは何か思い付いた顔です。
果たしてムゥが止める間もなく、濡れ髪のヘンゼルは、バスタオルとアヒル両手に廊下を駆けていってしまいました。
「ヘンゼル!」
びしょ濡れのまま、腰にタオルだけを巻いて、慌てて追い掛けます。
案の定、ヘンゼルはシーツをすっぽり被って、シィちゃんの向かいに立っていました。しかも頭頂部にアヒルを乗せて、それを落とさないよう、お化けのポーズでくねくねと身を捩っています。
「シィちゃんのマネ~」
『…………』
「えへへ、似てる?」
『…………』
いや近い近い! 煽らないでくれ頼むから!
ムゥが胸中で叫んだそのとき、シーツの裾が、ずるっと持ち上がりました。
ヘンゼルの、ではありません。シィちゃんの被るシーツ、脚が出ているその部分から、出てきたのです。
何って、手です。
手……だと思います。
骨と皮だけに痩せ細り、やや紫がかった肌色で、枯れ枝と見紛うような五本の指が、それでもちゃんと動いていましたから。
ただ、長い。
脚ではありませんよ。手です。腕です。それが裾から出ているのです。シーツは僅かに捲れているのみで、露出しているのは臑、せいぜい膝が見えるか見えないかくらいのものです。これが肩から生えているとしたら、いったいどういう構造をしているのでしょうか。いくらなんでも、長すぎます。
その手がヘンゼルに伸びて、頭のアヒルを掴みました。
そして、出てきたときとは正反対に、素速くシーツの中へ引っ込みます。
ばりばり、ごき!
奇妙な音が上がりました。
シィちゃんの顔の部分が、盛り上がったり窄まったり、忙しく動き始めます。
ばり、ぼき、ごき、ごっくん、ばり、ばり。
「……え」
硬直したムゥの喉から、ようやく間抜けな声が出ました。
ばりばりばりごりごりぽきぽきぐじゅっ、ごくん。
ヘンゼルの被っていたシーツが、はらりと落ちました。
ついでにムゥの腰のタオルも落ちました。
「…………」
食べた、のか?
アヒルを? 木製の? 玩具を??
『…………』




