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ヒュプノランタン  作者: 雪麻呂
静かの海がやってくる
51/97

海は何処だ?

2.






 暑いな、と思いました。

 真昼の最中(さなか)か、陽射しが強い。じわじわと蝉の鳴き声が、肌を突き刺して内臓に染み込んできます。遠く絵の具で塗り潰したような青空に、これまた切り絵みたいな入道雲が、ぺたり貼り付いて原色を奪い合っていました。

 滲んだ汗を手の甲で拭って、ハンカチを持っていないと気付きます。

 それどころか、裸足です。というか、寝間着ではありませんか。

 どうも、昨夜ベッドに入ったままの格好で、森を歩いているらしい。

 でも、わかりません。こんな場所に見覚えはないのです。右も左も前も後ろも、ずっとずっと、向日葵(ひまわり)が咲いていました。此処は何処なんだろう。

 暑いなぁ。

 喉が渇いた。


『なぁ、君』


 不意に呼ばれた気がして、ヘンゼルは辺りを見回しました。

 眼に映るのは、背の高い向日葵ばかり。


『こっちだこっち。足下を見てくれ』


 言われて見下ろすと、そこに奇妙な生き物がうずくまっていました。

 兎ほどの大きさで、猪のような形をしています。ただし、生えているのは四肢の代わりに胸びれと尾ひれ。毛皮もなく、皮膚はつるんと茄子を思わせる光沢で、眼も鼻も、何処にあるのかわかりません。なにしろ全身が真っ黒なのです。


『よっ! 驚いたか!』


 それが得意げに笑ったので、口の場所が判明しました。

 えぇ、驚きましたとも。

 魚がこんなところで何をしているのでしょう。


「ど、どこから来たの?」

『さぁな。気付いたら此処にいたんだ。土まみれで驚いたぜ』

「だって森だもん」

『そうかぁ。いや参ったな』


 魚が、はぁと溜息を吐きました。

 横一文字に避けた口には、ギザギザした小さな歯が並んでいます。ということは前方の、変に突き出した部分が鼻でしょうか。まじまじ見つめても、眼の位置は、やっぱりわかりませんでした。

 おかしな魚です。まったく知らない種類です。いえ、それ以前の問題です。陸に上がって平気な魚なんて、聞いたこともありません。しかも喋るのです。なんならスマートな青年を思わせる、ちょっと良い声なのです。


『なぁ君。この辺りに海はないか?』


 いろいろと訊ねたいことがあったのに、先を越されてしまいました。

 ずいぶんとマイペースな魚ですね。


『俺は海を探してるんだが、どっちを向いても向日葵ばかりでな』

「ここは森だよ」

『そうなんだがなぁ、ご覧の通りだ。俺には脚がない』


 魚は、ごろんと腹を見せて寝転がりました。てっきり全身真っ黒かと思ったら、顎から腹にかけて、縞模様になっています。

 困りました。まぁ、魚なら泳ぎたいでしょうが。海への行き方なんて、ヘンゼルに訊かれても仕方ありません。


「川じゃだめ?」

『わかってないな、君。泳ぐなら海さ。海に決まってるぜ!』


 バタバタとひれで宙を掻いて、魚は身を捩りました。なんだか子供が駄々を捏ねているみたいです。こうなると何故か他人事ではないような気がして、ヘンゼルは考えました。なんとかしてやれないだろうか。

 でも、さっきから自分で散々口にしたとおり、此処は森です。川や湖ならいくつか案内できますが、海なんて知りません。ヘンゼルだって見たことがないのです。

 いえ……ちょっと待って。何処かで見たような?

 海。海。海ねぇ。

 うぅん、と腕を組もうとして、


「あれ?」


 初めて気付きました。

 いつの間にか、両手で何かを抱えていたのです。

 硝子の球の中に、白い砂浜。持ち上げた拍子に、内側を満たす水が、ちゃぷんと揺れて泡沫を吐きます。きらきらと光を反射する紺碧の、その水面に小さな帆船を浮かべて、それは当然のように、ヘンゼルの手にあったのでした。


「あったよ! 海! ぼく持ってた!」

『おおっ!』


 魚が跳ね起きて、尾ひれで地面を叩きました。


『君、でかしたぞ!』

「でもちょっと小さいなぁ」

『いやいや、上等さ! じきに』







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