紛い物は、もうたくさん!
6.
結い上げた金髪が、細面の顔立ちをいっそう、凜々しく見せます。
切れ長の眼を縁取る豊かな睫毛。すっと通った鼻筋。化粧は必要ないでしょう。上等の生地で仕立てたチュニックとダブレットは、長身をこれでもかと際立たせ、しなやかな筋肉の映える男性の線が、勇壮な色気すら漂わせる始末。仕上げに控えめのアクセサリで飾り、腰に剣を佩けば、なんということでしょう。
何処に出しても恥ずかしくない、完璧なセヴァ王子が出来上がりました。
「セヴァさんかっこいい! いいな~!」
「今度ヘンゼルにも作ってやるからな」
さすがに素材が良い。加工したムゥですら見惚れてしまいます。
作戦即日決行となり、なんとか突貫工事で王子を作り上げ、三人は瓢箪池へ来ていました。高い樹の陰に、夏の間に草が生い茂ったちょうど良い場所があり、そこへ隠れて敷物を敷けば、準備完了です。セヴァ頼みの策にはなりますが一応、投網と弓は用意してありました。
「ブーツの踵、ちょっと高すぎたかな」
当のセヴァは、慣れない洋装に窮屈この上ありません。とうとうタイツを穿かされてしまって、チベットスナギツネのような顔しています。
「問題ねェ。うちの嫁もあれくらいだ。せいぜい可愛がってやるさ」
ふんすと鼻を鳴らして、セヴァは尻を掻きました。
口を開けば、やっぱりセヴァでした。
「耳とシッポ、どこいったの?」
「元からこの身体ァ、間に合わせだ。どォにでもなる」
「そうなの! じゃあもっとおっきくなったり小さくなったり……」
「おチビ、そろそろ静かにしてな」
「はーい」
言われて、ヘンゼルは敷物の上に転がりました。初めは真面目に辺りを偵察していたのが、早々に飽きて、むやみと双眼鏡を覗きだします。リュックの中身は厳選した菓子でしょう。ムゥの不安を余所に、すっかり張り込み気分で、うきうきしていました。いえ、張り込みといえば張り込みなのですが。
横這いになったムゥは、ヘンゼルと同じ目線で溜息を吐きました。
こうしてぼんやり眺めていると、湖畔に佇むセヴァは、まったく絵になります。虫の音に彩られた夜は、未だ夏の名残に空気を揺らし、フクロウが鳴けば、樹木がざわめいて、うつら眠りを誘うのでした。
見上げれば、妙に大きな月が、仄白く満ちる時を待っています。
こくり、顎が落ちました。
あぁいけない。瞼を擦って、首を振ります。
らん らららん らん らららん
らん らららん らん らん らん
ハッとして、上体を起こしました。
隣のヘンゼルを見れば、緑の眼を見開いて、肩を竦めています。
唇に人差し指を立て、制します。すぐ状況を飲み込んだヘンゼルは、きゅっと口を結び、こくこくと頷きました。
あんまり 月が 綺麗だから
わたしは 舞台を 抜け出した
気付けば 深い森の 中を
彷徨っている
来た。近付いてくる。何処からだ?
セヴァは、湖の向こう側を警戒しています。
お迎えは いらないわ
わたしは 自由 なのよ
見たこともない 広い 世界が
おいで と 呼んで いるの――
湖面の月を揺らして、青白い姿が舞い降りました。
右手を前に出し、虚空へ左手を添えて。
ゆるり三歩。また三歩。ふわり六歩。リズムに乗せて右回転。
姫人形です。わかってみれば、一目瞭然でした。彼女が踊っているのは、舞踏会でよく催されるスローワルツです。他の国の事情は知りませんが、ムゥの国では主に貴人に好まれる、紳士淑女の嗜みでした。雅事に疎いムゥでも、基本のステップくらいは知っています。
とんとんとん、とんとんとん。
とんとんとんとんとんとん。
音楽があれば、たいそう緩やかな三拍子でしょう。
僅かな波紋の上を進んで、姫人形は、湖畔を目指します。
セヴァの待つ地点でした。
ムゥは息を呑みます。
あのステップ。一晩で相当に上達しています。昨夜は子供の地団駄のようだった足運びが、今夜はなんて優雅で、熟れて、美しいのでしょう。ぎこちなさは微塵もありません。
ざぁと風が吹いて、姫人形のドレスが翻ります。
危うく叫びそうになりました。
ドロワーズから覗くのは、ほっそりと白い、柔らかげな脚。
こんな脚は知りません。
いくらなんでも、自分の脚です。生まれたときから使っています。夜目だろうと遠目だろうと、ここまで違うものを見間違えるはずはないのです。出張った膝の骨は、太腿の筋肉は、臑の毛は、日焼けの痕は、何処へ消えた?
あれはもう、私の脚ではない。
女性の――彼女の脚になりつつある!
『ご機嫌よう。素敵な月夜ですことね』
セヴァの傍まで来た姫人形が、ドレスを抓んで会釈しました。
「如何にも。されど貴女の美しさには到底、敵いますまい」
胸に手を当てて一礼し、セヴァが応じます。
「斯くも白百合の如き姫君よ。お待ち致しておりました」
『そう』
「天女と見紛うて、ご挨拶が遅れました。お詫び申し上げまする」
『お上手ね』
「その花の玉顔が綻ぶとあらば、いくらでも」
何言ってんだこいつ。
飄々と余所行きの笑顔で抜かすセヴァに、ムゥは軽く殺意が湧きました。
誰の脚だと思っているのでしょう。こっちは己の脚に裏切られたようで、気が気ではないのに。冷や汗が、だらだら背中を伝います。
さりとて、飛び出すわけにもいきません。
物音を殺して、ムゥは耐えました。
「僭越ながらこの私、姫の無聊を慰めたく存じます」
セヴァが片膝で跪き、頭を垂れます。
聞いているのかいないのか、姫人形は踊っています。
あぁ。ムゥは納得しました。これはヘンゼルの説が正解だったようです。こんな美丈夫に、これだけ歯の浮く台詞を吐かれて、頬の一つも染めません。慣れているのです。それが当然で、日常な者の反応です。
もしくは、言葉など信じるに値しない。
そう知っている者の。
「一曲、お相手致しましょう」
甘い低音で囁いて、セヴァが手を差し伸べました。
とどめの一押しです。さぁ、どう出る?
ごくり。鳴ったのは、ムゥの喉でしょうか。ヘンゼルの喉でしょうか。
姫人形が、恭しく求められた掌を一瞥します。
その指先を通り過ぎた細い肢体が、ぴたり止まりました。
そして、ゆっくりと、セヴァに視線を流しました。
視線だけを。
『いらないわ』
呟く声が、ひどく冷たく、頑なに聞こえました。
『紛い物は、もうたくさん。いらないいらない。そんなもの、もう』
いらない。いらない。いらない。姫人形が、繰り返します。
駄目だ、失敗だ!
逃げられると直感したムゥは、咄嗟に投網を投げ付けました。
姫人形が、ちらりと此方を見ます。隠れているのがバレてしまいましたが、構いません。もとよりセヴァを囮にするつもりだったのです。躊躇いなく二人まとめて狙いを定め、全力で放ちました。
ですが、駄目です。
投網は目標地点を大きく逸れて、木の枝に引っ掛かりました。
すかさず弓を手に取ります。
矢を番え、引き絞って、愕然としました。
力が、入らない。
違和を感じたときには遅く、弱々しく放たれてしまった矢は、しかもまるで見当違いの方向、セヴァたちの遙か手前に落ちました。
反動でひっくり返ったムゥは、痺れる肘に顔を歪めます。
踏ん張りが利かないというのは、ここまで体幹に影響するものか。
『お迎えはいらないわ。誰もいらないわ。何もいらないわ。わたしは』
姫人形が両腕を広げました。
細い首が、がくがくと前後に揺れ始めます。
セヴァが舌を打ち、印を結びます。
「――待って!」
叫んで、ヘンゼルが飛び出しました。
「お願い、先生の足を返してください! 大事なものなんです。ないと、とっても困るんです。代わりに新しいのをあげます。だから返して! お願いです!」
ヘンゼルは姫人形の前に立ち塞がり、姿勢を正して、頭を下げます。
止める暇もありませんでした。
反射的に駆け出そうとして、ムゥは敷物に突っ伏しました。
伸ばした手が届くはずもなく、最悪の事態が頭を過ります。
まさか、次はヘンゼルの脚が……。
「よせヘンゼル! 戻れ!」
ムゥは、あらん限りの声で叫びました。
ヘンゼルは応えません。戻りません。
セヴァが、素速くヘンゼルを後ろへ庇いました。
嫌な汗が額を伝いました。
今一度、ヘンゼルを呼ぼうと息を吸い込みます。
姫人形の首が、天を仰いで、ぴたりと止まりました。
『紛い物は、もうたくさん!』
吐き捨てた唇から、再び細い唄が流れ出しました。
白いドレスの裾が円を描いて、湖面へ歩みを進めます。
とん。と、とん。遅いワルツのリズムに乗せて。
亜麻色の髪を踊らせ、ひび割れた頬で笑って、姫人形が背を向けました。
ひたすらに優雅で我儘なステップは、それでも何故だか寂しく見えて、赤く滲んだ爪先が、月夜にも痛々しくムゥの眼に焼き付きました。
明るい路を 選んで 往くわ
秋桜 紡いで 王冠に
何処へ 続くか 知らないけれど
月の光の 導く ままに




