青に染まった世界で、藍を叫ぶ。
あたしは目が覚めたら、青と白しかない世界にいた。
白い机。白い壁。白い天井。白い蛍光灯。
白は眩しくない。目が痛いんじゃなくて、**“手触りのなさ”**が怖い。
教室って、本当はもっと——匂いがするはずだ。チョークの粉、ワックス、濡れた雑巾。誰かの柔軟剤。プリントのインク。
なのにここは、吸い込んでも吸い込んでも、何も入ってこない。空気が薄いわけじゃない。世界が薄い。
触れたら崩れそうな紙の世界に、たった一色だけが残っている。
青。
澄んだ青じゃない。
プールの青でも、夏空の青でもない。
もっと深い。底が見えない。沈んだら戻ってこれない、深海の青だ。息を吸うたび、肺の奥が冷たくなる。音まで青くなる。
——その青の中で、あたしの髪が、白かった。
「……は?」
指先に絡んだそれは、いつもの明るい栗色じゃない。
腰まで伸ばしていたはずの髪は、同じ長さのまま、色だけを抜かれて、雪みたいに淡い。
指を通すと、さらさらとほどける。軽い。軽すぎる。現実感が薄い。
白い髪って、こんなに——こわい。
机の上に落ちた毛先は、影を作らない。
影がないって、こういうことか。物がそこにあるのに、そこにある証拠が一つ欠けてる。
世界が、二次元に近い。
「……あかりちゃん」
右隣。
振り向くと、翠が机に突っ伏した姿勢のまま、こちらを見ていた。目だけ動いてる。
白いセーラー服。そこに落ちる髪が——青い。黒のはずのボブが、世界の残り色に染め直されたみたいに。
「……すい。いる?」
「いるよ。……いるけど、ここ、変」
翠の声は低くて落ち着いてる。なのに語尾が、少しだけ震えている。
その震えが、教室の静けさに溶けず、青い空気の中で浮いていた。
「ねえ、あかりちゃん。……それ、髪」
「見れば分かるでしょ」
「いや、分かるけど……分かるのが怖いんだよ」
翠の言い方が、ちょっとだけ怒ってるみたいで、あたしは鼻で笑いそうになる。
こういうときまで、あたしにツッコミを入れるんだ。翠は。
あたしは喉を鳴らして、息を一度整えた。
空気が冷たい。胸の奥が、ほんの少しだけぜえ、と鳴った。
——この世界の冷え方は、身体の内側に直接触ってくる。
(やば。……今、音、聞こえた?)
自分の呼吸音って、普段はこんなに意識しないのに。
青が静かすぎて、呼吸の失敗が目立つ。
「大丈夫?」
翠が机越しに身を乗り出して、あたしの顔を覗き込む。
心配の速さが、昔のままだ。ほんと、昔のまんま。
過去のあたしがそこに立ってるみたいな目をする。
「だいじょぶ。……たぶん」
「“たぶん”って言う顔じゃないよ」
言い返そうとして、笑いの息が漏れた。
笑うと、胸の奥の青が少し薄くなる気がした。気のせいでもいい。
笑ってないと、翠が今にも泣きそうになるのが分かるから。
教室の窓の外が、青に満ちている。
運動場も、校舎の向こうも、空も、全部が水槽みたいに揺れて見える。
遠景が、輪郭を持ちたがらない。世界が“描かれる”のをサボっているみたいに。
「……ねえ」
翠が小さく言った。
「これ、夢……じゃないよね」
「夢だったら、すいがこんなにちゃんと怖がってない」
「それ、どういう意味」
「夢の中のすいって、もっと雑だから」
「雑って何!? 私、いまも雑じゃないし!」
「いまは丁寧に怖がってる」
「丁寧に怖がるって何!?」
——こういう会話ができるうちは、まだ大丈夫。
そう思う。そう思って、思い込む。
翠が、ふっと声を落とす。
「……映画館」
その単語だけで、記憶が引っ張り上げられる。
◆
朽ちた映画館。
廃墟探索同好会。部員二人。
“やるの? これ”って毎回言う翠と、“やるよ”って毎回言うあたし。
——毎回、最初に足を踏み出すのはあたしで、最後に背中を押すのは翠だった。
入口のチェーンは切れていた。切れたところが、妙に綺麗だった。誰かが最近触ったみたいに。
そこが一番気持ち悪かった。廃墟は“放置されてる”から廃墟なのに。
「最近」の匂いが混じると、急に生き物になる。
館内は埃の匂いで、息を吸うたび喉がざらついた。
床を踏むと、古いカーペットがふわりと沈み、音が薄く逃げた。
音が逃げる場所って、心まで落ち着かない。
「帰ろう」
翠がすぐ言った。
「ここ、絶対……」
「絶対、何?」
あたしは懐中電灯を揺らして、暗闇の奥を覗く。
「絶対、面白いやつ?」
「絶対、面白くないやつ」
翠の声が硬い。
「あかりちゃん、そういうの、分かってて進むでしょ」
「分かってるから進むんだよ」
あたしは笑って言った。
笑いの中に、ほんの少しだけ緊張が混じってるのも分かってる。
誰もいないはずなのに、上映が始まっていた。
映写機のカタカタが、天井の奥で生き物みたいに動いていて。
スクリーンの白が、暗闇の中で浮かび上がっていた。
“光がある”というだけで、館内が嘘みたいになる。
廃墟なのに、現役みたいになる。
「……やばいって」
翠が袖を掴んだ。
「ほんとに、だめ。警察案件。ていうか、心霊案件」
「心霊って言った? 今、心霊って言ったよね?」
「言ったよ! 言うよ!」
翠は半ギレみたいに言った。
その声が震えてるのが、余計に刺さる。
スクリーンに映ったのは、青と白だけの作品。
真っ白な塔。
空も白い。地面も白い。塔だけが白を重ねて白い。
白って、重ねるほど“無”になるんだなって思った。
その頂上に、青いツインテールの少女が立っていた。
振り向かない。瞬きもしない。
ただ遠くを見ている。遠く——たぶん、こっちじゃないどこかを。
(……きれい)
そう思った瞬間。
“美しい”って言葉の中に、冷たい針が混じってるのが分かった。
綺麗すぎるものって、怖い。
人間の手触りがないから。
世界がふっと遠のいた。
眠気が落ちてきた。布みたいに、重く。
翠の「帰ろう」が遅れて聞こえた。あたしの「一分だけ」が喉の奥でほどけた。
懐中電灯の光が、床に白い円を作って、それが滲んでいく。
青が満ちた。
◆
「……入ったんだ」
あたしはいまの青を見て言った。
「映画の中に」
翠は一度だけ目を伏せて、窓の外を見る。
「……そういう話、あるよ。昔観た。入った人が戻れなくて、ずっとその世界に——」
「やめて」
「……うん。ごめん」
謝るのが早い。
翠は“怖い”を先に言葉にして、それで自分の足場を作る。
足場ができると、今度は不思議なくらい前に進める。
怖いのに、前に出る。怖いから、前に出る。そういう子だ。
「とりあえず、外」
あたしは立った。椅子の脚が床を擦っても音がしない。
「ここが学校っぽいなら、屋上。高いところ。セオリー」
「待って、あかりちゃん——!」
翠の静止が背中に届く前に、あたしは廊下へ出た。
廊下も白い。掲示物の色が全部抜けて、文字の形だけが貼り付いている。
“文化祭のお知らせ”とか、“進路指導室”とか、そういう生活の字面だけが残ってるのに、生活がない。
床のワックスの光沢すら、白い膜みたいに平らだ。
そして——影がない。
窓枠の影も、手すりの影も、人の影も。
自分の足元に“自分”が落ちてこない。
影って、こんなに安心をくれてたんだなって思う。世界が立体だと教えてくれるものだった。
「ねえ、あかりちゃん」
背後から翠の足音。薄い。
「走らないで。息……」
「走ってないって」
あたしは笑って、呼吸をわざと静かに整える。
大丈夫を見せる。そうしないと翠の不安が増える。
(……ぜえ、って、また言ったら、すいがわめく)
喉の奥が乾く。
空気が冷たい。冷たいのに乾いてる。矛盾してる。
矛盾が普通になる世界が怖い。
屋上の扉は閉まっていた。
白い鉄扉。取っ手だけが青い。青いというより、青に“させられている”。
取っ手の青は、まるで“逃げるな”って言ってるみたいだった。
翠が首を振る。
「無理だよ。鍵——」
「鍵探してる間に、何か変わったら嫌じゃん」
「それは嫌だけど……壊すのはもっと嫌だよ!」
言いながら翠は扉から一歩離れる。
止めたいのに、止めきれない距離を取る。その動きが、あまりにも翠で、あたしは少しだけ優しくなった。
「一回だけだから」
あたしは言って、息を吸う。
冷たい青を吸い込んで、身体の芯に火を灯す。短い集中。
足裏に力を溜めて、蹴る角度を決める。
「待って、ほんとに——」
「だいじょぶだって。扉ってさ、案外——」
「扉の構造を語り始めるのやめて! 今、語り始めたら止まらないでしょ!」
「止まらないのはすいの心配だよ」
「そうだよ!!」
——蹴る。
金属が鳴るはずなのに、音が薄い。
それでも扉は、紙みたいに歪んだ。
世界の物質が軽い。軽すぎて、怖い。
“現実の硬さ”がない。身体に返ってくる痛みが薄い。薄いのが怖い。
二発目で留め具が外れた。
扉がゆっくり開く。開いた先の光が白すぎて、目を細める。
「……あかりちゃん」
翠が呆れた声を出して、でもすぐに続ける。
「……怪我してない?」
「してない。ほら」
あたしはわざと大げさに両手を広げる。
「無傷!」
「……無傷じゃなくても、顔で誤魔化すでしょ」
「誤魔化さないよ」
誤魔化すけど。
屋上へ出る。
風がない。
あるのは冷たい空気と、静かな青だけ。
空は不気味なくらい澄んでいて、そこに太陽の白が刺さっている。眩しいのに暖かくない。
肌に当たるのは光じゃなくて、透明な針みたいな冷たさだ。
光に刺される、ってこういう感じ。
見下ろす。
世界が、水に沈んでいた。
二階の高さくらいまで、透明な水が満ちている。
建物の低い部分は飲まれて、屋根だけが白く浮いている。
高いビルは白い幹みたいにそびえ立っていた。無機質で、木のようで、墓標みたいだ。
動くものがない。音もない。
なのに水だけがそこにある。動かない水がある。
それがいちばん怖い。
「……嘘でしょ」
翠が呟いて、フェンスを掴む。白い指が震える。
そして、あたしは気づく。
「……簡素になってる」
「え?」
「全部。建物が——“のっぺり”してる」
窓の枠がない。外壁の凹凸がない。
線が省かれて、面だけが残っている。
まるで、世界の作画が崩壊して、背景だけ手抜きになったみたいに。
近くのマンションを目を凝らして見る。
ベランダがない。物干し竿がない。室外機がない。
“生活の細部”だけが削ぎ落とされて、建物が建物の記号に戻っている。
「……ねえ、これ」
翠が声を落とす。
「ほんとに……世界が“省略”されてる」
「うん」
あたしは笑って言う。
「省略されてるくせに、水はちゃんと二階まである。嫌がらせかよ」
「嫌がらせって言い方……」
「嫌がらせだよ。絶対そう。映画の中ってさ、だいたい理不尽じゃん」
「理不尽って言うなら、あかりちゃんが扉を蹴破るのも理不尽だよ……」
「それは合理的」
「どの口が……」
翠が呟いた「……気持ち悪い」が、風のない屋上で落ちていった。
屋上のフェンスの向こう、遠くを探す。
白い塔。
どこにもない。
白い幹の群れ。
白い屋根の群れ。
青い水の膜。
「降りよう」
翠が言う。
「探そう。手がかりを。……屋上から見える範囲じゃ無理」
「うん」
屋上から見える限り、白い塔は見つからない。
見つからないからこそ、世界は広い。
広いからこそ、二人しかいない。
その実感が、背中に冷たく貼りついた。
学校中を回った。
職員室。
机の上は空っぽで、椅子は整然と並び、ホワイトボードは白いまま。
“誰かがいた”気配だけが、皮だけ残っている。
引き出しを開けても、紙の匂いすらしない。
職員室って本来、コーヒーと紙と汗の匂いが混じってるのに。
ここは無臭。無音。無影。
「先生たち、ほんとに——いない」
翠が言って、声が小さくなる。
「……いない、っていうか、最初から置かれてないみたい」
「最初から置かれてない世界、ね」
あたしは軽く言う。
軽く言わないと、声が沈む。沈むと、青に飲まれる。
廊下の窓から外を見る。
透明な水の中で白い魚と青い魚が、ゆっくりと泳いでいる。
鱗の光は白い点になって瞬く。点の動きだけが時間を作っている。
魚はちゃんと魚で、ちゃんと生きてるのに、世界は生きてない。
その矛盾が、息を止めたくなるほど怖い。
生徒会室。
棚の扉を開けても、記録も、資料も、何もない。
ただ棚の一番下に、古いラジオがあった。黒いはずの樹脂が青に染まって、白い埃が薄く積もっている。
「持ってく?」
あたしが持ち上げると、意外に軽い。
世界が軽い。物も、現実も。
「……電池、あるかな」
翠が覗き込む。
目が真面目だ。こういうときの翠は、知識の棚を必死にひっくり返してる顔をする。
引き出しを開ける。
引き出しの中で、パンがひとつ、じっとしていた。
机の中に隠されていたみたいに、ぴったり収まっている。
パンが“隠されてた”という事実が、逆に映画っぽい。
この世界、誰かが“置いた”んだ。
「……パン」
翠が小さく言って、笑いそうになって、笑うのをやめる。
「食べ物は正義」
あたしは明るく言って、パンを手に取る。
「正義は救う。すいも救う」
「パンが先に救われるの、なんか悔しい……」
焼き色がない。白い。
でも手触りは、ちゃんとふわっとしている。そこが余計に気持ち悪い。
“色”だけが抜け落ちている。触覚は現実のままなのに、視覚だけが嘘をつく。
教室を回る。
どの教室も、もぬけの殻。
黒板も白い。チョークの粉の輪郭だけが残っている。
掲示板の紙も白い。文字だけ浮いてる。
窓の外の青に、教室が溶けていく。
「ここさ」
翠が言った。
「“教室”って分かるのに、教室じゃない」
「人がいないから?」
「それもあるけど……人がいない、っていうより」
翠は言葉を探す。
「……人がいた痕跡が、ない」
机の天板に傷がない。
椅子の脚の擦れがない。
落書きがない。
時間がない。
体育館は音が吸われた巨大な空洞だった。
バスケットゴールの赤も青い。ラインの緑も青い。
“赤”と“緑”が、全部、青に塗り潰されている。
赤いはずの世界が青い、緑のはずの世界が青い。
灯里、翠。名前だけが、色の記憶として胸に残る。
そして、最後に。
狭い部室へ辿り着いた。
ドアを開けた瞬間、少しだけ“いつも”の匂いがした。
布と金属と、乾いた土。
二人の寝袋。ランタン。ワンバーナー。非常食の缶詰。
そこだけが現実みたいに、ちゃんと“物”をしている。
「……ここは残ってるんだ」
翠が言う。声が少しだけ落ち着く。
“自分の場所”があると、心もそこに座れる。
「残ってる、っていうか」
あたしは部室の壁を指でなぞった。
白い塗装が紙みたいに薄い。
「ここだけ、世界が“丁寧”」
翠が苦笑いする。
「丁寧な世界、もっと増やしてほしい」
「増やす方法、分かったら教えて」
あたしは軽く言って、窓を見る。
窓の外を見ると、空が少しずつ濃い青になっていた。
夕方というより、深海に沈んでいくみたいに、色が深くなる。
昼の青が“表面”なら、夜の青は“底”。
底に沈む速度が、ゆっくりで、だからこそ怖い。
「今日は屋上で寝よう」
翠が言った。
「ここで寝てもいいけど……水位、上がったら怖い」
「賛成」
あたしは即答した。
怖い、という言葉を翠が口にしてくれるのは助かる。
あたしの中にも同じ怖さがある。
それをあたしは、表に出さないようにしてるだけだ。
「……あかりちゃん」
翠が、缶詰を抱えたまま言う。
「ほんとに、無理しないでね」
「分かってるって」
分かってる。分かってるけど、分かってる顔をしないといけない。
荷物をまとめて、屋上へ戻る。
屋上に上がった頃、空は青黒くなっていた。
夜——と言っていいのか分からない。黒がない。
その代わり、空に白い点が、ぽつぽつ浮かんでいた。星みたいに。
星にしては白すぎて、点にしては静かすぎる。
貼り付けたみたいな星。
寒くない。
水に囲まれているのに、湿気もない。
ただ、静かで、冷たくて、薄い。
薄い世界で、あたしたちの体温だけが濃い。
寝袋を広げる。
ランタンを灯すと、光は白い円になる。影ができないから、円の境界がぼやける。
世界が輪郭を持ちたがらない。
輪郭がないと、心もほどけてしまいそうで、あたしはランタンの光をやけに見つめた。
翠はワンバーナーに火をつけ、缶詰を温め始めた。
火の色も白い。
それでも熱だけはちゃんと熱い。湯気が上がるたびに、“ここだけ現実”が増える。
「水、沸騰させちゃうね」
翠が言う。
「お腹壊すの怖いから」
「ありがとう、すい」
あたしはラジオを膝に置いた。
指でつまみを回す。
電池が入っていた。奇跡みたいに。
「……誰が電池入れたんだろ」
翠がぼそっと言う。
「この世界のスタッフさん?」
「スタッフさん、気が利くじゃん」
あたしは笑って、つまみを回し続ける。
使えるかは分からない。
でも、希望ってこういう形をしている。小さくて、丸くて、手のひらに収まる。
——じじっ。
ノイズが鳴った。
鳴った瞬間、あたしの心臓が跳ねた。
「……っ!」
翠が缶詰を持ったまま固まる。
——じじじ、ぷつ。
ノイズの向こうから、音が、形を持って出てきた。
音楽。
知らない洋楽。ひどい音質。その中でも存在感を放つ、美しい女性の歌声。
でも、その汚れた音が、逆に“世界の手触り”みたいに感じた。
青と白しかない世界に、音だけが色を持ち込んだみたいに。
耳の奥に、温度が生まれる。
「……っ、ついた!」
あたしの声が明るく跳ねる。
胸の奥が熱くなる。顔が——きっと、赤くなってる。赤は存在しないのに。
次の瞬間、翠が飛びついてきた。
「わっ」
背中に、温かい重み。
白いセーラーの布越しに、翠の体温が伝わる。
世界が冷たいから、その温かさが現実に刺さる。
「よかった……!」
翠の声が震えて、笑って、泣きそうになる。
「すい、重いって」
あたしは冗談めかして言って、翠の手を軽く叩く。
叩いた自分の手が、少し震えているのは、見ないふりをした。
「私重くないもん! 重いのは、安心の重さ!」
翠が言い返してきて、あたしは吹き出す。
こういうところ、ほんと——翠だ。
ラジオから流れるのは、二人だけのコンサートみたいだった。
青い世界を、二人占めしている。
その錯覚が、怖さを薄くしてくれる。
翠が缶詰を開ける。湯気が白い。
パンをちぎる。白い。
煮た水をカップに注ぐ。熱い。甘い香りがかすかに上がる。
甘い匂いが夜に混じると、脳が少しだけ安心する。
“生きてる”匂いがする。
「……なんかさ」
あたしが言う。
「最高に変なディナーだね」
「うん」
翠が頷く。
「でも……変においしい」
鯖缶は生暖かい。パンは冷えてる。水は熱すぎる。
なのに世界一のごちそうに感じた。
“明日がある”っていう味がするからだ。
食べ終えて、寝袋に潜り、屋上の床に寝転がる。
影がないから、寝転がると空に溶けるみたいな気分になる。
白い床と、青い空と、白い点。
自分がどこにいるのか分からなくなる。
それが怖いのに、ちょっと綺麗で、余計に怖い。
「ふぅ……おいしかった。ありがとね、すい」
あたしは大の字になって言った。
「温めただけだよ……でも、お粗末様」
翠は小さく笑って、すっと近づいて隣に横になった。
距離が近い。幼馴染の近さ。
昔、熱が出たときみたいな近さ。
その近さが、いまは救いだ。
星みたいな白い点が増えた気がした。
増えたんじゃなく、目が慣れただけかもしれない。
でも“慣れ”って怖い。
こんな世界に慣れたくない。
——そのとき。
あたしの口から、ぽろっと落ちた。
「……帰れるのかな。あたしたち」
言った瞬間、胸がきゅっと締まる。
しまった、って思う。
弱音は言わないようにしていた。翠を安心させるために。
自分を保つために。
翠の返事は、意外なほど落ち着いていた。
「分からないよ。私はあかりちゃんみたいに頭良くないから」
少しだけ間を置いて、翠は空を見る。
「でも……帰れなくても、今この時間、私はすごく楽しい」
「え」
「怖いし、嫌だし、泣きそうだけど」
翠は笑う。
「それでも、あかりちゃんと二人で、世界の端っこみたいなところにいるの、ちょっと……わくわくしてる」
「……それ、ほんと?」
あたしは思わず聞いた。
翠の“分からない”は、本当に分からないんじゃない。
分からないって言いながら、いつも大事なところは見てる。
「ほんと」
翠が即答した。
「だから、あかりちゃんも、ちゃんと怖がっていいよ」
その言葉が、あたしの中の青を、そっと撫でた。
あたしの理屈でも、あたしの強がりでもない、翠の“根っこ”の柔らかさが、あたしを温める。
「……そっか」
あたしは息を吐いて、笑った。
「じゃあ、明日も頑張れるね」
「うん。だから——無理しないでね! あかりちゃん、身体弱いんだから!」
「まあ、努力していく方針で検討を加速させていくよ……」
「はいはい」
翠の「はいはい」に、いつもより強さが混じっていて、あたしはそれが嬉しかった。
会話は少しずつ減っていき、最後には寝息だけが静かに世界に溶けていった。
ラジオは小さく鳴り続けて、音が夜の青に染まっていく。
青い世界に、音だけが“人間の線”を引いてくれていた。
◆
二日目。
早朝。
空の青が、まだ浅い。
夜の底から、ゆっくり浮上するみたいに、色が軽くなる。
それでも白い太陽は冷たいままだ。
眠りから浮かび上がると、屋上の端に、白い光が浮かんで見えた。
星じゃない。
星は点だ。あれは、もっと……意志がある。
呼び水みたいに、目を引く。
「ここへ来い」って言ってる。
「……あれ」
翠が指をさす。
指先が少し震えてる。
怖いのに、指が出る。翠の前進の癖だ。
遠い。
遠すぎる。
でも、あれだけは確実に“何か”だ。
「行こう」
あたしが言うと、翠は一拍だけ遅れて頷いた。
行く方法がない。
水しかない。
水は透明で、静かで、甘い。
甘い水が怖い。甘いものは安心の味なのに、ここでは麻痺の味だ。
しばらく二人で黙って、水面を見た。
水の下に白い魚と青い魚が、ゆっくりと泳いでいる。
まるで“背景の動き”みたいに、淡々と。
彼らは不安を知らないみたいに。
翠が、ぽつりと言った。
「……船、作ろう」
「……は?」
「学校にあるもの使って。簡素でもいい。行くしかないでしょ」
突拍子もないのに、翠の目は真剣だった。
怖さが言葉になりきる前に、行動で押し流そうとしている顔。
そういうところ、翠は強い。
普段はあたしが引っ張ってるけど、“本当に必要なとき”は、翠が引っ張る。
「すい、天才?」
あたしが笑うと、翠は眉をひそめた。
「今、馬鹿にした?」
「褒めた」
「褒め方が雑」
「雑って言うな、雑のくせに」
「私、雑じゃない!」
言い合いながら、でも足は校内へ向かって動いていた。
怖いから動く。動くから怖さが追いつけない。
二人の癖だ。
二人は校内へ戻り、ありったけを集めた。
体育館のマット。長い板。ロープ。工具箱。脚立。
白くなった素材は軽すぎるほど軽い。
その軽さが船作りを助ける。世界が自分で“都合よく”なっている気がして、逆に怖い。
都合が良いのは、だいたい罠だ。
「ねえ、これさ」
翠がマットを持ち上げながら言う。
「軽いの、嬉しいけど……怖い」
「分かる」
あたしは板を肩に担いで答える。
「軽すぎると、壊れやすい。……人も」
翠が一瞬だけ、あたしの顔を見る。
何か言いかけて、言わない。
そういうところも、昔のままだ。
マットを浮力にして、板を骨組みにする。
ロープで締める。結び目がずれないよう、翠が何度も確認する。
あたしは結び目の位置を変え、重心が沈まないように微調整する。
視界が青白すぎて距離感が狂うから、指先の感覚だけが頼りになる。
「そこ、もう一回」
翠が言う。
「結び目、甘い」
「すい、厳しい」
あたしが言いながら結び直す。
「厳しいのは、優しさ」
翠が真顔で言ってきて、あたしは噴きそうになる。
「落ちたら死ぬんだよ?」
「死なないよ。泳げないのすいだけじゃん」
あたしは反射で言って、すぐ後悔した。
死ぬ。普通に死ぬ。水は冷たい。世界は静かすぎる。
「……あかりちゃん」
翠が低い声で呼ぶ。
「はい、すみません」
あたしは即座に頭を下げる。
こういうやりとりも、いつものテンポでやる。
怖さを、テンポで殴る。
汗をかく。
汗の色は分からない。白いのか青いのか、そもそも色があるのか。
でも汗の塩気だけはちゃんと苦い。苦いのは、安心する。嘘じゃない味。
舌の上の苦さは、“現実”の証拠だ。
昼過ぎ。
屋上から水面へ降ろせる簡素な船ができた。
オールの代わりに長い板。
船というより、浮く“床”に近い。
「沈まない……よね」
翠が言う。
声が震えてるくせに、目は決まってる。
「沈まない沈まない。沈んだら——」
あたしは言いかけて、笑いに変える。
「泳ぐ」
「私、泳げないの知ってるでしょ!」
「じゃあ、あたしが引っ張る」
そう言ってから、胸の奥でぜえ、と小さく鳴った。
——水の冷たさは、たぶん、容赦ない。
水の冷たさが、息を奪う冷たさだって、分かってる。
翠があたしの胸元を見て、目を細めた。
「……ほんとに、無理しないで」
「だから、分かってるって」
分かってる。分かってるけど、分かってるだけじゃ足りない。
船を水面へ。
水は静かに受け入れた。波が立たない。
静かすぎて、逆に怖い。
水が“生き物”じゃなく、“画面”みたいに見える。
屋上が遠ざかると、世界は一気に広くなる。
二人の学校が、孤島みたいになる。
白い四角が、青い膜の上に浮かんでいるだけ。
戻る場所が小さくなると、帰り道も小さくなる。
小さくなると、怖い。
こぎ出す。
白いビルの幹が、遠くに並んでいる。
のっぺりした壁。省かれた窓。
世界が“背景”になっていく感覚が、じわじわと怖い。
時間が伸びる。
漕いでも漕いでも、景色が変わらない。
遠景の白い幹が、少しだけ位置を変えるだけ。
世界が動かないせいで、自分の体力だけが削れていくのが分かる。
削れる音だけが、現実だ。
「休む?」
翠が言う。
「あたしが言うまで休まない」
あたしは冗談を言って、冗談のまま板を押し続ける。
板が水を切る音も薄い。
それでも腕は重くなる。背中が張る。息が冷たくなる。
「冗談、やめて」
翠の声がきつい。
「……死んじゃうよ」
「死なないって」
あたしはまた言いそうになって、飲み込む。
代わりに笑う。笑いで誤魔化す。
日が傾いたのかどうか分からない。
太陽の白が、ずっと同じ角度で刺さっている気がする。
でも空の青だけが、少しずつ深くなっている。深くなる青は、時間の代わりだ。
一日目が終わった。
二日目も、終わった。
船の上で食糧は尽きた。
水はある。甘い水。
飲むたび、身体が少しだけ軽くなる気がする。
軽くなるぶん、眠気が増す気もする。
甘さが脳の奥を撫でて、意識の縫い目をほどいていく。
「眠くない?」
翠が言う。
声が掠れている。唇が白い。目の下が青い。
青い世界の中で、翠の顔色が本当に青く見えて、あたしは少し笑えなくなる。
「眠い」
あたしは正直に言った。
「寝たら落ちるよ。たぶん」
翠の声は怖がってるのに妙に冷静だ。
「起きてる」
あたしは笑って、板を握る。
指が白い。
手のひらが冷たい。
心臓が、たまに変なタイミングで跳ねる。呼吸が浅くなる。
(……だめだ。ここで)
——息、吸って。
自分に命令する。
肺を広げる。
胸が痛む。ぜえ、って鳴る。
それでも吸う。吐く。吸う。
ゆっくりと、呼吸を“技”にする。
呼吸が乱れたら、負け。青に負ける。
「……あかりちゃん、いま」
翠が言いかける。
「大丈夫」
あたしは早口で遮る。
「大丈夫だから、オール、代わって。すい、体力あるでしょ」
「体力あるけど、筋力はない!」
翠が泣きそうな声で怒る。
「……でも、分かった。代わる。だから、ちゃんと座って」
「はいはーい」
あたしは従って座る。
従うふりをして、膝を抱える。
膝を抱えると、少しだけ体が小さくなって、呼吸が楽になる。
遠い光は逃げない。
ずっとそこにある。
まるで「来い」と言っているみたいに。
そして三日目。
……時間の感覚は曖昧だったけど、とにかく、果てしないこぎ続けのあと。
光の近くに、小さな岩場が見えた。
水面から、ほんの少しだけ顔を出した白い岩。
そこに——レコードが一枚、引っかかっていた。
「あ……」
あたしの声が落ちる。
塔じゃない。
白い塔なんて、どこにもない。
ただの岩場。レコード。
肩から力が抜けた。
ここまで来たのに。
ここまで来て、これだけ?
「……嘘だ」
あたしは笑ってしまう。笑いが乾く。
「ねえ、すい。これ、スタッフの悪ふざけ?」
翠がレコードをそっと拾い上げた。
傷ひとつない。白と青の模様だけが刻まれている。
溝の一本一本が、やけにくっきりして見える。世界が単純だからだ。
「……探そう」
翠が言う。
「まだ、何かある。……ここ、終点じゃない」
翠が岩場を歩き回る。
非力なはずの翠の足取りは、意外に粘る。体力がある。
あたしは座り込んだまま、空を見上げる。青が深い。
目の奥が痛い。
世界の色が少なすぎて、脳が疲れている。
(……もう、やだ)
そう思った瞬間。
「……あかりちゃん!」
翠の声が跳ねた。
振り向くと、翠が地面に落ちていたものを抱えている。
手動のレコードプレイヤー。
「これ……!」
あたしは立ち上がる。
胸の奥が痛い。でも、痛いなんて言ってる場合じゃない。
痛いのは後回し。いつもの癖。いちばん悪い癖。
レコードをはめる。
翠がハンドルを回す。
——ぎ、ぎ、ぎ。
音が鳴った。
最初はノイズみたいな薄い音。
それが、形を持つ。
歌だ。
知らない言語。
でも声は、胸の骨に触れる。
綺麗すぎて、世界が一瞬立体になる。
白い岩が“岩”になり、水が“水”になる。空気に温度が戻る。
さっきまで薄かった世界に、急に重さが出る。
そして——
レコードが勝手に回り始めた。
翠の手を離れても回る。
音が増幅される。
光がレコードの溝から漏れ、空気を切って形を作り始める。
白い線が螺旋を描く。
青い光がその隙間を埋める。
光が“固まる”音がする気がした。薄い世界に、硬さが生まれる。
空気が、骨を持つ。
——塔。
目の前に真っ白な塔が立ち上がった。
スクリーンで見た、あの塔。
“本物”というより、“映像の正しさ”だけで立っている塔。
あたしと翠は顔を見合わせた。
言葉はいらない。
怖いのも、行くのも、同じ。
「……行く?」
翠が小さく聞く。
「行く」
あたしは即答する。
即答してから、翠の手を見る。震えてる。
その手を、あたしは握った。
握ると、体温が伝わって、世界が少しだけ現実になる。
「……離さないでね」
翠が言った。
「離すわけないじゃん」
あたしは言って、笑った。
笑って、また胸が少し鳴った。
(……だいじょぶ)
塔の中へ。
階段は白い。手すりも白い。
足音が薄い。
でも、歌ははっきり聞こえる。上へ上へ、導くみたいに。
導かれてるってことは、誰かの意志の上ってことだ。
それが怖い。
途中でふと、振り返りたくなる。
振り返ると、下の景色はもう“背景”に戻り始めている。
塔の外の世界が、またのっぺりしていく。
まるで「ここだけが本編」と言われているみたいだ。
——ここから外れたら、存在ごと省略される。そんな気がした。
頂上。
そこに、少女の後ろ姿があった。
青い髪をツインテールにした少女。
白い塔の上で、遠くを見ている。
スクリーンのまま。
でも、いまは確かに“いる”。
いるだけで、空気が変わる。世界が息をする。
少女が振り向いた。
顔は綺麗だった。綺麗すぎて、少し怖い。
肌も白く、瞳の中に青い光が走っている。
息をしているのに、息の温度がない。
「ごめんね」
声がした。
柔らかいのに、どこか機械みたいな響き。
言葉の抑揚が丁寧すぎる。人が作った“優しさ”のように聞こえる。
優しさが“プログラム”みたいに整っている。
「こんなところに呼び出しちゃって。怖い思いをさせるつもりはなかったの」
少女は笑う。
「でも、私にはもう……ほとんど力が残ってなくて。ここまで来てくれて、本当に良かった」
翠が一歩前に出る。
怖いはずなのに、こういうときの翠は妙に礼儀正しい。
怖いから礼儀正しくなる。自分を守るために形を整える。
「……初めまして、私は翠。あなたは、誰?」
翠の声が震えない。震えないように、丁寧に言ってる。
少女は瞬きをする。
その瞬きが、映像みたいに綺麗で、逆に現実味がない。
「昔、歌姫って呼ばれてた」
少女は言う。
「……歌うために作られた機械。みんなが私の声を聞いて、押して、笑ってくれて。そういう“数”で、私はここまで来れた」
言葉が少ないのに、胸に刺さる。
あたしは、屋上の夜のラジオを思い出した。
汚い音質の向こうでも、確かに胸を叩いた音。
“誰かと繋がる音”。
少女の声は——繋がるというより、吸い込む。
綺麗すぎて、世界の方が溶ける。
溶けていくのに、気持ちいい。
気持ちいいから、怖い。
「……あなたが、この世界を?」
あたしが言う。
少女は首を振る。
「作ったというより……残った、って感じ。色が消えて、みんなが忘れて、私は消えて。それでも少しだけ残った“上映”の中で、私は——ここに引っかかった」
“忘れられる”という言葉が、青い空気を少しだけ重くする。
忘れられるって、死ぬより静かだ。
静かだから、誰も泣かない。泣かないから、終わる。
翠が唇を噛む。
「あの映画館は……あなたの」
「うん」
少女は頷く。
「フィルムの中だけが、私の居場所だった」
その言い方が妙に寂しくて。
あたしは笑うことを忘れそうになった。
笑いが落ちたら、翠が落ちる。翠が落ちたら、あたしも落ちる。
少女は視線を落とす。
「私ね」
静かに言った。
「終わりにしたいの」
空気が少し重くなる。
青が深くなる。
深海の底の青。
息がしにくい青。
「フィルムを切れば、私は消える。完全に。……役目はもう終わったから。だから——私を、消してほしい」
翠が息を呑んだ。
あたしは——一瞬、言葉が出なかった。
消す。
終わらせる。
簡単に言えるほど軽い言葉じゃない。
でも、少女の顔はどこかほっとしていた。長い間、同じ塔の上で立ち続けた子が、やっと座れるみたいな顔。
「……分かった」
あたしは言った。
口が先に動いた。
真面目な自分が勝手に答えを出した。
“正しいこと”の方へ、反射で走る。
走ると、息が鳴る。鳴るのに、走る。
その瞬間、翠が一歩前に出た。
「でも」
翠の声が少し震える。
「最後に。……お願い、してもいい?」
少女が首を傾げる。
翠は少しだけ恥ずかしそうに目を伏せて、でも言い切った。
「……歌を。最後にあなたの歌を聞きたい」
少女は驚いたみたいに目を丸くして。
それから、笑った。
「いいよ」
その笑顔が、あまりにも人間みたいで。
あたしは胸の奥がきゅっとなる。
人間みたいな笑顔が、いちばん残酷だ。
“人間じゃない”って分かってしまうから。
少女は目を閉じた。
歌が始まる。
声が青い空気を震わせる。
塔の下のレコードプレイヤーが勝手に回り、伴奏を作る。
音は世界に広がり、白いビルの幹を震わせ、水面を細かく揺らす。
波ができる。波が“ある”という事実が、胸に刺さる。
動く。世界が動く。音が世界を動かす。
——音って、こんなに強いんだ。
その瞬間、あたしは気づいた。
——屋上の夜。
ラジオから流れた歌声。
あれも、これだ。
汚い音質の向こうで、それでも確かに胸を叩いた声。
この歌姫の声だった。
翠も気づいたらしい。
目を見開いて口元を押さえる。
涙が溢れそうなのに、こぼさない。こぼすと歌が汚れるみたいに。
歌は美しい。
美しすぎて、怖い。
美しすぎて、眠くなる。
青がやさしい布みたいに落ちてくる。
瞼が重い。
意識が音に溶けていく。
甘い水を飲んだときの眠気が、ここで完成するみたいに、ふわっと広がる。
少女は歌いながら笑っていた。
笑顔のまま、涙を流していた。
その涙の色は分からない。
白いのか、青いのか、あるいは——色そのものがないのか。
でも、涙が熱いことだけは分かった。
熱いものがこの世界にもある。
熱いものが、ちゃんと、ここにある。
それが最後に見えた。
目を開けると、埃の匂いがした。
廃れた映画館。
客席。
スクリーンは白い。
隣で翠が息をしている。髪は黒に戻っている。
あたしの髪も栗色に戻っていて、腰に重い。
その重さが、泣きそうなくらい安心だ。
“重い”って、いい。現実は重い。
二人は無言で顔を見合わせた。
頷く。
言葉が出ないのに、頷きだけで全部伝わる。
怖かった。綺麗だった。悲しかった。
そして——まだ終わってない。
映写室へ向かう。
鍵は閉まっている。
翠が「器物破損だよ」と言う。声が弱い。止める気力がない声。
「知ってる」
あたしは言って、扉に手を掛ける。
「……止めないの?」
翠が聞く。
「止めてほしいの?」
あたしは聞き返す。
翠は一拍、黙ってから、首を振った。
「……止めたい。けど」
声が小さい。
「止めたら……あの子が、ずっと、ここに引っかかったままになる」
「だよね」
あたしは扉をこじ開けた。
金属が鳴るはずなのに、現実の音はちゃんと鳴った。
ギギ、と、汚い音。
汚い音が、ありがたい。
中には古い機械と、フィルムと、レコード。
あのレコード。
白と青の模様のレコードが、ここにある。
「……壊す?」
翠が小さく聞く。
あたしはレコードを手に取った。
ひんやりしている。
でも冷たさの中に、屋上の夜の温かさが残っている気がした。
あの汚い音質の音楽。
背中に飛びついてきた翠の熱。
それが全部、まだここにある。
壊せば、あの子は終わる。
終わらせるのが優しさかもしれない。
——でも。
「……持って帰ろ」
あたしは言った。
翠が目を見開く。
「え」
「気に入っちゃった」
あたしは笑う。
笑顔のまま、胸の奥が少し痛い。
「すい、楽しいって言ったじゃん。……あたしも、楽しかった」
翠の目が潤む。
泣きそうで、でも笑いそうで、ぐちゃぐちゃになる顔。
「……あかりちゃん」
翠は息を吸って、言う。
「……悪い子」
「うん。悪い子」
あたしは頷く。
「でも、悪い子の方が、誰かを忘れない」
翠が息を止めて、それから、ふっと笑った。
「……それ、ずるい」
悪い子は、レコードを抱えて帰る。
家に持ち帰ってから、二人は試行錯誤を続けた。
再生機器。取り込み。ノイズ除去。
波形はあまりにも綺麗で、逆におかしかった。
音が“残っている”というより、音が“生きている”。
録音じゃなく、存在。
「これ、ほんとにレコード?」
翠がパソコン画面を覗き込む。
「データが……変。綺麗すぎる」
「すい、オタクみたい」
あたしが言う。
「みたいじゃない! オタクだよ! ゲームも本もアニメも大好きだし!」
翠が即答して、あたしは笑う。
笑えるうちは大丈夫。
そう思って、何度も笑う。
夜、パソコンの画面がふっと青くなる。
青が、あの世界の青と同じ深さで、部屋の壁を染める。
電気を消してないのに、青が勝手に暗くなる。
青が部屋に“来る”。
「あかりちゃん」
翠が小さい声で呼ぶ。
いつもの“注意”じゃない。
“本気の怖さ”の声。
画面の中に、小さな白い塔が映った。
塔の上に、青いツインテールの少女。
「……え?」
少女が目を瞬いた。
驚いた顔をして、こちらを見た。
声が出ないように口が動いて、それからようやく音になる。
「あ……れ?」
翠が椅子からずり落ちそうになる。
「あかりちゃん……! いる! いるよ……!」
あたしは口の端を上げた。
いたずらな笑み。
胸の奥の罪悪感を、わざと笑いで押し潰す。
押し潰さないと、泣く。泣いたら、翠が壊れる。
画面の中の少女が震える声で言った。
「……どうして。私、終わったはずじゃ——」
あたしは画面に顔を近づけて、にっこりする。
屈託のない、いちばん悪いやつの笑顔で。
「終わってないよ」
あたしは言った。
「だってさ。あんたの歌、気に入っちゃったんだよね」
少女の瞳が揺れる。
揺れ方が、人間みたいで。
また胸が痛む。
優しさを裏切ってる痛みじゃなく、“忘れない”痛み。
翠が半泣きで笑いながら、画面に手を伸ばす。
触れないのに、指が宙で止まる。
その指先が少し震えている。
「あかりちゃん……ほんとに……」
翠の声が、責めてるのか、嬉しいのか、分からない。
分からないまま、泣いてる。
「だから」
あたしは続ける。
「逃がさない。……あんたの歌で、一儲けさせてもらうから」
言い切った瞬間。
画面の中の少女は、呆れたように、でもどこかほっとしたように息を吐いた。
「……ひどい」
「ひどいよ」
翠が涙声で言って、笑ってしまう。
「でも……よかった」
あたしは笑った。
翠も笑った。
画面の中の歌姫も、少しだけ笑った。
青い光が、部屋の壁を薄く染める。
それは怖い青じゃなくて、屋上で聞いた音楽みたいな青だった。
二人だけのコンサートの青。
“明日がある”青。
——こうして、あたしたちは一つ、世界から消えたはずの声を、自分たちの部屋に縛り付けた。
青に染まった世界で、藍を叫ぶ。
その物語は、たぶん、ここから始まる。




