長い付き合いなのだから
9.
「おいムゥ! しっかりしろ!」
不意に、耳元が騒がしくなりました。
「ムゥ! おいこら! おい!」
続いて、がくがくと肩を揺さぶられます。
なんだ鬱陶しい。
せっかく気持ちよく眠っているのに。
「てめェこの野郎いい加減にしやがれ!」
無視を決め込んだムゥの頬を、ばしばしと平手打ちが往復しました。
さすがに黙ってはいられません。
痛みで覚醒した感情が、真っ先に怒りを選択しました。
いい加減にするのはどっちだ。
「痛いな! 何するんだ! だいたいお前は……」
怒鳴って跳ね起き、セヴァの髪を掴んで、鼻先を突き付けました。
……あれ。セヴァ?
「ッたく……世話が焼けるぜ」
目の前で、見慣れた美貌が息を吐きます。
そうだった。私は、大蛇に巻き付かれて……。
ハッとして確認すると、傷はすっかり癒えていました。身体中の骨も、右脚も、膝の捻挫さえも。痕すら残っていないのです。毒も綺麗に抜けていました。動くのも億劫だった倦怠感が嘘のように消え、おまけに疲労までが回復しています。
もしかして、セヴァの治癒術。
もしかしなくても、そうでした。あの緑の光です。今までにも何度か傷を治してもらったことがありました。
「戻ってきたのか?」
「はン」
ムゥが訊ねると、セヴァは、ややバツが悪そうに顔を背けました。
「ここイチバンの見せ場だろォが。俺様がいなくてどォするよ」
憎まれ口とは裏腹に、その額には、汗が浮かんでいます。今も息を弾ませているところを見ると、よほど急いで引き返してきたのでしょうね。
「ほらよ。ボサッとしてんじゃねェ」
明後日の方を向きながら、ぐいと手が差し伸べられます。
「…………」
あぁ。
それを握って、ムゥは、にっと唇の端を持ち上げました。
やっぱり、長い付き合いなのですから。
「そうだ! 大蛇は?」
セヴァの指さす方を見遣ると、少し離れた場所で、大蛇が蹲っていました。
蜷局を巻くわけでもなく、鎌首を擡げることもせず、何故か踏み付けられたような恰好で、頭を低く垂れています。どうしたのかと眼を懲らせば、それは何本もの光の針で、地面に縫い止められているのでした。
「“影縫い”だ」
確か、対象の動きを止める術です。
そうか。あの光は、影を作るために。今夜は新月だものな。
「今のうちに逃げるか?」
「いンや。ありゃじき切れる。無理矢理ィ作った影だ」
セヴァは首を振りました。
「そしたら地の果てまで追っ掛けてくるだろォぜ。並の執念じゃねェ」
「じゃあ、どうするんだ? 頭を潰されて生きてたんだぞ。このままトドメを刺したところで、また脱皮すれば元通りだ。キリがない」
今度はムゥが首を振ります。
つくづく厄介な奴に出遭ったものだと、胃が痛くなりました。
こうしている間にも、大蛇を封じた針は、少しずつ輝度を薄めています。大蛇が藻掻き、長い黒髪が乱れれば、ずっずと、その分だけ巨体が持ち上がるのです。
「よし。お前、囮になれ」
事も無げに、セヴァが言い放ちました。
ムゥは耳を疑います。たった今、大蛇のふざけた生命力について語ったところではありませんか。わざわざ全快させておいて、殺す気か。
「おい、私の話を聞いてなかったのか?」
「百五十……二百秒ほど稼いでくれ。それで万事解決だ」
「セヴァ?」
「説明してる暇はねェ。頼むぜ?」
セヴァの表情は、真剣でした。
「……わかった。注意を引き付ければいいんだな?」
しばし見つめ合い、ムゥは頷きます。
どのみち、このままではヒコボシどころではありません。
「あぁ」
セヴァが双眸を細め、何か投げて寄越しました。
フェザーブーツの片方です。
「鉄壁の極意ってやつを見せてやるぜ」
セヴァの声を背に、素早くフェザーブーツを履き、設定を変更しました。
出力最大、最高速度。三分ぐらいなら、もつはずです。
バッグの中を確認していると、ふわり透明な膜が、身体を包み込みました。
「気休めだ。あんまアテにすンじゃねェぞ」
結界です。
振り返って見たセヴァの顔が、一瞬だけ笑って、すぐ引き締まりました。
――我東雲の名を以て求むるは天の恵地の慈也――
詠唱が始まります。
セヴァの扱う術は、ムゥには理解できません。呪文も術式も、聞いたこともなければ見たこともない。どの本にも載っていませんでした。何を言っているのかも、わかりません。
だから、余計なことは考えなくていい。
三分半を稼ぐ。それだけに集中しろ。
気合いを入れて、大蛇を見据えます。
光の針が、消えました。
「こっちだ!」
手を叩き、ムゥは大蛇の左側へ躍り出ました。
大蛇がぐるり首を巡らせます。そこへ、まず一発。爆薬を投げ付けました。
シャァアア!
上手い具合に、振り向きざまを直撃しました。
後方へ回り込んで、指輪に魔力を込め、放ちます。
「“追い剥ぎ妖精”!」
尻尾だけでも切断できれば。
と思ったのですが、甘かったようです。千切れ飛んだのは、笹百合のみ。風の刃は、漆黒の鱗に傷一つ付けることなく弾かれ、拡散して、虚しく丘陵を吹き抜けてゆきました。
ならば。
「“女王の溜息”!」
大蛇の周囲が、極寒と化しました。
草も土も笹百合も、たちまちのうちに凍り付きます。大蛇の顔面で燻っていた煙までもが、氷の粒となって剥がれ落ちました。ムゥを追って鼻先を返す動きが、目に見えて鈍い。やはり爬虫類です。低温には弱いのです。
よし。ムゥは、じりじりと後退を開始しました。
今は此方を狙っていても、まだセヴァに飛び付ける距離です。何かの拍子に、気が変わらないとも限りません。もっと遠くへ誘導しておきたい。
けれど大蛇は、それ以上近付いては来ませんでした。
ムゥを睨み付け、鎌首を擡げたまま、何故か微動だにしません。
「おい、どうした! 私は此処だぞ!」
嘲るような声を浴びせ、ムゥは再び手を叩きます。
ちらと、セヴァの方を見ました。まだ詠唱は続いています。
「この馬鹿! アホ! 間抜け!」
ムゥも罵倒を続けます。言っている方が落ち込みたくなる語彙ですが、とにかく音を立てて、注意を引かなければ。耳はなくとも、蛇は、体内に空気の振動を感じ取る器官を持っています。その働きは非常に優秀であり、なんなら人間の鼓膜よりも敏感なくらいです。
「変温動物! にょろにょろ! わからずや! しつこい!」
ムゥは両脚を踏み鳴らし、口笛を吹き、思い付く限りの悪口を捲し立てました。
大蛇は動きません。
「そんなだからフラれるんだぞブス!」
と、出し抜けに大蛇が仰け反りました。
ぼこん、と腹が膨らみます。
そうして身を捩りざま、かっと眼を見開いて、口から炎を吐き出しました。
「なんっ……!?」
炎は結界に阻まれ、ムゥの目前で左右に割れて、笹百合を薙ぎ倒しました。
葉へ、花へ、茎へ。引火した炎は瞬く間に燃え広がり、辺り一面を火の海へ変えてゆきます。植物を燻す渋い煙が、そこかしこから立ち上り、生焼けの嫌な臭いと共に、ムゥの胃を締め上げます。
火まで噴くのか。なんて奴だ。
驚愕と怖気、安堵の入り交じった複雑な感情が、深い溜息となってムゥの唇から零れます。危なかった。結界がなければ丸焦げでした。
「!」
シャアア!
燃え盛る炎を物ともせず、大蛇が飛び掛かってきました。
咄嗟に後ろへ跳び退ります。顎の外れたような大口が、今し方までムゥの立っていた空間を引き裂きました。ぼうっとしてはいられません。頭を切り替え、陽動を再開します。着地と同時に、跳躍。
ムゥが下がれば、その分、大蛇が追い縋ります。
二三度繰り返して、ムゥは首を傾げました。
変です。低温で鈍ったはずの動作が、いやに俊敏です。
「……そのための炎か!」
すぐ合点がいきました。単に逆上したわけではなかったらしい。
暴れるだけかと思ったら、意外に知能も高いようです。
ならば。指輪に魔力を込めます。
もう一度、冷気を――。
ぱきん。
「えっ……?」
破裂音に、指へと視線を落とします。
ムゥの指に填まっていたのは、さっきまで魔道具だったものの残骸でした。
輪の部分だけを歪に残して、それは砕け散っていました。辛うじて指に填まってはいますが、核である魔石が粉々に割れ、もはや微風のひとつも起こすことはできません。使用回数が尽きたのでしょう。
「うっ」
長い胴体が、物凄い速さで目の前数センチを滑り抜けてゆきました。風圧で持ち上がる前髪に、寸刻遅れて、冷や汗が背中を伝います。
落ち着け。落ち着けば避けられる。
乱れる呼吸を整えようと、ムゥは自分に言い聞かせました。
だいぶ息が上がっています。フェザーブーツの恩恵で躱せていますが、ムゥ自身の運動能力は、本来それほどでもないのです。筋力、体力、共に人並み。反射神経に至っては、贔屓目に見ても落第点です。もう術も使えません。
距離なら充分に取りました。
まだか、セヴァ。
焦りと疲労、度重なる襲撃で削られた集中力は、そろそろ限界です。
方向転換すると思われた大蛇の尾が、予想外の角度に撓り、ムゥの脇腹を捉えて打ち据えました。
「しまっ……」
べき。重い衝撃に吹き飛ばされ、地面に叩き付けられます。
「痛っ、」
思わず発した自分の言葉に、違和感を憶えました。
途端、服と髪の焦げる、なんともいえない悪臭が鼻を突きます。
慌てて身体を起こすと、膝と掌に、ひりつく痛みが残りました。
火傷しています。
あれ、結界は?
「…………」
気付けば、鎌首を擡げた巨体が、潰れた左眼で、ムゥを見下ろしていました。
無機質でありながら、激しい殺意を湛えた、紅い瞳。炎の中を這い擦り回ったためか、頬は焼け、額は爛れ、蛇腹は焦げて、厚い煙を燻らせています。ざんばらの長い黒髪が、ちりり揺らめいては風に吹かれ、音もなく燃え落ちてゆく。
血と土と憎悪に塗れた女の、なんと哀しく、怖ろしい顔でしょう。
「…………あ」
肌を炙る炎が、刻限を告げていました。
――光あれ。
そのときムゥが聞いたのは、けれど、大蛇の怨嗟ではありませんでした。
厳かに響いた声に、視線を走らせます。
遠くセヴァが、両手で高々と錫杖を掲げていました。
錫杖から、神々しいまでの光が放たれ、その姿が掻き消されます。炎も、笹百合も、大蛇も、影すらも、光に飲まれてゆきました。視界を満たす明るさに、ムゥは眼を眇めます。これでは何も見えません。
いいえ。光が見えます。光の中で、いっとう強く輝く光が。
太陽でした。
夜の丘に、忽然と太陽が現れたのです。
それも、二つ。ムゥと大蛇の背後に一つずつ、見つめ合うように浮かんで、互いに相手を照らしているのでした。
大蛇の様子が一変しました。
キョロキョロと辺りを見回し、忙しなく舌を出し入れして、しきりと何かを探しています。まさか自分を? 目の前にいるのに? 有り得ないことですが、逆光で僅かに視認できる輪郭が、それでも明らかに困惑しているのが、わかります。
今のうちに逃げなければ。ムゥは踵を返します。
あぁ、でも、眩しい。
これ以上は、眼を開けていられない。
――逃がすまじ……許すまじ……。
だからムゥは、知りませんでした。
我に返った大蛇が、逃げる標的に狙いを定めたことも。
――貴様だけは!
最大限まで開いた口が、天辺から、ムゥの頭に食らい付いたことも。




