結末の先へ
13.
丘を吹き抜ける風が、夜の匂いに変わろうとしていました。
「わぁ、すごーい!」
眼下に広がる森を見渡して、ヘンゼルは歓声を上げました。
我が家からそう遠くないこの場所は、森の密かな絶景スポットです。眼下に広がる緑の濃淡は大人でも感嘆するほどに見事で、初めて訪れるヘンゼルが興奮するのは、無理もないことでした。普段は天気や星の観測に重宝しています。
けれど、今日は目的が違いました。
「ねぇねぇ先生、あれおうち! おうちがあんなに小さく見えるよ!」
「こら。危ないから走り回るんじゃない」
背伸びをしながら飛び跳ねるヘンゼルを抱き寄せて、ムゥは、ポケットから一本の小瓶を取り出します。
「それなに?」
「約束してたろう。映像を記録する装置だ。遅くなって悪かった」
「うそっ!? そうなの? こ、これ???」
眼を丸くするヘンゼルに、ムゥは笑って首を振りました。
「違う違う。本体は研究室にある。これは……仕上げなんだ」
ムゥはヘンゼルの手を取り、ゆっくり瓶を傾けました。
中から溢れた虹色の粉が、さらさらと幼い掌に山を作ります。
「あっ」
少し風に流されました。
「いい。どうせ撒くんだからな」
水色の眼が、風の行方を追って、ふと細く絞られます。
「しあげ? って?」
「…………」
沈む太陽に抱かれて、森が、ざわめく橙色へと染められてゆきます。
もしかしたら、と思っていました。
魚がいなくなった後、ムゥはこっそり湖を浚いました。すると予想どおり、虹色の鱗が十数枚。いずれも綺麗なまま出てきました。表面に、あの夜セヴァが見せてくれたようなトコヨワタリの像を映して。
それは一日経っても、二日経っても、決して色褪せませんでした。
そうだったのかとムゥは納得し、またひどく切ない気持ちになりました。皮肉なものです。黄金の鱗は過程に過ぎず、そもそもが未完成だったのです。必要なのはその先の虹だった。気付いたところで遅すぎました。いえ、知っていたとしても、どうすることもできなかったでしょう。
挽いて粉末状にし、厳選した薬品を混ぜて、魔力を込めた炎で煮詰めました。
完全に水分が飛んだとき、フラスコの底に残ったのが、この虹色の粉。
ランタンの方には、中に一枚だけ、原形を留めたままの鱗が収められています。
ずっと考えていました。
これは“眼”なのではないかと。
人は死ぬ寸前、それまでの人生が走馬灯のように頭の中を駆け巡るといいます。他者がそれを見ることは普通、絶対に叶いません。
なのに、この鱗はトコヨワタリの映像――彼等の想い出を、寸分違わず移し込んでいるのです。誰にでも見ることの可能な形、つまり客観的な映像として、です。
とうとう仕組みは解明できませんでした。もう、あの魚もいません。
しかしながら、その顛末を見届けた今、ムゥの疑問は既に結論ともいうべき段階に達していました。
彼等は目撃者を待っていたのではないか。
或いは最期の眼に焼き付いた瞬間。或いはいちばん大切な情景。腸を抉る後悔。最愛の人。純粋な記録として、それらを残す方法を知る誰かを。
肉体は朽ち果て、精神は消滅し、世界が彼等を忘れても。
彼等が生きた時間は、断じて幻などではない。
その証を刻む場所を。
昨晩の実験は成功しました。あとは“命名”を残すのみです。
命名とは、読んで字の如く、創り出した道具に相応しい名前を与える術式です。それにて道具は魔力を帯び、術者の意図した働きを担う魔道具が生まれるわけですが、ここが最後の難関。しくじれば、せっかくの道具が、本来の機能を充分に発揮できなくなります。
実行は明日以降になるでしょうが、その名はもう決めていました。
ムゥは、瓶に残った粉をすべて自分の掌に移しました。
「風が強いね」
「だから今日なんだ」
可能な限り遠くへ撒きたかったのです。
いずれ森中に広がる算段とはいえ、風に乗った方が早いでしょう。
暴れる髪もそのままに、ムゥは巨大な夕焼けを臨みました。
拳を握り締めれば、つらつらと指の隙間から、虹色が零れます。
魚よ。
私に似た誰かの夢よ。
在るべき場所は、きっとあなたを待っている。
何者にも束縛されず。今こそ彼方の空を往け。
どうか安らかに。
そしてこれからは、森の一部となって彼等の証を灯せ。
黄昏に染まる景色へ、ムゥは虹色の粉を撒きました。
ヘンゼルもそれに倣います。
かつて魚だったものの欠片は、その一粒一粒に夕日を浴びて、切ないほど鮮明に輝きました。二人は思わず眼を細めます。きらきらと睫の間から乱反射する光が、夢のように優しく瞼を揺さぶって、吹く風に溶けて混ざり、暮れゆく森を覆い尽くしてゆきました。
「ねぇ先生」
ヘンゼルが、横顔で呟きました。
「トビーくんは幸せだったよね?」
緑の瞳を寂しげに潤ませて、それでもヘンゼルは俯いてはいませんでした。僅かに顎を引き、しっかりと前を見据えていました。
夕日に縁取られた幼い顔が、何か妙に大人びていて、ふと気付いた事実に、ムゥは薄く口角を上げます。
あぁ、背が伸びたな。
「そうだとも」
並んで、そっとヘンゼルの肩を抱きます。
「私達が見届けた」
彼は飛んだのです。最後まで自分の力で、成し遂げたのです。
ほんの短い時間でした。けれど、あの脆く儚い一瞬にこそ、彼にとっての永遠がありました。生きたという証が、価値がありました。
だから過ちなんかじゃない。
そう思う。思いたかった。
夢の終わりの、はなむけに。




