10 水も滴る良い王子
ん!? この音は水です!
どうやら崖下にはちょうど温泉があったようで、球体はゆらゆらと湯の上で船のように揺れました。湯気に包まれた空間の中で、私たちは固く抱き合ったまま浮かんでいます。
「お、王子様……」
王子様は深く息を吐いた後で、私を引き剥がしました。
「ルナ! けがはないか⁉︎」
「は、はい! この球体の盾と温泉のおかげで、なんともありません!」
王子様は私の身体の無事をしっかり確認して、脱力しました。パジャマ姿にガウンを羽織って、汗をかいてらっしゃいます。
「良かった……救出が間に合わないんじゃないかと肝を冷やした。森に入るルナを尾行したら、急に視界から消えたから……」
なんと。王子様は私が寝室を抜けたのを察知して、ずっとつけてらしたようです! あの天使の寝顔は、狸寝入りだったのですね!?
「あ、あわわ」
「まったく。まさか深夜まで虫捕りをするとはな。ルナにはいつも驚かされる」
こんな危険な目に遭わせてしまったのに、王子様が明るく笑うので……私はいろんな感情が噴き出して、号泣しました。
「う、う、ごめんなさい! 私は婚約指輪を妖精に盗まれてしまったのです!」
「え!?」
私の素っ頓狂な告白に王子様は驚きましたが、もう暴露の勢いは止まりません。泣きながらすべてをお話しすると、王子様はじっくり聞いてくださいました。
「なるほど。ルナの奇行に合点がいったよ。一日中様子がおかしかったからな」
王子様はビショビショの私の顔をガウンの袖で拭ってくださいました。
「お、おゔじざま……」
「俺に黙って危険なことをしたお説教は後だ。ひとまず湯の中から脱出して、陸に上がろう」
そうでした。私たちは、まだ温泉の上に浮いた球体の中に入ったまま、ゆらゆらと揺れていたのでした。
「ん」
王子様は私に背中を向けてしゃがみました。
「え?」
まさかその格好は……。
「おんぶだよ」
「お、おんぶ!?」
「ほら、早く」
王子様のお声が厳しくなったので、私は畏れ多くも王子様の背中に張り付きました。温かくて広い背中にドキドキしつつ、王子様の首に腕を回して……こんな時なのに、王子様の香りを堪能してしまいます。
「盾を解除するから、しっかり捕まってろよ」
王子様の言葉の後に球体の防御壁は解除され、ドボン! という音が鳴って、王子様の下半身は温泉に浸かりました。私はおんぶされて無事ですが、王子様はびしょ濡れのまま温泉の中を歩きました。
「す、すみません。私ばっかりおんぶされちゃって……」
「いいよ。大切なお姫様だからな」
冗談でも嬉しすぎるお言葉です。
王子様は温泉の縁にたどり着くと、陸に上がって大きな岩の上に私を降ろしてくださいました。
水も滴る良い男、でございます!
ガウンの湯を絞る王子様は湯気に包まれて、乱れた胸元がとてつもなく色っぽいです。
王子様に見惚れているうちに、またもや王子様の頭の上に、光るものが現れました。
「出た! 妖精です!」
王子様も慌てて頭上を見上げて、驚きで目を見開きました。
「妖精だ! まさか本物なのか!?」
なんと、王子様にもちゃんと妖精が見えているようです!
私は指輪を盗まれた怒りが再燃して、岩から飛び降りました。
あ、虫取りの網がありません! 仕方なく素手で捕まえようと飛び上がる私を、王子様は両腕で抱えて止めました。
「待て、ルナ! あの妖精をよく見るんだ!」
王子様に言われて、宙に浮いている妖精をよく見ると……。
ん? 手を広げているように見えます。いや、あの手の形は……。
「あの小さな手は、どこかの方向を指している。俺たちに場所を知らせたいんだと思う」
互いに言葉が通じないのに、王子様は小さな妖精の機微をよく観察して、答えを導き出しました。なんて冷静さでしょうか。
妖精は飛んでは止まり、飛んでは止まりと私たちを誘うような行動を見せたので、私と王子様は手を繋いで妖精を追いかけました。
導かれたその先は、森の中にある一本の木でした。その木の枝には、キラキラと輝く何かがぶら下がっていたのです。
「あぁ! 婚約指輪です!」
私は木の枝に駆け寄り、かかっているチェーンの先に指輪がちゃんとあることを確認して、安堵しました。
そしてその瞬間に、私は今朝方、この森でキノコの観察に夢中になっていたのを思い出しました。
髪に絡みついたチェーンを一旦外して、この木の枝に引っ掛けて、汗を拭いて。そのままチェーンを忘れて、キノコの観察に戻ってしまったのです。
なんということでしょう。婚約指輪を外して置き忘れたのは、この私だったのです! 妖精が盗んだとか隠しただなんて、とんでもない冤罪でした。しかも妖精は私にこの場所に置き忘れていることを教えてくれようと、何度も現れては方向を指していたのでしょう。
私は妖精と出会った興奮と、途中からは「いたずらされた」という怒りで、意思の疎通が不可能なほど追いかけてしまいました。
「私は自分が恥ずかしいです。……妖精さん、ありがとうございました」
すると妖精は何の反応も示さずに、スーッと森の奥に飛んで消えてしまいました。
消沈して婚約指輪を握り締める私の肩を、王子様は気軽に抱きました。
「どうやら悪い子はルナだけだったみたいだな」
「はい……。私はドジでおバカな、悪い子でございます……」
「でも、妖精はルナのことを好きなんじゃないかな」
「いいえ……まるで悪鬼みたいに追いかけ回したのですから、私のような怖い人間を妖精が好きなはずがありません……」
言いながら泣きそうになる私に、王子様はおっしゃいました。
「辺境で妖精が目撃されるのはたまにあるが、人間を助けてくれた話は聞いたことがない。妖精はいたずら好きらしいから」
「そ、そうなんですか?」
「ルナの妖精に会いたい気持ちが通じたのかもな」
王子様の希望に満ちた解釈に、私も思わず笑顔になりました。
でも。王子様は途端にスン、と真顔になると、硬い口調で続けました。
「ルナが無事で、婚約指輪が見つかって、妖精の冤罪も晴れたところで……。こんな無謀な計画を立てたコソ泥令嬢の断罪をしなければいけないな」
急に王族らしい厳しさを見せられて、私は「ひぃ!」と仰け反りました。
「護衛と門番を眠らせた上に、無断で敷地内を徘徊した了見を聞かせてもらおうか」
尋問です! 私は恐怖と興奮でゾクゾクしました。
毅然とした冷たい目の王子様の、なんて美しいこと!
王子様はオタオタする私の手を掴むと、足早に別荘の玄関に向かいました。
「おとなしく寝室に来なさい」
「は、はい~!」
真面目に反省しなきゃいけないのに、私はどこか浮かれた足取りで連行されるのでした。




