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ヒュプノランタン  作者: 雪麻呂
あの空を飛べたら
10/97

ましてや翼なんて

10.






 かんさつ日記:10日め  はれ

 すごいすごい! トビーくんは、もう100びょうも飛べます。

 今日もがんばっていました。

 風がふいても、負けません。

 きっとコツをつかんだんだと思います。

 やっぱりキラキラしています。

 まぶしく光ります。ふしぎです。

 明日は、先生とセヴァさんと、お花見に行きます。楽しみです。






                  †






 瓢箪池の桜は、見事に満開です。

 風が吹けば淡い色彩がひらひらと踊り、青い空に浮かぶ雲は柔らかで、いっとう見晴らしの良い場所に陣取った三人は、そんな春の真っ只中で、食事と景色を楽しんでいました。

 もうだいぶ昔、確かセヴァが言い出して、いつの間にか毎年恒例になった行事。お花見です。去年からはヘンゼルも加わって、賑やかな宴会になりました。

 朝からテンションマックスだったヘンゼルですが、今は好物で統一されたお弁当に大喜び。あれもこれも美味しいと欲張って口へ運び、果たして喉に詰めて水筒の水をぶちまけ、ムゥを散々に慌てさせてくれました。


「げほ、げほっ」

「あぁもう慌てて食べるからだ! 水は足りるか? 大丈夫か?」

「はははっ、酒ならたんまりあるぜ?」

「飲ませたら殺すぞ酔っ払いめ!」


 既に微酔いのセヴァは、お手製の団子を肴に上機嫌です。いくら言ったところでじき幼児に酒を勧めるに決まっているので、食休みもそこそこに、ムゥはヘンゼルを放牧しました。


「足元に気をつけるんだぞ」

「はーい!」


 持参したスケッチブックを抱えて、ヘンゼルは池の畔へ駆けてゆきました。

 跳ねた魚の鱗が、きらり輝きます。あれから変色が進んだらしく、頭と背びれの一部を残して、そのほとんどが金色になっていました。

 おおよその進捗は知っていましたが、なるほど。ずいぶんと上達したものです。フォームが定まって、格段に安定感が増しています。ひれを動かすタイミングも憶えたのでしょう。風向きを読み、それに逆らわぬよう強弱をも加減しているようでした。

 二分ほどは滞空します。高度も上がり、今やセヴァの身長と同じくらいのところまで飛び上がるようになっていました。

 はしゃいで走り回るヘンゼルを眺めながら、ムゥは酷く憂鬱でした。

 あの魚を殺そうとしたことを、嫌でも思い出します。

 悪かったとは思っています。反省もしています。無論、もう二度と繰り返すつもりはありません。でも、だからといって、あの魚と和解したわけではないのです。

 そもそも一方的な嫌悪感なのですが、依然として、あの魚への憎しみは重く胸に蟠っていました。理由もわからないままに。

 できれば、この場所に長居したくはありませんでした。

 というか、来たくもありませんでした。


「……はぁ」


 ムゥは溜息を吐いて、ポケットから、色褪せた鱗を取り出します。

 セヴァが目敏く気付いて、嫌味な笑みを寄越しました。


「結局間に合わなかったなァ」

「…………」


 まったく腹立たしいのですが、本当のことです。

 記録装置は、未完成でした。

 お花見――今日この日を、ひとまずの期限とする。ムゥは密かにそう決めていたのです。別に誰に何のペナルティを科されるわけでもないのですが、なんだか自分に負けた気分で面白くありません。

 それに、楽しみにしていたヘンゼルの残念そうな顔といったら。

 とても場所の変更を提言する空気ではなかったのでした。


「あ!」


 ヘンゼルの声に、ムゥの肩がビクッと跳ねました。

 すわ落ちたのかと見れば、なんのことはありません。魚が宙に浮いているだけです。けれどムゥが驚いたのは、その高さでした。三……いえ、四メートルは超えています。きっとヘンゼルも、それで声を上げたのです。

 懸命に尾ひれを振り、胸びれで宙を掻いている。ややリズムが乱れているのは、焦ってでもいるのでしょうか。とはいえ、かなりいいペースです。少しずつ、でも確実に高度を上げていきます。太陽の光を浴びて、水滴を纏った鱗が、眩しく金色に輝きました。

 いけるか?

 ムゥは思わず拳を握っていました。

 固唾を呑んで見守る中、魚はもう一メートルほど上昇したところで突然、ぴたりと動きを止めます。

 そしてそのまま、為す術もなく、湖に落ちてしまいました。

 力尽きたのでしょう。


「あぁ~……おしかったなぁ」


 ヘンゼルが地団駄を踏みます。


「かぁ、焦れッてェ」


 セヴァが立ち上がり、袖を捲り上げました。


「いっちょ俺様が引ッ掴んでブン投げてやらァな。そォすりゃ勢いで」


 ただでさえ短気な性分なのが、酒が入っているのもあって、これ以上の中途半端を静観できなくなったようです。ぷりぷりと尻尾を振りながら、池へ向かって大股で一歩踏み出しました。


「あ、だめ!」


 しかしそれは、ヘンゼルの咄嗟の制止に遮られました。


「ここまで自分の力でがんばってきたんだから! さいごまでひとりでやるの! ジャマしちゃだめー!」


 ヘンゼルは両手を広げ、牽制するようにセヴァを睨み付けます。

 思いがけない反抗に、セヴァの双眸がキョトンと瞬きました。

 けれども彼は、すぐに紅い唇の端を持ち上げて、一言。


「そォかい」


 再び敷物に寝転がりました。

 何処かで呑気な鳥が鳴いています。見上げれば抜けるような青空で、さわさわと春の香りが、ムゥとセヴァの髪を撫でます。揺れるタンポポは、綿毛の夢でも見ているのでしょうか。誰もが眠くなるような春の午後でした。


「ありゃァ、今日中に飛ぶかもなァ」


 セヴァが言い、手を伸ばして草を毟りました。傍らの籠には、こんもりとフキノトウが盛られています。持ち帰って食べるつもりなのです。セヴァは好きですが、ムゥとヘンゼルにはすこぶる不評でした。苦くて口に合いません。


「くだらない」


 ムゥは、無意識に荒い口調で応じていました。

 一瞬でも魚を応援してしまった自分が、無性に腹立たしい。

 だいたいだ。なんだって魚が飛ぼうとするのか。

 魚なんだから、おとなしく水の中を泳いでいればいいんだ。

 空を飛ぶのは鳥の特権。大地を駆けるのは獣の特技。生き物には、各々に適した能力と役割がある。それは決して超えられない生命の領域で、また侵してはならぬ境界線ではないのか。

 いい加減に諦めろ。魚が飛ぶなんて、どだい無理な話。

 第一、飛んだからなんだっていうんだ。魚が飛んだって魚だ。

 鳥には……なれない。

 それが運命なのに。

 どうして抗う?

 お前には、藻掻く手足もないじゃないか。ましてや翼なんて。

 そんなものを望んでも、きっと。

 きっと……。


「くそっ」


 漏れた舌打ちにセヴァが溜息を吐いて、煙草入れから煙管を抜き出します。

 すかさず奪い取り、咥えて、上下にぶらぶら揺らしました。


「おやま。珍しいねェ」

「火」

「へいへい、大先生」


 セヴァが恭しい仕草でマッチを擦り、火皿に小さな火が灯りました。

 無作法に吸って吐けば、久方ぶりの煙が、ずんと胸に染みます。


「そンなに癇に障るかい」

「あぁ」


 即答したムゥに、セヴァは、ゆっくり杯を傾けました。


「お前、自分の後ろ姿ァ見たことあるかい?」

「は?」

「俺はあるぜ。冷や汗が出たねェ。いったいコイツぁ何処の誰なんだいッてさ」

「おいなんの話だ?」

「あるのかい?」


 畳み掛けられて、ムゥは考えました。

 急に何を言っているんだろう。後ろ姿? あっただろうか。

 そういえば、前に研究室でも言ってたっけ。

 同族嫌悪だとかなんとか……。


「あっ! あーーーっ!」


 二度目のヘンゼルの叫び声に、ムゥの思考は中断されました。

 視線が湖へと吸い寄せられます。

 一際高く飛び上がった魚が、きらり眩しく輝きました。







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