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ヒュプノランタン  作者: 雪麻呂
紫陽花散歩
22/97

わくわく雨の日


追憶の雨に煙る郷愁は、いつだって終わらない予定調和。

ハッピーエンドってやつなんだろうね。

たとえ、どれだけたくさんのものをなくしたとしても。





1.






 雨の音が、蒸し暑さを運んできます。

 べたべたと纏わり付く空気が感覚を圧迫し、苛立ち紛れの溜息は、じわり湿って生暖かい。晴耕雨読とは言うけれど、まったくこの時期ばかりは、落ち着いて本を読む気にもなれません。

 森は雨期に入ったのです。

 ムゥの最も嫌いな季節でした。

 初夏が訪れるまでの間、明けても暮れても雨が降り続きます。洗濯物は乾かないし野外活動は制限されるし、食べ物には気を遣うし。衛生管理も大変だし、何より蒸し暑いったらありません。髪をアップにしたくらいでは、じめじめと漂う風呂場のような湿気からは到底、逃れられないのでした。


「まだ大丈夫だったぜ」


 セヴァが、畳んだ扇子で己の肩を叩きます。

 屋根裏へ上がって川の様子を見てきたところなのですが、ほんのそれだけの運動で、はだけた白い胸元に幾筋かの汗を滴らせていました。紫陽花柄の浴衣に、長い金髪を高々と結い上げても、秀麗な美貌は、暑さのために不機嫌そのものです。


「けど芋がカビいてやんの。あれもう食えねェかもよ」

「やれやれ……今年もか」


 これだけ蒸せば、もありなん。

 去年はセヴァの下着にまでカビが生えました。


「そういえば、あれはどうしたんだっけ?」

「今お前が床拭いてる」

「げっ!?」


 ムゥは反射的に、使用中のブツを床へ叩き付けました。やたらと手触りが良いと思ったら、この雑巾セヴァの下着ふんどしがクラスチェンジしていたのです。どおりで最近見ないはずでした。

 もう限界だ。

 派手な赤い雑巾をゴミ箱へ放り込んで、ムゥは決意を固めました。

 空調の修理に掛かろう。

 魔道具の修理は厄介です。特に空調など大型のものになれば、部品も多く構造も複雑で、がっつり時間を取られてしまいます。故障したのが春先でしたから、まだいけるまだいけると先延ばしになっていました。まぁ、こう蒸し暑いと、修理する気も失せるというもの。

 それでも、このままでは、夏が来るまでに燻製になってしまいます。

 半日仕事を覚悟して、ムゥは再び、湿った溜息を吐くのでした。


「あーめあーめふっれふっれざあざあざあ!」


 さて。

 そんなムゥの憂鬱とは裏腹に、至極上機嫌で近付いてくる歌声があります。

 ヘンゼルでした。

 真っ青なフード付きのレインコートに、おそろいの青い長靴を履いて、騒がしく一人ミュージカルを楽しんでいます。ことんことん。分厚い靴底が床を叩く音は、さも愉快げで、軽やかに弾んでいました。

 歌いながらリビングに入ってきたヘンゼルは、ムゥを見るなり、駆け寄ります。


「先生、おそうじおわり?」

「あぁ終わったよ。家の中を走るのはやめなさい。それと、長靴とレインコートは脱げ。それは雨の中で着けるものだぞ。暑いだろう?」

「お家の中はダメ?」


 こくりと首を傾げたヘンゼルは、咎められたというのに、何故か嬉しそうです。

 あ、しまった。ムゥは、慌てて口を噤みました。


「じゃあお外ならいいんだね! ぼく、おさんぽ行きたい!」


 遅かった。

 ムゥは額に手を当て、唸りました。

 この雨です。いつもなら問答無用で却下な案件ですが、今日ばかりは返答に詰まりました。実は、ヘンゼルがこんなことを言い出したのは、元はと言えば、ムゥに原因と発端があります。

 というのも、このレインコートと長靴。ムゥが作ってやったのです。

 去年のものが小さくなったので、時期に合わせて新調しました。ヘンゼルの好きな色で、機能性もバッチリ。もちろん素材や着心地にも拘りました。袖を下ろしたのが今朝で、ヘンゼルが大喜びしたのは、言うまでもありません。

 そこまでは予想の範囲内でした。

 ところが、試着したが最後、ヘンゼルがこれを脱がないのです。

 暑いでしょうに、ずっと着込んだまま。廊下といわずリビングといわず、家中を走り回ってはしゃいでいます。ムゥには手に取るようにわかりました。ヘンゼルはきっと、こう考えているのでしょう。

 このレインコートが雨を弾く感触は、どんなに心地良いだろう。

 この長靴で思いっきり泥を踏み締める快感は、どれほどだろう。

 即ち、新しい装備の防御力を確かめたい勇者と化したに違いありません。

 それで子供なりに知恵を絞って、外出の理由を作り出したというわけ。

 ムゥだって、かつては子供でした。だから、わからないでもないのです。実際、雨具は雨に打たれて初めて役立ちます。新しいレインコートや長靴は、子供でなくとも、人をワクワクさせてやまないのです。うちのヘンゼルなどは、特に。


「ねぇ先生? いいでしょ?」


 ヘンゼルは、胸の前で両手を合わせ、猫がやるような上目遣いでムゥを見つめました。その可愛らしい表情は、ちょっと卑怯です。この子ときたら最近、妙な知恵が付いてきて、ちょくちょくこうした“おねだり”をするようになりました。何処で憶えてきたのでしょうか。

 結局ムゥは、苦い顔で頷くしかありませんでしたよ。


「……ちょっとだけだぞ」

「やったーありがとう!」


 たちまち笑顔になったヘンゼルは、万歳して、ぴょんと飛び跳ねました。


「でも、私はまだ仕事があるんだ。空調を修理しないと」

「うんいいよ! ぼく一人で行ってくる!」

「そこなんだがなぁ……」


 ムゥは腕を組んで考え込みます。

 この春先から、魚にドアと、立て続けに落人おちゅうどと遭遇しています。彼等は幸い、特に危険なものではありませんでしたが、今後もそうとは限りません。此処は非常識の森です。いつ何処でどんな目に遭うか、わかったものではないのです。

 一応許可している単独行動ですが、その実ムゥは、心配でなりません。

 セヴァに頼もうか?


「セヴァ、ちょっとヘンゼルを……うっ」


 振り向いて、ムゥは言葉を失いました。

 セヴァ、いつの間にか、腰巻き一丁です。


「ン? なんか用かい?」

「何故お前が脱ぐ!?」

「この暑さァ我慢ならねェ」

「それすずしいの? セヴァさん」

「おうよ。おチビも脱ぐかい?」


 呵々と笑うセヴァを一発殴って、ムゥは頭を振りました。駄目だコイツ。

 今は不適任すぎます。ヘンゼルを唆して、雨天全裸祭イン俺ん家など開催しかねません。風邪を引かれても困りますし、濡れた服を洗濯するのはムゥです。ただでさえ、乾かないものが溜まっているのです。それだけはいけません。

 ヘンゼルの方は、期待に輝く緑の瞳で、ムゥを見上げています。

 まぁ、近所であれば慣れた道です。ただの散歩なのですから、その辺を三十分も歩き回れば気が済むでしょう。

 不安は残りますが……。


「……いいぞ。行っておいで。だけど、遠くに行くんじゃないぞ」

「はーい!」

「もうすぐ昼食だからな。それまでには戻るんだぞ」

「うん! いってきまーす!」


 ムゥの心配を余所に、ヘンゼルは元気爆発。忙しなく長靴を慣らして、リビングを飛び出していきました。間髪入れず、玄関でガシャンと派手な音がします。何か蹴倒したらしく、ごめんなさいという声が遠ざかってゆきます。

 こんな有様ですから、果たしてムゥが付け加えた忠告が、聞えていたかどうか。


「あっ、変な物に触るなよ! くれぐれも! 絶対に!」










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