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青に染まった世界で、藍を叫ぶ。

作者: まぴ56
掲載日:2026/02/12

 あたしは目が覚めたら、青と白しかない世界にいた。


 白い机。白い壁。白い天井。白い蛍光灯。

 白は眩しくない。目が痛いんじゃなくて、**“手触りのなさ”**が怖い。

 教室って、本当はもっと——匂いがするはずだ。チョークの粉、ワックス、濡れた雑巾。誰かの柔軟剤。プリントのインク。

 なのにここは、吸い込んでも吸い込んでも、何も入ってこない。空気が薄いわけじゃない。世界が薄い。


 触れたら崩れそうな紙の世界に、たった一色だけが残っている。


 青。


 澄んだ青じゃない。

 プールの青でも、夏空の青でもない。

 もっと深い。底が見えない。沈んだら戻ってこれない、深海の青だ。息を吸うたび、肺の奥が冷たくなる。音まで青くなる。


 ——その青の中で、あたしの髪が、白かった。


「……は?」


 指先に絡んだそれは、いつもの明るい栗色じゃない。

 腰まで伸ばしていたはずの髪は、同じ長さのまま、色だけを抜かれて、雪みたいに淡い。

 指を通すと、さらさらとほどける。軽い。軽すぎる。現実感が薄い。

 白い髪って、こんなに——こわい。


 机の上に落ちた毛先は、影を作らない。

 影がないって、こういうことか。物がそこにあるのに、そこにある証拠が一つ欠けてる。

 世界が、二次元に近い。


「……あかりちゃん」


 右隣。

 振り向くと、翠が机に突っ伏した姿勢のまま、こちらを見ていた。目だけ動いてる。

 白いセーラー服。そこに落ちる髪が——青い。黒のはずのボブが、世界の残り色に染め直されたみたいに。


「……すい。いる?」


「いるよ。……いるけど、ここ、変」


 翠の声は低くて落ち着いてる。なのに語尾が、少しだけ震えている。

 その震えが、教室の静けさに溶けず、青い空気の中で浮いていた。


「ねえ、あかりちゃん。……それ、髪」


「見れば分かるでしょ」


「いや、分かるけど……分かるのが怖いんだよ」


 翠の言い方が、ちょっとだけ怒ってるみたいで、あたしは鼻で笑いそうになる。

 こういうときまで、あたしにツッコミを入れるんだ。翠は。


 あたしは喉を鳴らして、息を一度整えた。

 空気が冷たい。胸の奥が、ほんの少しだけぜえ、と鳴った。

 ——この世界の冷え方は、身体の内側に直接触ってくる。


(やば。……今、音、聞こえた?)


 自分の呼吸音って、普段はこんなに意識しないのに。

 青が静かすぎて、呼吸の失敗が目立つ。


「大丈夫?」


 翠が机越しに身を乗り出して、あたしの顔を覗き込む。

 心配の速さが、昔のままだ。ほんと、昔のまんま。

 過去のあたしがそこに立ってるみたいな目をする。


「だいじょぶ。……たぶん」


「“たぶん”って言う顔じゃないよ」


 言い返そうとして、笑いの息が漏れた。

 笑うと、胸の奥の青が少し薄くなる気がした。気のせいでもいい。

 笑ってないと、翠が今にも泣きそうになるのが分かるから。


 教室の窓の外が、青に満ちている。

 運動場も、校舎の向こうも、空も、全部が水槽みたいに揺れて見える。

 遠景が、輪郭を持ちたがらない。世界が“描かれる”のをサボっているみたいに。


「……ねえ」

 翠が小さく言った。

「これ、夢……じゃないよね」


「夢だったら、すいがこんなにちゃんと怖がってない」


「それ、どういう意味」


「夢の中のすいって、もっと雑だから」


「雑って何!? 私、いまも雑じゃないし!」


「いまは丁寧に怖がってる」


「丁寧に怖がるって何!?」


 ——こういう会話ができるうちは、まだ大丈夫。

 そう思う。そう思って、思い込む。


 翠が、ふっと声を落とす。


「……映画館」


 その単語だけで、記憶が引っ張り上げられる。


 ◆


 朽ちた映画館。

 廃墟探索同好会。部員二人。

 “やるの? これ”って毎回言う翠と、“やるよ”って毎回言うあたし。

 ——毎回、最初に足を踏み出すのはあたしで、最後に背中を押すのは翠だった。


 入口のチェーンは切れていた。切れたところが、妙に綺麗だった。誰かが最近触ったみたいに。

 そこが一番気持ち悪かった。廃墟は“放置されてる”から廃墟なのに。

「最近」の匂いが混じると、急に生き物になる。


 館内は埃の匂いで、息を吸うたび喉がざらついた。

 床を踏むと、古いカーペットがふわりと沈み、音が薄く逃げた。

 音が逃げる場所って、心まで落ち着かない。


「帰ろう」

 翠がすぐ言った。

「ここ、絶対……」


「絶対、何?」

 あたしは懐中電灯を揺らして、暗闇の奥を覗く。

「絶対、面白いやつ?」


「絶対、面白くないやつ」

 翠の声が硬い。

「あかりちゃん、そういうの、分かってて進むでしょ」


「分かってるから進むんだよ」

 あたしは笑って言った。

 笑いの中に、ほんの少しだけ緊張が混じってるのも分かってる。


 誰もいないはずなのに、上映が始まっていた。


 映写機のカタカタが、天井の奥で生き物みたいに動いていて。

 スクリーンの白が、暗闇の中で浮かび上がっていた。

 “光がある”というだけで、館内が嘘みたいになる。

 廃墟なのに、現役みたいになる。


「……やばいって」

 翠が袖を掴んだ。

「ほんとに、だめ。警察案件。ていうか、心霊案件」


「心霊って言った? 今、心霊って言ったよね?」


「言ったよ! 言うよ!」

 翠は半ギレみたいに言った。

 その声が震えてるのが、余計に刺さる。


 スクリーンに映ったのは、青と白だけの作品。


 真っ白な塔。

 空も白い。地面も白い。塔だけが白を重ねて白い。

 白って、重ねるほど“無”になるんだなって思った。

 その頂上に、青いツインテールの少女が立っていた。


 振り向かない。瞬きもしない。

 ただ遠くを見ている。遠く——たぶん、こっちじゃないどこかを。


(……きれい)


 そう思った瞬間。

 “美しい”って言葉の中に、冷たい針が混じってるのが分かった。

 綺麗すぎるものって、怖い。

 人間の手触りがないから。


 世界がふっと遠のいた。

 眠気が落ちてきた。布みたいに、重く。

 翠の「帰ろう」が遅れて聞こえた。あたしの「一分だけ」が喉の奥でほどけた。

 懐中電灯の光が、床に白い円を作って、それが滲んでいく。


 青が満ちた。


 ◆


「……入ったんだ」


 あたしはいまの青を見て言った。

「映画の中に」


 翠は一度だけ目を伏せて、窓の外を見る。

「……そういう話、あるよ。昔観た。入った人が戻れなくて、ずっとその世界に——」


「やめて」


「……うん。ごめん」


 謝るのが早い。

 翠は“怖い”を先に言葉にして、それで自分の足場を作る。

 足場ができると、今度は不思議なくらい前に進める。

 怖いのに、前に出る。怖いから、前に出る。そういう子だ。


「とりあえず、外」


 あたしは立った。椅子の脚が床を擦っても音がしない。

「ここが学校っぽいなら、屋上。高いところ。セオリー」


「待って、あかりちゃん——!」


 翠の静止が背中に届く前に、あたしは廊下へ出た。


 廊下も白い。掲示物の色が全部抜けて、文字の形だけが貼り付いている。

 “文化祭のお知らせ”とか、“進路指導室”とか、そういう生活の字面だけが残ってるのに、生活がない。

 床のワックスの光沢すら、白い膜みたいに平らだ。


 そして——影がない。


 窓枠の影も、手すりの影も、人の影も。

 自分の足元に“自分”が落ちてこない。

 影って、こんなに安心をくれてたんだなって思う。世界が立体だと教えてくれるものだった。


「ねえ、あかりちゃん」

 背後から翠の足音。薄い。

「走らないで。息……」


「走ってないって」

 あたしは笑って、呼吸をわざと静かに整える。

 大丈夫を見せる。そうしないと翠の不安が増える。


(……ぜえ、って、また言ったら、すいがわめく)


 喉の奥が乾く。

 空気が冷たい。冷たいのに乾いてる。矛盾してる。

 矛盾が普通になる世界が怖い。


 屋上の扉は閉まっていた。

 白い鉄扉。取っ手だけが青い。青いというより、青に“させられている”。

 取っ手の青は、まるで“逃げるな”って言ってるみたいだった。


 翠が首を振る。

「無理だよ。鍵——」


「鍵探してる間に、何か変わったら嫌じゃん」


「それは嫌だけど……壊すのはもっと嫌だよ!」


 言いながら翠は扉から一歩離れる。

 止めたいのに、止めきれない距離を取る。その動きが、あまりにも翠で、あたしは少しだけ優しくなった。


「一回だけだから」

 あたしは言って、息を吸う。

 冷たい青を吸い込んで、身体の芯に火を灯す。短い集中。

 足裏に力を溜めて、蹴る角度を決める。


「待って、ほんとに——」


「だいじょぶだって。扉ってさ、案外——」


「扉の構造を語り始めるのやめて! 今、語り始めたら止まらないでしょ!」


「止まらないのはすいの心配だよ」


「そうだよ!!」


 ——蹴る。


 金属が鳴るはずなのに、音が薄い。

 それでも扉は、紙みたいに歪んだ。

 世界の物質が軽い。軽すぎて、怖い。

 “現実の硬さ”がない。身体に返ってくる痛みが薄い。薄いのが怖い。


 二発目で留め具が外れた。

 扉がゆっくり開く。開いた先の光が白すぎて、目を細める。


「……あかりちゃん」

 翠が呆れた声を出して、でもすぐに続ける。

「……怪我してない?」


「してない。ほら」

 あたしはわざと大げさに両手を広げる。

「無傷!」


「……無傷じゃなくても、顔で誤魔化すでしょ」


「誤魔化さないよ」

 誤魔化すけど。


 屋上へ出る。


 風がない。

 あるのは冷たい空気と、静かな青だけ。

 空は不気味なくらい澄んでいて、そこに太陽の白が刺さっている。眩しいのに暖かくない。

 肌に当たるのは光じゃなくて、透明な針みたいな冷たさだ。

 光に刺される、ってこういう感じ。


 見下ろす。


 世界が、水に沈んでいた。


 二階の高さくらいまで、透明な水が満ちている。

 建物の低い部分は飲まれて、屋根だけが白く浮いている。

 高いビルは白い幹みたいにそびえ立っていた。無機質で、木のようで、墓標みたいだ。

 動くものがない。音もない。

 なのに水だけがそこにある。動かない水がある。

 それがいちばん怖い。


「……嘘でしょ」

 翠が呟いて、フェンスを掴む。白い指が震える。


 そして、あたしは気づく。


「……簡素になってる」


「え?」


「全部。建物が——“のっぺり”してる」


 窓の枠がない。外壁の凹凸がない。

 線が省かれて、面だけが残っている。

 まるで、世界の作画が崩壊して、背景だけ手抜きになったみたいに。


 近くのマンションを目を凝らして見る。

 ベランダがない。物干し竿がない。室外機がない。

 “生活の細部”だけが削ぎ落とされて、建物が建物の記号に戻っている。


「……ねえ、これ」

 翠が声を落とす。

「ほんとに……世界が“省略”されてる」


「うん」

 あたしは笑って言う。

「省略されてるくせに、水はちゃんと二階まである。嫌がらせかよ」


「嫌がらせって言い方……」


「嫌がらせだよ。絶対そう。映画の中ってさ、だいたい理不尽じゃん」


「理不尽って言うなら、あかりちゃんが扉を蹴破るのも理不尽だよ……」


「それは合理的」


「どの口が……」


 翠が呟いた「……気持ち悪い」が、風のない屋上で落ちていった。


 屋上のフェンスの向こう、遠くを探す。

 白い塔。

 どこにもない。


 白い幹の群れ。

 白い屋根の群れ。

 青い水の膜。


「降りよう」

 翠が言う。

「探そう。手がかりを。……屋上から見える範囲じゃ無理」


「うん」


 屋上から見える限り、白い塔は見つからない。

 見つからないからこそ、世界は広い。

 広いからこそ、二人しかいない。

 その実感が、背中に冷たく貼りついた。


 学校中を回った。


 職員室。

 机の上は空っぽで、椅子は整然と並び、ホワイトボードは白いまま。

 “誰かがいた”気配だけが、皮だけ残っている。

 引き出しを開けても、紙の匂いすらしない。

 職員室って本来、コーヒーと紙と汗の匂いが混じってるのに。

 ここは無臭。無音。無影。


「先生たち、ほんとに——いない」

 翠が言って、声が小さくなる。

「……いない、っていうか、最初から置かれてないみたい」


「最初から置かれてない世界、ね」

 あたしは軽く言う。

 軽く言わないと、声が沈む。沈むと、青に飲まれる。


 廊下の窓から外を見る。

 透明な水の中で白い魚と青い魚が、ゆっくりと泳いでいる。

 鱗の光は白い点になって瞬く。点の動きだけが時間を作っている。

 魚はちゃんと魚で、ちゃんと生きてるのに、世界は生きてない。

 その矛盾が、息を止めたくなるほど怖い。


 生徒会室。

 棚の扉を開けても、記録も、資料も、何もない。

 ただ棚の一番下に、古いラジオがあった。黒いはずの樹脂が青に染まって、白い埃が薄く積もっている。


「持ってく?」

 あたしが持ち上げると、意外に軽い。

 世界が軽い。物も、現実も。


「……電池、あるかな」

 翠が覗き込む。

 目が真面目だ。こういうときの翠は、知識の棚を必死にひっくり返してる顔をする。


 引き出しを開ける。

 引き出しの中で、パンがひとつ、じっとしていた。

 机の中に隠されていたみたいに、ぴったり収まっている。

 パンが“隠されてた”という事実が、逆に映画っぽい。

 この世界、誰かが“置いた”んだ。


「……パン」

 翠が小さく言って、笑いそうになって、笑うのをやめる。


「食べ物は正義」

 あたしは明るく言って、パンを手に取る。

「正義は救う。すいも救う」


「パンが先に救われるの、なんか悔しい……」


 焼き色がない。白い。

 でも手触りは、ちゃんとふわっとしている。そこが余計に気持ち悪い。

 “色”だけが抜け落ちている。触覚は現実のままなのに、視覚だけが嘘をつく。


 教室を回る。

 どの教室も、もぬけの殻。

 黒板も白い。チョークの粉の輪郭だけが残っている。

 掲示板の紙も白い。文字だけ浮いてる。

 窓の外の青に、教室が溶けていく。


「ここさ」

 翠が言った。

「“教室”って分かるのに、教室じゃない」


「人がいないから?」


「それもあるけど……人がいない、っていうより」

 翠は言葉を探す。

「……人がいた痕跡が、ない」


 机の天板に傷がない。

 椅子の脚の擦れがない。

 落書きがない。

 時間がない。


 体育館は音が吸われた巨大な空洞だった。

 バスケットゴールの赤も青い。ラインの緑も青い。

 “赤”と“緑”が、全部、青に塗り潰されている。

 赤いはずの世界が青い、緑のはずの世界が青い。

 灯里、翠。名前だけが、色の記憶として胸に残る。


 そして、最後に。

 狭い部室へ辿り着いた。


 ドアを開けた瞬間、少しだけ“いつも”の匂いがした。

 布と金属と、乾いた土。

 二人の寝袋。ランタン。ワンバーナー。非常食の缶詰。

 そこだけが現実みたいに、ちゃんと“物”をしている。


「……ここは残ってるんだ」

 翠が言う。声が少しだけ落ち着く。

 “自分の場所”があると、心もそこに座れる。


「残ってる、っていうか」

 あたしは部室の壁を指でなぞった。

 白い塗装が紙みたいに薄い。

「ここだけ、世界が“丁寧”」


 翠が苦笑いする。

「丁寧な世界、もっと増やしてほしい」


「増やす方法、分かったら教えて」

 あたしは軽く言って、窓を見る。


 窓の外を見ると、空が少しずつ濃い青になっていた。

 夕方というより、深海に沈んでいくみたいに、色が深くなる。

 昼の青が“表面”なら、夜の青は“底”。

 底に沈む速度が、ゆっくりで、だからこそ怖い。


「今日は屋上で寝よう」

 翠が言った。

「ここで寝てもいいけど……水位、上がったら怖い」


「賛成」

 あたしは即答した。


 怖い、という言葉を翠が口にしてくれるのは助かる。

 あたしの中にも同じ怖さがある。

 それをあたしは、表に出さないようにしてるだけだ。


「……あかりちゃん」

 翠が、缶詰を抱えたまま言う。

「ほんとに、無理しないでね」


「分かってるって」

 分かってる。分かってるけど、分かってる顔をしないといけない。


 荷物をまとめて、屋上へ戻る。


 屋上に上がった頃、空は青黒くなっていた。

 夜——と言っていいのか分からない。黒がない。

 その代わり、空に白い点が、ぽつぽつ浮かんでいた。星みたいに。

 星にしては白すぎて、点にしては静かすぎる。

 貼り付けたみたいな星。


 寒くない。

 水に囲まれているのに、湿気もない。

 ただ、静かで、冷たくて、薄い。

 薄い世界で、あたしたちの体温だけが濃い。


 寝袋を広げる。

 ランタンを灯すと、光は白い円になる。影ができないから、円の境界がぼやける。

 世界が輪郭を持ちたがらない。

 輪郭がないと、心もほどけてしまいそうで、あたしはランタンの光をやけに見つめた。


 翠はワンバーナーに火をつけ、缶詰を温め始めた。

 火の色も白い。

 それでも熱だけはちゃんと熱い。湯気が上がるたびに、“ここだけ現実”が増える。


「水、沸騰させちゃうね」

 翠が言う。

「お腹壊すの怖いから」


「ありがとう、すい」

 あたしはラジオを膝に置いた。

 指でつまみを回す。

 電池が入っていた。奇跡みたいに。


「……誰が電池入れたんだろ」

 翠がぼそっと言う。

「この世界のスタッフさん?」


「スタッフさん、気が利くじゃん」

 あたしは笑って、つまみを回し続ける。

 使えるかは分からない。

 でも、希望ってこういう形をしている。小さくて、丸くて、手のひらに収まる。


 ——じじっ。


 ノイズが鳴った。

 鳴った瞬間、あたしの心臓が跳ねた。


「……っ!」

 翠が缶詰を持ったまま固まる。


 ——じじじ、ぷつ。


 ノイズの向こうから、音が、形を持って出てきた。


 音楽。


 知らない洋楽。ひどい音質。その中でも存在感を放つ、美しい女性の歌声。

 でも、その汚れた音が、逆に“世界の手触り”みたいに感じた。

 青と白しかない世界に、音だけが色を持ち込んだみたいに。

 耳の奥に、温度が生まれる。


「……っ、ついた!」

 あたしの声が明るく跳ねる。

 胸の奥が熱くなる。顔が——きっと、赤くなってる。赤は存在しないのに。


 次の瞬間、翠が飛びついてきた。


「わっ」


 背中に、温かい重み。

 白いセーラーの布越しに、翠の体温が伝わる。

 世界が冷たいから、その温かさが現実に刺さる。


「よかった……!」

 翠の声が震えて、笑って、泣きそうになる。


「すい、重いって」

 あたしは冗談めかして言って、翠の手を軽く叩く。

 叩いた自分の手が、少し震えているのは、見ないふりをした。


「私重くないもん! 重いのは、安心の重さ!」

 翠が言い返してきて、あたしは吹き出す。

 こういうところ、ほんと——翠だ。


 ラジオから流れるのは、二人だけのコンサートみたいだった。

 青い世界を、二人占めしている。

 その錯覚が、怖さを薄くしてくれる。


 翠が缶詰を開ける。湯気が白い。

 パンをちぎる。白い。

 煮た水をカップに注ぐ。熱い。甘い香りがかすかに上がる。

 甘い匂いが夜に混じると、脳が少しだけ安心する。

 “生きてる”匂いがする。


「……なんかさ」

 あたしが言う。

「最高に変なディナーだね」


「うん」

 翠が頷く。

「でも……変においしい」


 鯖缶は生暖かい。パンは冷えてる。水は熱すぎる。

 なのに世界一のごちそうに感じた。

 “明日がある”っていう味がするからだ。


 食べ終えて、寝袋に潜り、屋上の床に寝転がる。

 影がないから、寝転がると空に溶けるみたいな気分になる。

 白い床と、青い空と、白い点。

 自分がどこにいるのか分からなくなる。

 それが怖いのに、ちょっと綺麗で、余計に怖い。


「ふぅ……おいしかった。ありがとね、すい」

 あたしは大の字になって言った。


「温めただけだよ……でも、お粗末様」

 翠は小さく笑って、すっと近づいて隣に横になった。

 距離が近い。幼馴染の近さ。

 昔、熱が出たときみたいな近さ。

 その近さが、いまは救いだ。


 星みたいな白い点が増えた気がした。

 増えたんじゃなく、目が慣れただけかもしれない。

 でも“慣れ”って怖い。

 こんな世界に慣れたくない。


 ——そのとき。

 あたしの口から、ぽろっと落ちた。


「……帰れるのかな。あたしたち」


 言った瞬間、胸がきゅっと締まる。

 しまった、って思う。

 弱音は言わないようにしていた。翠を安心させるために。

 自分を保つために。


 翠の返事は、意外なほど落ち着いていた。


「分からないよ。私はあかりちゃんみたいに頭良くないから」

 少しだけ間を置いて、翠は空を見る。

「でも……帰れなくても、今この時間、私はすごく楽しい」


「え」


「怖いし、嫌だし、泣きそうだけど」

 翠は笑う。

「それでも、あかりちゃんと二人で、世界の端っこみたいなところにいるの、ちょっと……わくわくしてる」


「……それ、ほんと?」

 あたしは思わず聞いた。

 翠の“分からない”は、本当に分からないんじゃない。

 分からないって言いながら、いつも大事なところは見てる。


「ほんと」

 翠が即答した。

「だから、あかりちゃんも、ちゃんと怖がっていいよ」


 その言葉が、あたしの中の青を、そっと撫でた。

 あたしの理屈でも、あたしの強がりでもない、翠の“根っこ”の柔らかさが、あたしを温める。


「……そっか」

 あたしは息を吐いて、笑った。

「じゃあ、明日も頑張れるね」


「うん。だから——無理しないでね! あかりちゃん、身体弱いんだから!」


「まあ、努力していく方針で検討を加速させていくよ……」


「はいはい」


 翠の「はいはい」に、いつもより強さが混じっていて、あたしはそれが嬉しかった。

 会話は少しずつ減っていき、最後には寝息だけが静かに世界に溶けていった。

 ラジオは小さく鳴り続けて、音が夜の青に染まっていく。

 青い世界に、音だけが“人間の線”を引いてくれていた。


    ◆


 二日目。


 早朝。

 空の青が、まだ浅い。

 夜の底から、ゆっくり浮上するみたいに、色が軽くなる。

 それでも白い太陽は冷たいままだ。


 眠りから浮かび上がると、屋上の端に、白い光が浮かんで見えた。


 星じゃない。

 星は点だ。あれは、もっと……意志がある。

 呼び水みたいに、目を引く。

「ここへ来い」って言ってる。


「……あれ」

 翠が指をさす。

 指先が少し震えてる。

 怖いのに、指が出る。翠の前進の癖だ。


 遠い。

 遠すぎる。

 でも、あれだけは確実に“何か”だ。


「行こう」

 あたしが言うと、翠は一拍だけ遅れて頷いた。


 行く方法がない。

 水しかない。

 水は透明で、静かで、甘い。

 甘い水が怖い。甘いものは安心の味なのに、ここでは麻痺の味だ。


 しばらく二人で黙って、水面を見た。

 水の下に白い魚と青い魚が、ゆっくりと泳いでいる。

 まるで“背景の動き”みたいに、淡々と。

 彼らは不安を知らないみたいに。


 翠が、ぽつりと言った。


「……船、作ろう」


「……は?」


「学校にあるもの使って。簡素でもいい。行くしかないでしょ」


 突拍子もないのに、翠の目は真剣だった。

 怖さが言葉になりきる前に、行動で押し流そうとしている顔。

 そういうところ、翠は強い。

 普段はあたしが引っ張ってるけど、“本当に必要なとき”は、翠が引っ張る。


「すい、天才?」

 あたしが笑うと、翠は眉をひそめた。

「今、馬鹿にした?」


「褒めた」


「褒め方が雑」


「雑って言うな、雑のくせに」


「私、雑じゃない!」


 言い合いながら、でも足は校内へ向かって動いていた。

 怖いから動く。動くから怖さが追いつけない。

 二人の癖だ。


 二人は校内へ戻り、ありったけを集めた。

 体育館のマット。長い板。ロープ。工具箱。脚立。

 白くなった素材は軽すぎるほど軽い。

 その軽さが船作りを助ける。世界が自分で“都合よく”なっている気がして、逆に怖い。

 都合が良いのは、だいたい罠だ。


「ねえ、これさ」

 翠がマットを持ち上げながら言う。

「軽いの、嬉しいけど……怖い」


「分かる」

 あたしは板を肩に担いで答える。

「軽すぎると、壊れやすい。……人も」


 翠が一瞬だけ、あたしの顔を見る。

 何か言いかけて、言わない。

 そういうところも、昔のままだ。


 マットを浮力にして、板を骨組みにする。

 ロープで締める。結び目がずれないよう、翠が何度も確認する。

 あたしは結び目の位置を変え、重心が沈まないように微調整する。

 視界が青白すぎて距離感が狂うから、指先の感覚だけが頼りになる。


「そこ、もう一回」

 翠が言う。

「結び目、甘い」


「すい、厳しい」

 あたしが言いながら結び直す。


「厳しいのは、優しさ」

 翠が真顔で言ってきて、あたしは噴きそうになる。

「落ちたら死ぬんだよ?」


「死なないよ。泳げないのすいだけじゃん」

 あたしは反射で言って、すぐ後悔した。

 死ぬ。普通に死ぬ。水は冷たい。世界は静かすぎる。


「……あかりちゃん」

 翠が低い声で呼ぶ。


「はい、すみません」

 あたしは即座に頭を下げる。

 こういうやりとりも、いつものテンポでやる。

 怖さを、テンポで殴る。


 汗をかく。

 汗の色は分からない。白いのか青いのか、そもそも色があるのか。

 でも汗の塩気だけはちゃんと苦い。苦いのは、安心する。嘘じゃない味。

 舌の上の苦さは、“現実”の証拠だ。


 昼過ぎ。

 屋上から水面へ降ろせる簡素な船ができた。

 オールの代わりに長い板。

 船というより、浮く“床”に近い。


「沈まない……よね」

 翠が言う。

 声が震えてるくせに、目は決まってる。


「沈まない沈まない。沈んだら——」

 あたしは言いかけて、笑いに変える。

「泳ぐ」


「私、泳げないの知ってるでしょ!」


「じゃあ、あたしが引っ張る」


 そう言ってから、胸の奥でぜえ、と小さく鳴った。

 ——水の冷たさは、たぶん、容赦ない。

 水の冷たさが、息を奪う冷たさだって、分かってる。


 翠があたしの胸元を見て、目を細めた。

「……ほんとに、無理しないで」


「だから、分かってるって」

 分かってる。分かってるけど、分かってるだけじゃ足りない。


 船を水面へ。

 水は静かに受け入れた。波が立たない。

 静かすぎて、逆に怖い。

 水が“生き物”じゃなく、“画面”みたいに見える。


 屋上が遠ざかると、世界は一気に広くなる。

 二人の学校が、孤島みたいになる。

 白い四角が、青い膜の上に浮かんでいるだけ。

 戻る場所が小さくなると、帰り道も小さくなる。

 小さくなると、怖い。


 こぎ出す。

 白いビルの幹が、遠くに並んでいる。

 のっぺりした壁。省かれた窓。

 世界が“背景”になっていく感覚が、じわじわと怖い。


 時間が伸びる。

 漕いでも漕いでも、景色が変わらない。

 遠景の白い幹が、少しだけ位置を変えるだけ。

 世界が動かないせいで、自分の体力だけが削れていくのが分かる。

 削れる音だけが、現実だ。


「休む?」

 翠が言う。


「あたしが言うまで休まない」

 あたしは冗談を言って、冗談のまま板を押し続ける。

 板が水を切る音も薄い。

 それでも腕は重くなる。背中が張る。息が冷たくなる。


「冗談、やめて」

 翠の声がきつい。

「……死んじゃうよ」


「死なないって」

 あたしはまた言いそうになって、飲み込む。

 代わりに笑う。笑いで誤魔化す。


 日が傾いたのかどうか分からない。

 太陽の白が、ずっと同じ角度で刺さっている気がする。

 でも空の青だけが、少しずつ深くなっている。深くなる青は、時間の代わりだ。


 一日目が終わった。

 二日目も、終わった。


 船の上で食糧は尽きた。

 水はある。甘い水。

 飲むたび、身体が少しだけ軽くなる気がする。

 軽くなるぶん、眠気が増す気もする。

 甘さが脳の奥を撫でて、意識の縫い目をほどいていく。


「眠くない?」

 翠が言う。

 声が掠れている。唇が白い。目の下が青い。

 青い世界の中で、翠の顔色が本当に青く見えて、あたしは少し笑えなくなる。


「眠い」

 あたしは正直に言った。


「寝たら落ちるよ。たぶん」

 翠の声は怖がってるのに妙に冷静だ。


「起きてる」

 あたしは笑って、板を握る。

 指が白い。

 手のひらが冷たい。

 心臓が、たまに変なタイミングで跳ねる。呼吸が浅くなる。


(……だめだ。ここで)


 ——息、吸って。


 自分に命令する。

 肺を広げる。

 胸が痛む。ぜえ、って鳴る。

 それでも吸う。吐く。吸う。

 ゆっくりと、呼吸を“技”にする。

 呼吸が乱れたら、負け。青に負ける。


「……あかりちゃん、いま」

 翠が言いかける。


「大丈夫」

 あたしは早口で遮る。

「大丈夫だから、オール、代わって。すい、体力あるでしょ」


「体力あるけど、筋力はない!」

 翠が泣きそうな声で怒る。

「……でも、分かった。代わる。だから、ちゃんと座って」


「はいはーい」

 あたしは従って座る。

 従うふりをして、膝を抱える。

 膝を抱えると、少しだけ体が小さくなって、呼吸が楽になる。


 遠い光は逃げない。

 ずっとそこにある。

 まるで「来い」と言っているみたいに。


 そして三日目。

 ……時間の感覚は曖昧だったけど、とにかく、果てしないこぎ続けのあと。


 光の近くに、小さな岩場が見えた。

 水面から、ほんの少しだけ顔を出した白い岩。

 そこに——レコードが一枚、引っかかっていた。


「あ……」


 あたしの声が落ちる。


 塔じゃない。

 白い塔なんて、どこにもない。

 ただの岩場。レコード。

 肩から力が抜けた。

 ここまで来たのに。

 ここまで来て、これだけ?


「……嘘だ」

 あたしは笑ってしまう。笑いが乾く。

「ねえ、すい。これ、スタッフの悪ふざけ?」


 翠がレコードをそっと拾い上げた。

 傷ひとつない。白と青の模様だけが刻まれている。

 溝の一本一本が、やけにくっきりして見える。世界が単純だからだ。


「……探そう」

 翠が言う。

「まだ、何かある。……ここ、終点じゃない」


 翠が岩場を歩き回る。

 非力なはずの翠の足取りは、意外に粘る。体力がある。

 あたしは座り込んだまま、空を見上げる。青が深い。

 目の奥が痛い。

 世界の色が少なすぎて、脳が疲れている。


(……もう、やだ)


 そう思った瞬間。


「……あかりちゃん!」


 翠の声が跳ねた。

 振り向くと、翠が地面に落ちていたものを抱えている。


 手動のレコードプレイヤー。


「これ……!」


 あたしは立ち上がる。

 胸の奥が痛い。でも、痛いなんて言ってる場合じゃない。

 痛いのは後回し。いつもの癖。いちばん悪い癖。


 レコードをはめる。

 翠がハンドルを回す。


 ——ぎ、ぎ、ぎ。


 音が鳴った。

 最初はノイズみたいな薄い音。

 それが、形を持つ。


 歌だ。


 知らない言語。

 でも声は、胸の骨に触れる。

 綺麗すぎて、世界が一瞬立体になる。

 白い岩が“岩”になり、水が“水”になる。空気に温度が戻る。

 さっきまで薄かった世界に、急に重さが出る。


 そして——


 レコードが勝手に回り始めた。


 翠の手を離れても回る。

 音が増幅される。

 光がレコードの溝から漏れ、空気を切って形を作り始める。


 白い線が螺旋を描く。

 青い光がその隙間を埋める。

 光が“固まる”音がする気がした。薄い世界に、硬さが生まれる。

 空気が、骨を持つ。


 ——塔。


 目の前に真っ白な塔が立ち上がった。

 スクリーンで見た、あの塔。

 “本物”というより、“映像の正しさ”だけで立っている塔。


 あたしと翠は顔を見合わせた。

 言葉はいらない。

 怖いのも、行くのも、同じ。


「……行く?」

 翠が小さく聞く。


「行く」

 あたしは即答する。

 即答してから、翠の手を見る。震えてる。

 その手を、あたしは握った。

 握ると、体温が伝わって、世界が少しだけ現実になる。


「……離さないでね」

 翠が言った。


「離すわけないじゃん」

 あたしは言って、笑った。

 笑って、また胸が少し鳴った。

(……だいじょぶ)


 塔の中へ。


 階段は白い。手すりも白い。

 足音が薄い。

 でも、歌ははっきり聞こえる。上へ上へ、導くみたいに。

 導かれてるってことは、誰かの意志の上ってことだ。

 それが怖い。


 途中でふと、振り返りたくなる。

 振り返ると、下の景色はもう“背景”に戻り始めている。

 塔の外の世界が、またのっぺりしていく。

 まるで「ここだけが本編」と言われているみたいだ。

 ——ここから外れたら、存在ごと省略される。そんな気がした。


 頂上。


 そこに、少女の後ろ姿があった。


 青い髪をツインテールにした少女。

 白い塔の上で、遠くを見ている。

 スクリーンのまま。

 でも、いまは確かに“いる”。

 いるだけで、空気が変わる。世界が息をする。


 少女が振り向いた。


 顔は綺麗だった。綺麗すぎて、少し怖い。

 肌も白く、瞳の中に青い光が走っている。

 息をしているのに、息の温度がない。


「ごめんね」


 声がした。

 柔らかいのに、どこか機械みたいな響き。

 言葉の抑揚が丁寧すぎる。人が作った“優しさ”のように聞こえる。

 優しさが“プログラム”みたいに整っている。


「こんなところに呼び出しちゃって。怖い思いをさせるつもりはなかったの」

 少女は笑う。

「でも、私にはもう……ほとんど力が残ってなくて。ここまで来てくれて、本当に良かった」


 翠が一歩前に出る。

 怖いはずなのに、こういうときの翠は妙に礼儀正しい。

 怖いから礼儀正しくなる。自分を守るために形を整える。


「……初めまして、私はすい。あなたは、誰?」

 翠の声が震えない。震えないように、丁寧に言ってる。


 少女は瞬きをする。

 その瞬きが、映像みたいに綺麗で、逆に現実味がない。


「昔、歌姫って呼ばれてた」

 少女は言う。

「……歌うために作られた機械。みんなが私の声を聞いて、押して、笑ってくれて。そういう“数”で、私はここまで来れた」


 言葉が少ないのに、胸に刺さる。

 あたしは、屋上の夜のラジオを思い出した。

 汚い音質の向こうでも、確かに胸を叩いた音。

 “誰かと繋がる音”。


 少女の声は——繋がるというより、吸い込む。

 綺麗すぎて、世界の方が溶ける。

 溶けていくのに、気持ちいい。

 気持ちいいから、怖い。


「……あなたが、この世界を?」

 あたしが言う。


 少女は首を振る。

「作ったというより……残った、って感じ。色が消えて、みんなが忘れて、私は消えて。それでも少しだけ残った“上映”の中で、私は——ここに引っかかった」


 “忘れられる”という言葉が、青い空気を少しだけ重くする。

 忘れられるって、死ぬより静かだ。

 静かだから、誰も泣かない。泣かないから、終わる。


 翠が唇を噛む。

「あの映画館は……あなたの」


「うん」

 少女は頷く。

「フィルムの中だけが、私の居場所だった」


 その言い方が妙に寂しくて。

 あたしは笑うことを忘れそうになった。

 笑いが落ちたら、翠が落ちる。翠が落ちたら、あたしも落ちる。


 少女は視線を落とす。


「私ね」

 静かに言った。

「終わりにしたいの」


 空気が少し重くなる。

 青が深くなる。

 深海の底の青。

 息がしにくい青。


「フィルムを切れば、私は消える。完全に。……役目はもう終わったから。だから——私を、消してほしい」


 翠が息を呑んだ。

 あたしは——一瞬、言葉が出なかった。


 消す。

 終わらせる。

 簡単に言えるほど軽い言葉じゃない。

 でも、少女の顔はどこかほっとしていた。長い間、同じ塔の上で立ち続けた子が、やっと座れるみたいな顔。


「……分かった」

 あたしは言った。

 口が先に動いた。

 真面目な自分が勝手に答えを出した。

 “正しいこと”の方へ、反射で走る。

 走ると、息が鳴る。鳴るのに、走る。


 その瞬間、翠が一歩前に出た。


「でも」

 翠の声が少し震える。

「最後に。……お願い、してもいい?」


 少女が首を傾げる。


 翠は少しだけ恥ずかしそうに目を伏せて、でも言い切った。


「……歌を。最後にあなたの歌を聞きたい」


 少女は驚いたみたいに目を丸くして。

 それから、笑った。


「いいよ」


 その笑顔が、あまりにも人間みたいで。

 あたしは胸の奥がきゅっとなる。

 人間みたいな笑顔が、いちばん残酷だ。

 “人間じゃない”って分かってしまうから。


 少女は目を閉じた。


 歌が始まる。


 声が青い空気を震わせる。

 塔の下のレコードプレイヤーが勝手に回り、伴奏を作る。

 音は世界に広がり、白いビルの幹を震わせ、水面を細かく揺らす。

 波ができる。波が“ある”という事実が、胸に刺さる。

 動く。世界が動く。音が世界を動かす。

 ——音って、こんなに強いんだ。


 その瞬間、あたしは気づいた。


 ——屋上の夜。

 ラジオから流れた歌声。

 あれも、これだ。


 汚い音質の向こうで、それでも確かに胸を叩いた声。

 この歌姫の声だった。


 翠も気づいたらしい。

 目を見開いて口元を押さえる。

 涙が溢れそうなのに、こぼさない。こぼすと歌が汚れるみたいに。


 歌は美しい。

 美しすぎて、怖い。

 美しすぎて、眠くなる。


 青がやさしい布みたいに落ちてくる。

 瞼が重い。

 意識が音に溶けていく。

 甘い水を飲んだときの眠気が、ここで完成するみたいに、ふわっと広がる。


 少女は歌いながら笑っていた。

 笑顔のまま、涙を流していた。


 その涙の色は分からない。

 白いのか、青いのか、あるいは——色そのものがないのか。

 でも、涙が熱いことだけは分かった。

 熱いものがこの世界にもある。

 熱いものが、ちゃんと、ここにある。


 それが最後に見えた。


 目を開けると、埃の匂いがした。


 廃れた映画館。

 客席。

 スクリーンは白い。

 隣で翠が息をしている。髪は黒に戻っている。

 あたしの髪も栗色に戻っていて、腰に重い。

 その重さが、泣きそうなくらい安心だ。

 “重い”って、いい。現実は重い。


 二人は無言で顔を見合わせた。


 頷く。


 言葉が出ないのに、頷きだけで全部伝わる。

 怖かった。綺麗だった。悲しかった。

 そして——まだ終わってない。


 映写室へ向かう。

 鍵は閉まっている。

 翠が「器物破損だよ」と言う。声が弱い。止める気力がない声。


「知ってる」

 あたしは言って、扉に手を掛ける。


「……止めないの?」

 翠が聞く。


「止めてほしいの?」

 あたしは聞き返す。


 翠は一拍、黙ってから、首を振った。

「……止めたい。けど」

 声が小さい。

「止めたら……あの子が、ずっと、ここに引っかかったままになる」


「だよね」


 あたしは扉をこじ開けた。

 金属が鳴るはずなのに、現実の音はちゃんと鳴った。

 ギギ、と、汚い音。

 汚い音が、ありがたい。


 中には古い機械と、フィルムと、レコード。

 あのレコード。

 白と青の模様のレコードが、ここにある。


「……壊す?」

 翠が小さく聞く。


 あたしはレコードを手に取った。

 ひんやりしている。

 でも冷たさの中に、屋上の夜の温かさが残っている気がした。

 あの汚い音質の音楽。

 背中に飛びついてきた翠の熱。

 それが全部、まだここにある。


 壊せば、あの子は終わる。

 終わらせるのが優しさかもしれない。


 ——でも。


「……持って帰ろ」

 あたしは言った。


 翠が目を見開く。

「え」


「気に入っちゃった」

 あたしは笑う。

 笑顔のまま、胸の奥が少し痛い。

「すい、楽しいって言ったじゃん。……あたしも、楽しかった」


 翠の目が潤む。

 泣きそうで、でも笑いそうで、ぐちゃぐちゃになる顔。


「……あかりちゃん」

 翠は息を吸って、言う。

「……悪い子」


「うん。悪い子」

 あたしは頷く。

「でも、悪い子の方が、誰かを忘れない」


 翠が息を止めて、それから、ふっと笑った。

「……それ、ずるい」


 悪い子は、レコードを抱えて帰る。


 家に持ち帰ってから、二人は試行錯誤を続けた。


 再生機器。取り込み。ノイズ除去。

 波形はあまりにも綺麗で、逆におかしかった。

 音が“残っている”というより、音が“生きている”。

 録音じゃなく、存在。


「これ、ほんとにレコード?」

 翠がパソコン画面を覗き込む。

「データが……変。綺麗すぎる」


「すい、オタクみたい」

 あたしが言う。


「みたいじゃない! オタクだよ! ゲームも本もアニメも大好きだし!」

 翠が即答して、あたしは笑う。

 笑えるうちは大丈夫。

 そう思って、何度も笑う。


 夜、パソコンの画面がふっと青くなる。

 青が、あの世界の青と同じ深さで、部屋の壁を染める。

 電気を消してないのに、青が勝手に暗くなる。

 青が部屋に“来る”。


「あかりちゃん」

 翠が小さい声で呼ぶ。

 いつもの“注意”じゃない。

 “本気の怖さ”の声。


 画面の中に、小さな白い塔が映った。

 塔の上に、青いツインテールの少女。


「……え?」


 少女が目を瞬いた。

 驚いた顔をして、こちらを見た。

 声が出ないように口が動いて、それからようやく音になる。


「あ……れ?」


 翠が椅子からずり落ちそうになる。

「あかりちゃん……! いる! いるよ……!」


 あたしは口の端を上げた。

 いたずらな笑み。

 胸の奥の罪悪感を、わざと笑いで押し潰す。

 押し潰さないと、泣く。泣いたら、翠が壊れる。


 画面の中の少女が震える声で言った。


「……どうして。私、終わったはずじゃ——」


 あたしは画面に顔を近づけて、にっこりする。

 屈託のない、いちばん悪いやつの笑顔で。


「終わってないよ」

 あたしは言った。

「だってさ。あんたの歌、気に入っちゃったんだよね」


 少女の瞳が揺れる。

 揺れ方が、人間みたいで。

 また胸が痛む。

 優しさを裏切ってる痛みじゃなく、“忘れない”痛み。


 翠が半泣きで笑いながら、画面に手を伸ばす。

 触れないのに、指が宙で止まる。

 その指先が少し震えている。


「あかりちゃん……ほんとに……」

 翠の声が、責めてるのか、嬉しいのか、分からない。

 分からないまま、泣いてる。


「だから」

 あたしは続ける。

「逃がさない。……あんたの歌で、一儲けさせてもらうから」


 言い切った瞬間。

 画面の中の少女は、呆れたように、でもどこかほっとしたように息を吐いた。


「……ひどい」


「ひどいよ」

 翠が涙声で言って、笑ってしまう。

「でも……よかった」


 あたしは笑った。

 翠も笑った。

 画面の中の歌姫も、少しだけ笑った。


 青い光が、部屋の壁を薄く染める。

 それは怖い青じゃなくて、屋上で聞いた音楽みたいな青だった。

 二人だけのコンサートの青。

 “明日がある”青。


 ——こうして、あたしたちは一つ、世界から消えたはずの声を、自分たちの部屋に縛り付けた。


 青に染まった世界で、藍を叫ぶ。

 その物語は、たぶん、ここから始まる。

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