111.えーと、笑えばいいと思うよ? いや、笑ってくれ。
えーと、煩悩は捨てていいのかな。もちろん、湯気が半端なく立ち込めているから見えていないわけだが、だとしても人の家で、それも女子と混浴とか想定外ですよ? 鮫浜ですらその領域には達していないはず。
「み、湊……あなたの背中をよく見せて」
「あ、あぁ……」
さすが社畜の親父さん。建売だとしても、お風呂場は豪華にしたかったんですね、分かります。シャツを脱がされた俺は、顔を真っ赤に染めたさよりに堂々と上半身裸をお披露目してあげた。
しかし、すぐに体をひっくり返されてそのまま、湯船のある方へ押し出されてしまった。自らの意思で熱湯に入ることなく、強制的に入れという訳ですね。それほど熱湯でもなかったので、それはそれはいい湯ダナーだったわけだが。
「は、入るわね」
「ハ? ちょいまてぇい!」
予想通りだが一応、拒んでみた。しかし安心してください! 狙ったように湯気がどこからか噴き出してますよ? もっとも、さよりは残念なので湯気で隠さなくても……なんて言ってはならない。
「み、見てもいいわ。どうせあなたはわたしの夫になるのですもの」
「いや、それはないし、見てもドキドキしないから平気だ」
「バカ野郎! バカッ! み、見なさいよ」
「いや、本当に見なくても平気だ」
「ムカつく! じゃ、じゃあ……後ろを向いたまま、湯船から出てくれるかしら?」
何て危険な行為をさせるのかなこの子は。きちんと方向指示を出してくれるんだろうな?
「そこよ、そこから半歩下がって……行きすぎよ! ゆっくりと腰を下ろして座るのっ!」
「分かったから、叫ぶなっての! お前の声が響いてるだろうが!」
「またお前って!」
「――さより」
「はうっ! お、恐ろしく反響するのね……こんな場所で、湊の声は凶器でしかないわ」
イケボの使いどころが正解だったわけか。しかし背中が好き好きー! なのは変わらないんだな。
「痛いなら言ってね?」
「ん? あぁ、平気だ」
まぁ、こんなものだろう。俺としても残念なさよりのオムネさんを、まじまじと眺めたいなんて、そんな自虐的な願望は無い。今はまだ成長中なのだ。もう少し期待が出来そうな時にこそ、褒めてあげたい。
「ふむ……気持ちいいな。俺はほとんどシャワーで済ませてるから、背中をそんな風に洗うのは滅多に無いかもな」
「まぁ! 何てことなの。あなた、やはりそうなのね……わたしが付きっきりで背中を洗わないと、その輝きもいつかは失われてしまうはずだわ」
「いや、俺の背中は光らないんだが?」
「分かってなさすぎるわ。湊の背中はそれはもう、輝きに満ちているの! べ、別に声だけがいいわけじゃないの。背中こそが、湊をより良く見せているに他ならないの。だから背中は常に綺麗にしてあげないといけないわ!」
なんという残念な思考なのか。背中が輝いているとか、俺は何者ですか。さよりなりの誉め言葉なのだろうが、その語彙力は非常に泣けるほど悲しい。悲しすぎる美少女として認めてあげよう。
そしてかなりいい感じに背中を洗ってくれた所で、お礼を言ってあげようとした時だった。俺の背中に、さよりのオムネさんの感触が微かに感じられたことだ。これは何というか、何と言えばいいのだろうか。
「……さよりさん? あの……いくら残念でもこれは刺激的なことですよ?」
「湊……わたしのことが嫌いになった?」
「――あ」
「全て聞いたのよね? お母様から」
聞いていたか? もしくは母親と一緒にいた時間が長かったのがそういう意味だと知ってしまったか。明らかに声のトーンがさっきと違う。これは怯えた声だ。しかも背中に感じるオムネさん……ではなく、鼓動が早い心臓の音が俺にも聞こえて来ている気さえする。
「聞いた。まさか出会っていたとはな。でも、俺は嫌いにはならない」
「――どうして? だって、浅海さんのことを……」
「一番悪いのはほたるなんだろ? さよりじゃねえだろ。そこにいただけで、直接じゃない」
「ううん、だったら彼はそこまでわたしを睨まないわ。わたしも、彼の綺麗な顔立ちのことで良くない言葉で追い詰めたことに変わりはないの……湊、ごめんなさい」
ううむ。いつになく真面目でシリアスな回じゃないか。ドキッ! 男女のムネドキな混浴はどこへ?
「いいよ、俺はあの場で浅海を助けられたわけだし、さよりも気づいたんだろ? 良くないことだったって。その後に浅海のことを忘れていたっていうのも、浅海が美少女すぎたことによるものだろうし、ほたるのことも転校してきただけに分からなかったはずだ。だから、俺がさよりを許すとか許さないとかにはならねえよ」
「……うぅっ、湊……わたし、わたしはこういう時、どんな顔をすればいいの?」
「笑えばいいと思う。もちろん、笑顔でだ。俺だって、さよりの悲しい顔を見たくないしな。さよりが楽しそうにしている顔が好きだし、可愛いって思ってるしな」
おや? どこかで聞いたことのあるセリフだな。数多のレジェンド級なアニメだった気がしないでもない。しかし、それはともかくさよりも後ろめたさはあったわけか。それがあったなら、やはり嫌いにはならないな。
ほたるって奴こそが悪だったみたいだが、学園からいなくなったみたいだし、さよりにどうこうすることもないだろう。浅海に関しても、俺が何とかするしかないな。
この時点でさよりの悩みは分かることが出来た。ということは、これからの問題は俺と鮫浜のことになる。彼女のことを知らなければならないし、知りたい。その為には、もっと仲良くなる必要がある。
「湊?」
「あぁ、元気出せよ。な? さよりは可愛いし、さよりの笑顔は思わずなでなでしたくなるしな」
「ほんと?」
「おう」
「本当にホント? じゃ、じゃあ、して?」
「だが断る! 今は駄目だ。服を着ている時にしてやる」
「うぅ……いじわる……でも、好き!」
くっ、煩悩を捨てろ。煩悩を……って、あら? 暗闇が見えるぞ? これはアレだ……のぼせ――。
「み、湊? 湊! ねえ、あの……ど、どうしよどうしよどうしよ」
さよりがパニクっている中、俺の意識は暗転した。ダークな展開は鮫浜だけで充分である。そう思いながら。




