海は何処だ?
2.
暑いな、と思いました。
真昼の最中か、陽射しが強い。じわじわと蝉の鳴き声が、肌を突き刺して内臓に染み込んできます。遠く絵の具で塗り潰したような青空に、これまた切り絵みたいな入道雲が、ぺたり貼り付いて原色を奪い合っていました。
滲んだ汗を手の甲で拭って、ハンカチを持っていないと気付きます。
それどころか、裸足です。というか、寝間着ではありませんか。
どうも、昨夜ベッドに入ったままの格好で、森を歩いているらしい。
でも、わかりません。こんな場所に見覚えはないのです。右も左も前も後ろも、ずっとずっと、向日葵が咲いていました。此処は何処なんだろう。
暑いなぁ。
喉が渇いた。
『なぁ、君』
不意に呼ばれた気がして、ヘンゼルは辺りを見回しました。
眼に映るのは、背の高い向日葵ばかり。
『こっちだこっち。足下を見てくれ』
言われて見下ろすと、そこに奇妙な生き物がうずくまっていました。
兎ほどの大きさで、猪のような形をしています。ただし、生えているのは四肢の代わりに胸びれと尾ひれ。毛皮もなく、皮膚はつるんと茄子を思わせる光沢で、眼も鼻も、何処にあるのかわかりません。なにしろ全身が真っ黒なのです。
『よっ! 驚いたか!』
それが得意げに笑ったので、口の場所が判明しました。
えぇ、驚きましたとも。
魚がこんなところで何をしているのでしょう。
「ど、どこから来たの?」
『さぁな。気付いたら此処にいたんだ。土まみれで驚いたぜ』
「だって森だもん」
『そうかぁ。いや参ったな』
魚が、はぁと溜息を吐きました。
横一文字に避けた口には、ギザギザした小さな歯が並んでいます。ということは前方の、変に突き出した部分が鼻でしょうか。まじまじ見つめても、眼の位置は、やっぱりわかりませんでした。
おかしな魚です。まったく知らない種類です。いえ、それ以前の問題です。陸に上がって平気な魚なんて、聞いたこともありません。しかも喋るのです。なんならスマートな青年を思わせる、ちょっと良い声なのです。
『なぁ君。この辺りに海はないか?』
いろいろと訊ねたいことがあったのに、先を越されてしまいました。
ずいぶんとマイペースな魚ですね。
『俺は海を探してるんだが、どっちを向いても向日葵ばかりでな』
「ここは森だよ」
『そうなんだがなぁ、ご覧の通りだ。俺には脚がない』
魚は、ごろんと腹を見せて寝転がりました。てっきり全身真っ黒かと思ったら、顎から腹にかけて、縞模様になっています。
困りました。まぁ、魚なら泳ぎたいでしょうが。海への行き方なんて、ヘンゼルに訊かれても仕方ありません。
「川じゃだめ?」
『わかってないな、君。泳ぐなら海さ。海に決まってるぜ!』
バタバタとひれで宙を掻いて、魚は身を捩りました。なんだか子供が駄々を捏ねているみたいです。こうなると何故か他人事ではないような気がして、ヘンゼルは考えました。なんとかしてやれないだろうか。
でも、さっきから自分で散々口にしたとおり、此処は森です。川や湖ならいくつか案内できますが、海なんて知りません。ヘンゼルだって見たことがないのです。
いえ……ちょっと待って。何処かで見たような?
海。海。海ねぇ。
うぅん、と腕を組もうとして、
「あれ?」
初めて気付きました。
いつの間にか、両手で何かを抱えていたのです。
硝子の球の中に、白い砂浜。持ち上げた拍子に、内側を満たす水が、ちゃぷんと揺れて泡沫を吐きます。きらきらと光を反射する紺碧の、その水面に小さな帆船を浮かべて、それは当然のように、ヘンゼルの手にあったのでした。
「あったよ! 海! ぼく持ってた!」
『おおっ!』
魚が跳ね起きて、尾ひれで地面を叩きました。
『君、でかしたぞ!』
「でもちょっと小さいなぁ」
『いやいや、上等さ! じきに』




