第一章:月光に抱かれた魂
Ⅰ. 白金の涙
深夜。王都エストレイアの裏手、古い教会の廃墟は、昼間の喧騒を忘れたように静まり返っていた。この場所は、ルーメン公爵家の別邸からもノクス公爵家の館からも等しく離れた、誰にも見咎められない闇の領土だった。
セレネア・ルーメンは、白金の髪を乱し、薄い絹の衣を纏ったまま、中央の祭壇跡で息を呑んでいた。彼女の体は、月の引力に逆らえない潮のように、内側から激しく熱を帯びていた。封印された太陽の魔力が、満月が近づく周期で、制御を失いかけている証拠だった。
「――っ……」
彼女は苦痛に顔を歪ませる。公の場では、完璧な微笑みを貼り付けた「お飾りをされた方」として振る舞うことを強いられているが、この熱狂だけは隠せない。彼女の体内にある強大な太陽の力は、清涼な月の力に触れて均衡を保つよう、太古の誓約で定められている。彼女の体は本能で、その「月」を求めていた。
セレネアは、誰にも知られぬこの場所で、ただひたすらに舞った。それは優雅な貴族の舞踏ではなく、魔力の奔流に突き動かされる、荒々しく、切ない魂の舞だった。足元には、彼女の金色の瞳からこぼれる光の粒、すなわち魔力の残滓が、涙のように落ちて、闇に消えていく。
舞が頂点に達した瞬間、魔力の発作が限界に達した。セレネアは、息を詰まらせ、膝から崩れ落ちた。全身が燃えるように熱い。誰か、この熱を冷ましてくれと、理性なき声が内側で叫んだ。
その時だった。
Ⅱ. 影からの出現
アルティス・ノクスは、教会の割れたステンドグラスの影に身を潜めていた。深みのある銀色の髪と、冷たい藍色の瞳は、闇夜に完全に溶け込んでいる。
彼がこの廃墟を訪れたのは、王家の秘密を探るため。だが、彼が目撃したのは、魔力の発作に苦しむ一人の女性と、彼女から放出される、まるで生命そのもののような強烈な太陽の光だった。
「……光を抑えつけられているのか」
アルティスの心臓が、静かに、しかし強く脈打った。彼の月魔法は、本質的に孤独で冷たい力だ。だが今、目の前の圧倒的な光は、彼の力を熱烈に求め、共鳴している。
彼の理性が「関わるな。あれはルーメン家の者だ。不吉な力を持つ自分は関わってはならない」と警告する。だが、彼の体が影から飛び出す方が速かった。
彼は、セレネアの傍らに跪き、冷たい指先を彼女の熱い額にそっと触れさせた。
Ⅲ. 月の抱擁と運命の予感
接触した瞬間、アルティスの清涼な月魔法が、セレネアの体内に流れ込んだ。それは激しい熱に苦しむ彼女にとって、凍るような水を与えられたほどの安らぎだった。
「ああ……」
セレネアは、安堵の息を漏らした。目の奥に感じていた太陽の熱が、急速に引いていく。彼女は目を開けられず、ただ、この魔力の主が持つ影と夜の匂いだけを感じ取った。
「あなたは……月の光……。光の届かない場所から、私を迎えに来てくれたの?」
その言葉は、アルティスの冷たい胸を深く突き刺した。彼の魔力は、常に呪いや不吉と結びつけられ、彼は誰からも避けられて生きてきた。それが今、このまばゆい光の娘に、「迎え」として呼ばれた。
アルティスは、無意識に彼女の震える手を強く握りしめた。彼の冷たい銀の指輪が、セレネアの指に光るルーメン家の古い指輪と触れ合う。魔力の接触だけでなく、指輪同士の接触が、二人の間にさらに強い共鳴を引き起こした。それは太古の誓約が目覚めた音だった。
彼は冷静さを装い、声を作った。
「私はただの夜警です。お嬢さん。あなたの熱は収まりました。急いで、安全な場所へお戻りください」
アルティスは、それ以上言葉を交わすことを恐れ、セレネアが立ち上がるのを確認すると、すぐに闇の奥へと身を隠した。彼の心臓は、まだ、彼女の太陽の光を抱きしめた熱を残したまま、激しく鼓動していた。
(――だが、なぜだろう。彼女は、私を、知っているような気がした)
彼は知らなかった。この瞬間、「お飾りをされた方」と「お飾りの婚約者」の運命は、永遠に結びつけられたのだということを。そして、この切ない邂逅が、数日後に訪れる皮肉な現実の序章に過ぎないということを。




