第四章:影のルーティンと聖女の鈍感さ
Ⅰ. 影の抱擁
その夜。いつものように「鎮静の接触」を終えたアルティスは、冷たい一言を残して離宮を後にした。
「明日の同時刻に参ります。体調の維持を」
ドアが閉まり、セレネアは椅子に深く身を沈めた。彼女の金色の瞳は、アルティスの冷たさと、接触で残された魔力の余熱との間で揺れていた。
(「職務」。彼はそう言った。彼の魔力に触れると、私の封印された太陽の力が確かに落ち着く。あれは、契約に基づいた治療。ユリウス様の熱烈な褒め言葉や、アルティス公の冷たい職務。どちらも私に向けられたものであっても、「お飾り」の私に向けられたものに過ぎない)
彼女は、アルティスの感情の機微には全く気付かず、彼の行動をすべて「職務」と解釈していた。
アルティスは、離宮の庭の最も深い影に隠れていた。彼はすぐに月魔法を発動させ、セレネアの離宮全体を、自身の影の魔力で覆い始めた。
(王家が仕掛けた監視の魔力結界は、夜になるとさらに強くなる。ユリウス王子も、私の牽制を受けたとはいえ、おそらく今夜、魔力的な探りを入れてくるだろう。
彼は、セレネアの部屋の壁や窓に、自身の銀色の指輪と同じ、冷たい藍色の魔力の粒子を丁寧に張り巡らせていく。その魔力の膜は、外部の悪意ある介入を完全に遮断する、影の結界だった)
Ⅱ. 秘密の鎮静
アルティスは、影の中で静かに自問する。
(あの日の路地裏、ユリウス王子に触れられた時の魔力の乱れ。セレネア様は、ご自身の魔力が必要以上に反応したことにお気づきではない。彼女の体が、誰の魔力を真に求めているかを、理解されていない。 そして、あの瞳は、私がユリウス王子を退けたのが嫉妬ではなく職務だ、と信じ込んでいる……)
彼は自嘲する。自身の冷徹な演技が完璧すぎるせいで、肝心の「愛」という真実が、彼女の純粋な心に届かない。
アルティスは、自室に戻る直前、セレネアの部屋のドアの前で、そっと立ち止まった。彼は、ドアの隙間から、ごく微細な、鎮静のための月魔法の魔力を流し込む。
この魔力は、公式な「接触の儀」ではない。
それは、彼女が夜中に再び発作を起こさないよう、そして、彼が傍にいるという安堵感を、無意識に彼女の心に植え付けるための、彼だけの秘密の儀式だった。
Ⅲ. 影の騎士の痛ましい愛
セレネアは、眠りについた。彼女は、眠っている間に、優しく冷たい月の魔力が部屋を満たし、疲れた魂をそっと抱きしめてくれていることに、気が付かない。
ただ、彼女の夢は、あの夜の清涼な月の光に満ちていた。
アルティスは、自身が流し込んだ魔力がセレネアの体内に静かに浸透していくのを感知した。
( 今、この瞬間、彼女を守っているのは、儀式でも職務でもない。 これは……私の意志だ。誰にも、この光を奪わせない)
彼は、誰にも見られぬよう、自身の銀色の指輪に口付けた。その指輪は、セレネアの指輪と太古の誓約で結びついている。
「私は……君の影の騎士だ」
彼は、冷徹な仮面を被り、ノクス家の館へと帰っていった。夜の闇だけが、「お飾りをされた方」を護衛する「お飾りの婚約者」の、誰にも言えない献身的な愛を知っていた。




