52.オカンと悪寒とお約束的な畏怖
さよりを怒らせた原因が分からないまま、俺は彼女の家から出て自分の家に戻った。俺が帰る時、さよりはずっとふてくされていたが、やはり暴力性は消えていて玄関で見送られた。姫ちゃんは一緒に見送ってはくれなかった。やはり、さよりのことは好きじゃないということなのだろうか。
「ただいまー」
「あら、おかえり。池谷さんのお家にお邪魔していたのね?」
「何で分かんの」
「だって恋仲なんでしょ? さよりさんと」
「はぁ? いや、ちげーし! てか、何でそんなことを?」
「ウチは池谷さんちのお父様と仲良くさせて頂いているからね。湊もさよりさんと想いあっているって聞いているわ。良かったじゃない、将来のお嫁さんが決まっているだなんて幸運だと思うわ。ましてあんなに綺麗な子は見たことが無いわ」
「そういう憶測は良くないと思うけど」
「そうなの? でも池谷さんが言うには、最近娘がさらに綺麗になったから驚いた。とか言ってたから、これってある程度進んでいると信じて疑わなかったわ」
「気のせいだろ」
親同士の公認とは恐れ入った。だからあんなにデレられたのか? 確かにここ最近は、かなり距離が近づいたかもしれない。それでも下着の件で離れた気がする。そうなると姫ちゃんの気持ちはどうなるのだろうか。家族の仲がどうなっているのかはさすがに聞けない。予想ではさよりは父側で、姫ちゃんは母側なのだろう。会ったことは無いけど、母親がどう考えているのかは気になるところだ。それとは別に気になっていることがある。母さんから出た言葉は、あくまでも池谷家のことだ。それも何故か恋仲が公認になっているということなのだが……。
「あ、あのさ、鮫浜さんの親とは交流は無いの?」
「え? それがねえ、まだ一度もお会いしたことも無ければ話したことが無いのよ。今は引っ越しであっても、挨拶は来ないことが多いし、とにかく多忙なお仕事をされていると聞いているわ」
「それも池谷の親父さんから?」
「そうね、池谷さんは昔から知っているみたいね。ウチは両隣が越してきても、池谷さんと鮫浜さん家の関係までは知ることが出来ないもの。湊は鮫浜さん家の子とも仲がいいのでしょう? その子に聞いてみればいいんじゃない? 池谷さん家との関係とかお父様お母さまのこととか」
「無理だ。まぁ、そのうち分かるだろ。てか、寝る。色々ありすぎてマジ疲れた」
「ご飯は?」
「いらない」
さよりの家でお茶をがぶ飲みしすぎたというのもある。デレ状態の時にあまりに嬉しそうにお茶を出しまくるものだから、飲みまくった。その影響はまだ続いていて、家に帰って来てからもトイレに行く回数が半端ない。放課後から夕方遅くにかけて、あまりに過密的なスケジュールすぎた。デレ状態を俺自らが解除してしまったことは、今でも悔やまれるものだ。それはともかくとして、ずっと黙らせていた俺の携帯を恐る恐ると見てみると、おびただしい数のメッセージが……と思いきや、サイレントに設定した直後は受信していないみたいだった。まるでサイレント中は送っても見られないことが分かっているかのように。それも偶然なのだろう。単純に彼女はそこまでしつこく送るタイプではないということだ。
自分の部屋に戻り、真っ先にベッドに倒れこんだ。さすがに不法侵入はしていないようだ。何度も注意をしているし、俺と違って反応自体の学習をしているのだろう。次の日も普通に学校があるので、そのまま寝落ちるようにして眠りについた。
「……んーむむむ……寝れん」
かなり疲れがあるはずなのに、寝返りを打ちながらベッドの端から端を何度も何度も往復していた。ふと携帯の時計を見てみると、夜中の2時くらいで真夜中真っ只中だった。中途半端な時間どころか、全然眠れていない。だとしても部屋の電気を点けて、何かをやるとかそんな気にはなれなくて、黙って何度も目を瞑りながら自然落ちを目指した。そして何度も寝返りを往復していた時、何かの違和感に気づき悪寒を感じていた。自分しかいないはずのベッドに、何かが寝ているような黒い影と感触があった。部屋を暗くしていて目は暗い空間に慣れているからこそ気づいたわけなのだが、寝ぼけているのかもしくは、ようやく眠ることが出来て夢でも見ているのかと思えた。夢の中ではもはやお約束とも言うべき彼女が俺の横に眠っていて、目を見開きながら嬉しそうに微笑んでいた。でもその微笑みは何となく、何か悪だくみを考えているかのような笑みに見えた。
「甘々なさよちゃんに心を持っていかれた……?」
返答に困る。いくら夢の中でも正直に答えてはいけない気がした。最終的にはデレ自体は解除されてしまったのだが、俺自身がさよりを好きになりかけていただけに、うんともすんとも言えないのだ。
「ふふ……胸がなくても彼女の胸に触れたでしょ? あれはキミとの約束を取り付けたようなもの。それこそ将来の……ね。でもね、そんなことを私が許すと思ったら大間違い……」
「ん……うむむむ……」
「キミとの約束は私の方が先。だから、彼女よりも私の胸に触れるべきなの。ほら、好きなだけ触れていいよ……そしてそれがキミの懺悔となるの」
夢の中だというのに、妙に生温かくてふわふわすぎる感触に襲われている気がしている。しかも俺の意識とは別に手が勝手に動いているという感覚さえ感じている。夢から覚めるのは惜しいけど、思い切って目を開けることにした。
「……ぇ」
「ようやくお目覚めかな? それともまだ夢を見ていると思っている? キミの手は私の胸に触れているんだよ? 驚いて言葉も出ないのかな?」
「――え、えと……い、いつからそこに?」
「キミが部屋の電気を消して、ベッドにダイブした時から」
「……えっ?」
「そう――最初からいたよ? よほど疲れたんだね……さよちゃんと甘すぎる空間で何をしていたのかな? キミは甘々な空間がお望み? どう見ても私の方がキミ好みの胸をしているのに、それでもキミの心はさよちゃんにあるのかな? だけど、キミの手は私の胸を掴んで離さないね。手ではなく、顔を埋める?」
「い、いや、それはその……」
「……そうだね。キミの顔を埋めたが最後、息が止まるまで離すつもりはないよ? それがキミの望み……」
「止まったらダメだろ。望んでない。いや、というか、まずは部屋の電気を点けて……っ!」
「ダメだよ? キミはベッドから起き上がっては駄目なの。キミの手は一晩中、私の胸から離れることが出来ない。離れては駄目だよ? そうしないと、池谷との勝手な約束が手に残ってしまうのだから」
約束って何だ? 将来のアレのことか? だとしても、こんな夢とも現実とも言えない状態で、鮫浜の胸から掴んで離れられないなんて、こんな気持ちで嬉しいわけが無いだろ。
「キミが望んでいるオムネさんなのに、どうして駄目なのかな? さよちゃんがそんなにいいのかな?」
「……」
「そう、そうなんだ。いいよ……? 今はさよりでも。しずでも、ほたるでもいい。だけど、キミは私の――だから、逃れることは出来ないの。それはキミの命に――ふふっ、本当に眠ってしまったね。いいよ、おやすみ」
何を言ってもどうにもならない。そう思えたら途端に眠気が襲ってきた。意思とは別に俺の手は彼女の胸を掴んで離さないまま、そのまま寝落ちた。俺と彼女が想いあってその行為に及ぶことがあるのだろうか。そんなことを思いながら、本当の夢に沈んでいく。
「――キミの手は私から離れない。それが何よりの証拠……逃さない。運命に抗えない……高洲湊……お前は――」




