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ヒュプノランタン  作者: 雪麻呂
あの空を飛べたら
13/97

結末の先へ

13.






 丘を吹き抜ける風が、夜の匂いに変わろうとしていました。


「わぁ、すごーい!」


 眼下に広がる森を見渡して、ヘンゼルは歓声を上げました。

 我が家からそう遠くないこの場所は、森の密かな絶景スポットです。眼下に広がる緑の濃淡は大人でも感嘆するほどに見事で、初めて訪れるヘンゼルが興奮するのは、無理もないことでした。普段は天気や星の観測に重宝しています。

 けれど、今日は目的が違いました。


「ねぇねぇ先生、あれおうち! おうちがあんなに小さく見えるよ!」

「こら。危ないから走り回るんじゃない」


 背伸びをしながら飛び跳ねるヘンゼルを抱き寄せて、ムゥは、ポケットから一本の小瓶を取り出します。


「それなに?」

「約束してたろう。映像を記録する装置だ。遅くなって悪かった」

「うそっ!? そうなの? こ、これ???」


 眼を丸くするヘンゼルに、ムゥは笑って首を振りました。


「違う違う。本体は研究室にある。これは……仕上げなんだ」


 ムゥはヘンゼルの手を取り、ゆっくり瓶を傾けました。

 中から溢れた虹色の粉が、さらさらと幼い掌に山を作ります。


「あっ」


 少し風に流されました。


「いい。どうせ撒くんだからな」


 水色の眼が、風の行方を追って、ふと細く絞られます。


「しあげ? って?」

「…………」


 沈む太陽に抱かれて、森が、ざわめく橙色へと染められてゆきます。









 もしかしたら、と思っていました。

 魚がいなくなった後、ムゥはこっそり湖を浚いました。すると予想どおり、虹色の鱗が十数枚。いずれも綺麗なまま出てきました。表面に、あの夜セヴァが見せてくれたようなトコヨワタリの像を映して。

 それは一日経っても、二日経っても、決して色褪せませんでした。

 そうだったのかとムゥは納得し、またひどく切ない気持ちになりました。皮肉なものです。黄金の鱗は過程に過ぎず、そもそもが未完成だったのです。必要なのはその先の虹だった。気付いたところで遅すぎました。いえ、知っていたとしても、どうすることもできなかったでしょう。

 挽いて粉末状にし、厳選した薬品を混ぜて、魔力を込めた炎で煮詰めました。

 完全に水分が飛んだとき、フラスコの底に残ったのが、この虹色の粉。

 ランタンの方には、中に一枚だけ、原形を留めたままの鱗が収められています。


 ずっと考えていました。

 これは“眼”なのではないかと。

 人は死ぬ寸前、それまでの人生が走馬灯のように頭の中を駆け巡るといいます。他者がそれを見ることは普通、絶対に叶いません。

 なのに、この鱗はトコヨワタリの映像――彼等の想い出を、寸分違わず移し込んでいるのです。誰にでも見ることの可能な形、つまり客観的な映像として、です。

 とうとう仕組みは解明できませんでした。もう、あの魚もいません。

 しかしながら、その顛末を見届けた今、ムゥの疑問は既に結論ともいうべき段階に達していました。

 彼等は目撃者を待っていたのではないか。

 或いは最期の眼に焼き付いた瞬間。或いはいちばん大切な情景。腸を抉る後悔。最愛の人。純粋な記録として、それらを残す方法を知る誰かを。

 肉体は朽ち果て、精神は消滅し、世界が彼等を忘れても。

 彼等が生きた時間は、断じて幻などではない。

 その証を刻む場所を。


 昨晩の実験は成功しました。あとは“命名”を残すのみです。

 命名とは、読んで字の如く、創り出した道具に相応しい名前を与える術式です。それにて道具は魔力を帯び、術者の意図した働きを担う魔道具が生まれるわけですが、ここが最後の難関。しくじれば、せっかくの道具が、本来の機能を充分に発揮できなくなります。

 実行は明日以降になるでしょうが、その名はもう決めていました。









 ムゥは、瓶に残った粉をすべて自分の掌に移しました。


「風が強いね」

「だから今日なんだ」


 可能な限り遠くへ撒きたかったのです。

 いずれ森中に広がる算段とはいえ、風に乗った方が早いでしょう。

 暴れる髪もそのままに、ムゥは巨大な夕焼けを臨みました。

 拳を握り締めれば、つらつらと指の隙間から、虹色が零れます。


 魚よ。

 私に似た誰かの夢よ。

 在るべき場所は、きっとあなたを待っている。

 何者にも束縛されず。今こそ彼方の空を往け。

 どうか安らかに。

 そしてこれからは、森の一部となって彼等の証を灯せ。


 黄昏に染まる景色へ、ムゥは虹色の粉を撒きました。

 ヘンゼルもそれに倣います。

 かつて魚だったものの欠片は、その一粒一粒に夕日を浴びて、切ないほど鮮明に輝きました。二人は思わず眼を細めます。きらきらと睫の間から乱反射する光が、夢のように優しく瞼を揺さぶって、吹く風に溶けて混ざり、暮れゆく森を覆い尽くしてゆきました。


「ねぇ先生」


 ヘンゼルが、横顔で呟きました。


「トビーくんは幸せだったよね?」


 緑の瞳を寂しげに潤ませて、それでもヘンゼルは俯いてはいませんでした。僅かに顎を引き、しっかりと前を見据えていました。

 夕日に縁取られた幼い顔が、何か妙に大人びていて、ふと気付いた事実に、ムゥは薄く口角を上げます。

 あぁ、背が伸びたな。


「そうだとも」


 並んで、そっとヘンゼルの肩を抱きます。


「私達が見届けた」


 彼は飛んだのです。最後まで自分の力で、成し遂げたのです。

 ほんの短い時間でした。けれど、あの脆く儚い一瞬にこそ、彼にとっての永遠がありました。生きたという証が、価値がありました。

 だから過ちなんかじゃない。

 そう思う。思いたかった。

 夢の終わりの、はなむけに。










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