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三二話 氷と酸

 真っ暗な闇の中で、淡い光を纏った存在がぽつりと浮かんでいた。

 ルイーズを縛っていた鎖の拘束が解け、ようやく自由を得た彼女の耳に届いたのは、こもりがちで不鮮明ながらも、胸の奥に響く愛しい人の声だった。

 微かにしか聞こえない。けれど、その声音を聞き間違えるはずがない。

 だけど、見えない。愛しい人の顔が、まるで霧の向こうにあるように、見えなかった。


 もっと、はっきりと。

 貴方の声を、貴方の姿を。

 そして、貴方と言葉を交わしたい。


 その存在を確かめるように、ルイーズは震える手を伸ばす。

 指先が頬に触れた。少し冷たい、けれど確かな熱を持った肌。

 生きている。ここに、彼がいる。助けに来てくれた。それだけで、胸が張り裂けそうになるほど嬉しかった。

 だけど、貴方は残酷だ。


 ──ねえ、ジル様。


 どうして、私を助けに来たのですか?


 仲間だから?

 それとも、ロラン様やドナシアン様の命令で?


 貴方は、どんな想いでここへ来たの?

 どんな顔で、私の名を呼んだの?──


 ルイーズがジェルヴェールに抱く想いは、会えなかった日々の積み重ねなど比にならないほど、急速に、そして確実に胸の奥から溢れ出していく。

 彼の姿を見るたび、声を聞くたびに、心がジェルヴェールを求めてしまう。

 ただ会えるだけで幸せだったのに、望んではいけない願いが次々と生まれていく。

 この暗闇の向こうで、今、彼はどんな表情をしているのだろうか。


 ──どうか……ほんの少しだけでいい。今だけは、わたくしのために。わたくしのことを想って助けに来てくれたのだと、そう期待してもいいでしょうか。


 ジェルヴェールの声が、彼女の異変を察知し問いかけてくる。

 その声に応えようとルイーズは口を開くが、声は出ない。漏れ出たのはただの息だけだった。


 そのとき鼻を衝く、肉が焼けるような臭い。


「げほっ……がっ……」


 ジェルヴェールの苦しげな咳き込みが響いた。

 すぐさまルイーズは状況を悟る。敵の攻撃が、彼に届いたのだ。

 直後、目前で交わされる攻防。

 ジェルヴェールと敵──No.5、“ノクス”との死闘が始まった。


 すぐに加勢したかった。けれど、今の彼女では、気配を感じ取ることしかできず、まともな攻撃は望めない。

 それでも、傍にいるだけではいられなかった。


 ──ライ、来て。


 心の中でルイーズは小さく呼びかける。

 先ほどまで彼女を縛っていたストレンジの鎖は解かれ、ピッピコへと繋がるゲートが開いた。


 ──ライ、わたくしにかけられた状態異常を解除して頂戴。


 ルイーズは心の中でライに命じ、身体にかけられていた状態異常を解除させた。


「……ッ!?」


 その瞬間、視界がぱっと開ける。

 見えたのは、敵と交戦するジェルヴェールとサビーヌの姿。中でもジェルヴェールの様子は酷かった。喉元が溶け始めているのか、首から胸元にかけて真っ赤な血が滴っている。


 ──このままじゃ、ジル様が……!


 ルイーズは咄嗟に水砲を撃ち放ち、敵ノクスの動きを遮った。

 ジェルヴェールから引き離すように、次々と水の弾丸を放ち続ける。


「ライ! ジル様の傷を癒して!」


 ノクスの注意を引きつけている間に、ルイーズはライへと命じてジェルヴェールの回復を急がせた。

 本来、ピッピコを外で顕現させるのは禁じられている。だが今は緊急時。許可が降りていようがいまいが、そんなことを気にしている暇はなかった。


「へぇ……やってくれるじゃねぇか、女ァァ!」


 一騎打ちに割って入ったルイーズに、ノクスは怒気を孕んだ声を上げる。

 その瞬間、標的はジェルヴェールからルイーズへと切り替わった。


 ──それでいい。狙い通りよ。


 ジェルヴェールから敵の目を逸らす。それがルイーズの狙いだった。


「っ……はぁ、はぁっ……!」


 誤算が生じた。攻撃を数発放っただけで、ルイーズの身体は限界を迎えつつあった。

 肩が大きく上下し、息は荒く、脚が震える。視界も滲み、力がまるで入らない。

 そのまま、膝が崩れ落ちた。


「まさか……」

「くくっ……ようやく気づいたか? あんたのことは一番警戒してたからな。ただ捕らえて鎖で縛っただけ、なんて思ったか?」


 ノクスの声が嘲るように響く。

 ルイーズは奥歯を噛みしめ、悔しげに顔を上げた。


「体力と能力を奪われていたとは気が付かなかったわ……」

「それだけじゃねぇ。あの鎖には毒も仕込まれてる。蚊の針を参考にしてな、刺されても気づかねぇように工夫されてるんだとよ」


 その言葉に、ルイーズは目を見開いた。

 先ほどからひどく鼓動が速くなり、じっとりと額に汗が滲んでいた理由が、ようやく腑に落ちた。


「どうやらその毒は、あんたの“ペット”でも除去できねぇらしいな。解毒できるのはこの薬だけだ」


 そう言って、ノクスは懐から一本の注射器を取り出して見せつける。

 中には不気味な光を放つ青緑の液体が揺れていた。


「死にたくなきゃ、大人しくこっちに来い」


 その誘いに、ルイーズは悔しげに奥歯を噛みしめる。

 彼らはルイーズを「依代」として利用するつもりなのだ。毒を仕込んでいたのは、ただ逃がさないため。

 つまり、すぐに殺すつもりはない。だが、毒が体を蝕んでいくのは時間の問題。持って数日といったところか。


「お断りするわ」


 即答だった。

 それにノクスは、思いのほか冷静な声で応じた。


「お前がこっちに来れば、他の連中からは手を引く。俺たちはこれで撤退するつもりだ。それでも拒むのか?」


 先程までの怒声や狂気じみた様子から、単純で激情型の男かと思っていたが、違う。

 感情が顔に出やすいだけで、決して馬鹿ではない。

 そして何より、敵はルイーズ性格をよく理解していた。

 単に目の前の戦力だけを見て動いているわけではない。

 恐らく、ここに来たのはジェルヴェールとサビーヌだけではない。

 他の仲間たちも、別の戦場で戦っている。彼らのことを考えて、ルイーズが動くと判断したのだ。


 ──わたくし一人が向こうへ行けば、他のみんなは助かるかもしれない。


 そんな思考が脳裏によぎった。


「断る」


 ルイーズではない誰かの声が空気を裂いた。

 次の瞬間、ノクスが立っていた場所に鋭い氷の針が無数に出現し、地面から突き刺すように噴き出した。

 ノクスは舌打ちしながらも、それを軽やかに避けて距離を取った。


「完全復活したか。だが、それでいいのか?断ればその女は確実に死ぬ。今ここで俺たちに渡しておいて、後で奪い返すって手もあるぜ?」

「彼女は貴様などには渡さない。そして、死なせもしない」


 ジェルヴェールの声は静かで、だが確かな決意を帯びていた。


「俺から解毒剤を奪うつもりか?」


 ノクスの挑発的な声を無視して、ジェルヴェールはルイーズのもとへと歩み寄った。

 彼の瞳は真っすぐに彼女だけを見ていた。


「ありがとう、ルイーズ嬢。君のおかげで助かった」

「ジル……さ、ま……わたくし……っ」


 立ち上がろうとしたルイーズを、ジェルヴェールは躊躇なく抱き上げた。

 お姫様抱っこされる形になり、ルイーズの頬は一気に赤く染まる。


「あ、あの……ジル様!?」

「君は誰にも渡さない」


 ジェルヴェールは軽やかにルイーズを抱えたまま壁際へと移動し、そっと降ろした。

 その間もノクスの視線は鋭く、機を窺っている。


「俺が片をつける」

「え?し、しかし相手は手強いですわ。お一人では……」

「確かに手強い。俺も己の未熟を思い知らされた」

「なら──」

「だが、だからといって、ここで引き下がるわけにはいかない」


 ジェルヴェールはゆっくりと振り返り、ノクスと正面から対峙する。

 ルイーズは声をかけようとしたが、その背に宿る覚悟に、言葉を失った。


「お別れのキッスは済んだか?最後になるかもしれないし、もうちょっと名残惜しんでくれてもいいんだぜ?」


 ノクスが嗤いながら挑発する。


「必要ない。俺は死なない。お前から解毒剤を奪い、ルイーズ嬢も救ってみせる」

「可愛げがねぇな。なら、やれるもんならやってみな!」


 ノクスとジェルヴェール、両者の殺気が空気を震わせる。

 次の瞬間、動いたのはジェルヴェールだった。

 氷の剣を手に、一気に距離を詰める。


「意気込んだ割には、芸がない攻撃だな!」

「安心しろ。趣向は変えてある」

「……なにっ!?」


 ノクスの周囲に、突如として二十本もの氷剣が現れた。

 まるで陣を敷いたかのように囲み、四方八方から一斉に襲いかかる。


「舐めるなよ!」


 ノクスは舌打ちしながらも、滑るように氷剣をかわし、一部は酸で溶かして無効化する。


「この程度で……!」


 彼が右手を前に突き出すと、五本の指先から酸で構成された無数の小球が、弾丸のようにジェルヴェールへ向かって飛び出す。


 ジェルヴェールはそれらを氷剣で受け止め、溶けた部分を即座に補修しながら前進。

 そのまま、あと数メートルという距離で、彼は手にした氷剣を投擲した。


「無駄だ──。な、に……!」


 ノクスは片手を突き出して氷剣を掴むと、剣先からじわじわと溶かし始めた。

 だが、それはジェルヴェールの思惑通り。剣先が溶けると同時に、氷剣は姿を変え、ノクスの拳を逆に氷で包み込む。


「くくっ、片手を封じたつもりか?こんな氷、すぐに溶かして──」

「その一瞬で、十分だ」


 ノクスの意識が氷に囚われた拳へと逸れた刹那、ジェルヴェールは間合いを詰め、拳を突き出す。

 ノクスは間一髪でその拳を躱した。


「っぶねぇ……だが、懐ががら空きだぜ……っ!」


 体勢を崩しながらも、ノクスはジェルヴェールの隙を狙って腕を伸ばす。

 しかし、それさえも計算の内だった。ジェルヴェールは拳を振り抜いた勢いのまま身体を反転させ、右足を軸に回転。

 氷を纏わせた左足でノクスの脇腹へ鋭い回し蹴りを叩き込んだ。


「すご……い」


 ルイーズは思わず息を呑む。無駄のない華麗な動きに、目を奪われた。

 蹴りの直撃と共に、ノクスの脇腹には氷が貼り付き始めている。


「けっこうやるじゃねぇか……」


 ノクスは脇腹を押さえながら、広がり始めた氷を酸で焼き切る。

 一度距離を取ると、低く笑いながら顔を俯かせた。


「クククク……じゃあ、こっちも少し本気を出すとしようか」


 顔を上げた瞬間、ノクスは地を蹴り、猛然と突進してくる。

 その動きは先程とは比べものにならない。鋭さと速度が段違いだ。

 迫る拳を、ジェルヴェールは氷を纏った両腕で受け止めるが──


「ぐっ……!」


 受け止めたはずの一撃の重さに、ジェルヴェールは後方へと吹き飛ばされる。

 追い打ちをかけるように、ノクスが迫る。

 怒涛の連撃が、ジェルヴェールのガードを削るように叩き込まれた。


 氷の防御が徐々に削られ、補修が追い付かなくなってきた。

 なんとか距離を取ろうと、ジェルヴェールは後方へ跳ぶ。

 だが、それすらもノクスは読んでいたかのように地を踏み込み、瞬時に懐へ潜り込んでくる。


「終わりだッ!」


 ノクスの拳が横から振るわれ、ガードの甘くなったジェルヴェールの顔面を狙う。


「……っ!」


 ジェルヴェールはとっさに上半身を仰け反らせ、バク転するように身を反転。

 地を蹴って両手で体重を支えると、襲いくる拳を左膝で受け流し、その反動を利用して右足を振り上げる。

 回し蹴りがノクスの頭部を襲った。


「なかなかやるじゃねぇか……!」


 ノクスは咄嗟に左腕で蹴りを受け止める。

 両者の動きは次第に速さを増し、戦闘は更なる激化を予感させる。その時だった。


 ドゴォォォォン!


 突如、天井が大音響と共に崩れ落ちた。

 舞い上がる砂埃と共に、瓦礫が部屋中に降り注ぐ。


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