93話 ありえない提案
エルフォード家に謝罪に行く日がやって来た。
ちなみに今日までの間、ビオラは彼女の専属侍女のローズの監視があり、確実にディーン卿には会っていない。
――ああ、具合が悪くなりそうだわ。
エルフォード伯爵家に行ったら、それなりの叱責を受けるはず……。
誠心誠意、きちんと謝罪をしないと。
緊張する心を静めるため、私は自身の部屋の壁に視線を向ける。
その先には、ヴァンロージアの使用人たちからもらったプレゼントが飾られている。勇気をもらうようにそれを見つめると、少し励まされたような気持ちになった。
「お嬢様、エルフォード家のお迎えの馬車が到着したようです」
「ええ、分かった。今行くわ」
こうして私は意を決し玄関まで向かうと、エルフォード家の迎えの馬車に乗り込んだ。
そして、しばらく馬車に揺られると、王都にあるエルフォード家の別邸に到着した。
――ここに卿がいるのね……。
緊張してきたわ。
エルフォード家の侍従に案内されながら、美しい庭の緑陰のアーチを潜る。すると、抜けた先に美姿勢をした黒髪の人影が見えた。
――ディーン卿だわ。
わざわざ外に出迎えに出てくれていたディーン卿を見て、何となく彼らしさを感じる。ディーン卿は私に気付くとこちらへと歩み寄ってきた。
「エミリア嬢。本日はお時間を作っていただきありがとうございます」
「それを言うならこちらの方ですっ……。このたびは誠に申し訳ございません。お忙しいところ、お時間を頂戴しありがとうございます」
「呼び出したのはこちらなのですから、どうかお気になさらず。詳しい話は中でしましょう。どうぞお入りください」
クルッと踵を返した卿は、スタスタと玄関へと歩き始めた。かと思えば、首だけ回してこちらに振り返ると、表情一つ変えず口を開いた。
「緊張しているようなので、紅茶ではなくハーブティーを手配しましょうか」
そう言うと、ディーン卿は再び前を向いた。そして私に合わせるように歩調を緩めると、そのまま客間へと案内してくれた。
客間に通されてから、言われた椅子に座り緊張の時間を過ごす。それからしばらくすると、使用人がお茶を運んできた。
――本当にハーブティーだわ。
カモミールの香りが漂う中、目の前に座る彼とカップを交互に見つめる。すると、私の視線に気付いた卿は目を合わせ、フッと口角を上げた。
「ご安心ください。毒は入っておりませんよ」
「いえっ、そう言うわけでは……。ただ、ハーブティーをお出しいただいたのが初めてだったので、つい見入ってしまいました」
突然なんてことを言うんだとハラハラしながら、慌てて弁明をする。
すると、彼は口角をあげたまま「それなら良かった」と言い、優雅に自身のカップに入ったお茶を一口含んだ。
そしてカップから口を離すと、手に持ったカップを軽く持ち上げ目を合わせてきた。
きっと私にも飲むよう促しているのだろう。そのため、私も自身のカップに注がれたお茶を半分ほど飲み、一旦そのカップをソーサーへと戻した。
――ハーブティーのおかげかしら?
本当に少し緊張が解けたような気分だわ。
だからこそ油断せず、彼にきちんと謝罪をしないと。
「ディーン卿。改めて、このたびは妹のビオラが御迷惑をおかけし、大変申し訳ございませんでした」
ビオラがかけた迷惑を想像しながら、彼に向かい頭を下げる。すると、ディーン卿はそんな私に頭を上げるよう告げた。視線を前に戻せば、僅かに眉間に皺を寄せた彼が目に映る。
「エミリア嬢、あなたの謝罪は受け入れましょう」
「っ! ありがとう存じます」
「感謝の言葉は結構ですよ。元より私が本日あなたをお呼びしたのは、直接謝罪を受けるためではありませんので。謝罪は手紙で終わっております」
「では、なぜ……」
「私視点でビオラ嬢の所業をご説明したかったのです。少しでも彼女の行動を止めるための参考になればと……」
途端に、ディーン卿の細めた目に険しさが宿る。その目を見て、やはりビオラに対する怒りが消えたわけではないのだと察せられる。
「ぜひ、お聞かせ願えますでしょうか。そのお話を踏まえ、ビオラにも再教育いたします」
――何をしたのかを明確に知っておいた方が、ビオラにも何が良くて何が駄目なのかを説明しやすいもの。
これからどんな所業か語られるのに不安を感じながら、ディーン卿を真剣に見つめる。
すると、目を真ん丸に見開いた卿と目が合った。かと思えば、卿は私から顔ごと目を逸らし、微かにフッと笑みを零した。
「私の世間の評判に負けない程、真面目な方ですね。二つ名として、氷の女帝などいかがでしょうか?」
「こ、氷の女帝?」
氷の悪魔とかけているのだろうか? でも、ちょっと何を言っているのか分からない。
私が欠片だけ知っているディーン卿像は、今にも崩れ落ちそうだ。いや、もう崩壊を始めている。
――ディーン卿って、こんなことを言う人だったかしら?
困惑して彼を見つめると、からかいの眼差しと視線が交差する。その瞬間、彼は愉しそうに笑みを零した。
「ディーン卿、えっとそれは……」
「ああ、すみません。からかいすぎましたね」
余裕ありげにそう告げると、彼はすぐさま真顔へと表情を切り替えた。そして、落ち着き払った様子でとある質問を投げかけてきた。
「ちなみに、ビオラ嬢からはどのような話をお聞きになっているのですか?」
「会うたびに……求婚をしていると聞きました」
「そうですか……」
答えを聞き、何かを思い出すように視線を動かした後、苦虫を噛み潰したような顔をするディーン卿。その彼の表情には、確実にビオラに対する拒絶の気持ちが含まれているのが分かった。
「あの、私からも一つ質問をしてもよろしいでしょうか?」
「っ……ああ。どうぞ、何なりと」
「……ビオラに卿をお慕いするようになったきっかけを尋ねたところ、先月の舞踏会で、その……っ叱られたからだと言っていたんです」
説明している今も、私はビオラの言い分を理解しきれていない。こんな説明をしていることにも恥ずかしさを感じる。
だが、私はそのまま恥を忍び、訊ねなければならないことを問うた。
「ディーン卿のお怒りを買うことになった理由を、お教えいただいてもよろしいでしょうか。その件に関しても、謝罪させていただきたいのです」
どんな返しが来るのか全く想像がつかない。そのため、ドキドキと緊張しながらその答えを待った。すると、ディーン卿は怪訝そうな表情で、私の言葉に反応した。
「まさか、それが理由だったのですか? 失礼ですが、彼女は随分とおめでたい頭をお持ちのようですね」
「はいっ……ごもっともです。大変申し訳――」
「いえ、あなたが謝る必要はありません。そもそも、私がビオラ嬢を叱責した理由は、あなたに対する態度が目に余ったからです。ですが、今では出過ぎた真似だったと反省しております」
そう告げると、ディーン卿は軽くため息を吐いた。そして、すぐに事の詳細を話してくれた。
まず、私が舞踏会場から出た後も、ビオラとお兄様はしばらく会場に残っていたという。
そんな中、お兄様と話をしたい人が集まり、ビオラを信用ならない環境に置きたくなかったのであろうお兄様は、なんとビオラをディーン卿に託したという。
あのお兄様がビオラを預けるというのだから、ディーン卿に対するお兄様の信頼感は相当なものだろうと窺える。
そして、その状況下でビオラがディーン卿をダンスに誘い、流れで二人は踊ることになった。その際、ビオラがドレスや装飾具を自慢しながら、それらは私からもらったものだと説明したらしい。
ディーン卿は当初不躾なビオラの言動を、短時間だから耐えてやり過ごそうと考えていたという。
しかし、ビオラのあまりにも苦労知らずな発言が続いたこと。そして、舞踏会場で私と話すビオラの言動があまりにも非常識だったことや、これまでの舞踏会でのビオラの言動の酷さが重なり、つい苛立ちが込み上げたらしい。
私の結婚理由も何となく察していただけに、余計にビオラの浮かれ度合いに苛立ったそうだ。
そのためディーン卿は「では、ここまでしてもらいながら、なぜあなたは彼女をぞんざいに扱うのか」といった内容を皮切りに、ビオラをつい叱責したという。
そのとき、ビオラはかなりショックを受けたような表情をしていたため、ブラッドリーとの友好関係は希薄になると考えていたらしい。
だがその日以来、ビオラは予告なく卿の家に押しかけたり、仕事先に現れ出待ちをしたりし始めたため、理由が分からず困惑状態のまま、現在に至ったのだという。
「社交界の華と評され、大変人気があるご令嬢とは存じております。しかしはっきり申し上げると、彼女のように人としてのマナーがなっていない方とは、少なくとも現時点では結婚いたしかねます」
ディーン卿は基本的にアルカイックスマイルを浮かべている。しかし、今の彼の顔からは完全に笑みが消え、その代わり黒いオーラが漂っているような気がしてくる。
この表情こそが、皆が氷の悪魔と呼ぶディーン卿なのだろう。なんて思っていると、ディーン卿は自身のカップに入ったお茶を飲み干し、再び口を開いた。
「ただ私は、ブラッドリーとの間に軋轢を生みたいわけではございません」
「私もエルフォード家との関係を悪化させることは望んでおりません」
「そのように言っていただけると幸いです。ただ……少し残念です」
残念という言葉の意味が分からず、何かしてしまったのかと心臓がギュッと締め付けられるような感覚に陥る。そんな中、ディーン卿は微かに投げやり気味に言葉を続けた。
「ブラッドリー家は敵対派閥でもありませんし、王室からの覚えもめでたい家門です。婚家として考えると、この国で一番というほど理想的だったのですが……」
「か、過分のお言葉痛み入ります」
気まずさから礼を言いつつ、軽く頭を下げる。
すると「どうかご謙遜なさらず」と声をかけられたため顔を上げた。
そのときだった。
衝撃を受けたような表情をしたディーン卿が、まるで氷で出来たアクアマリンのような双眸で私を凝視してきた。
「あの、ディーン卿。どうされま――」
「そうだ……エミリア嬢。失礼を承知で質問いたします。すっかり失念しておりましたが、あなたはマティアス卿と離婚されて配偶者がいない状態ですよね?」
「はい……。それがどうされ――」
「私と結婚しませんか?」
今この男性は何と言ったのだろうか。
私は今、ビオラのことについて謝罪に来たはずだ。それなのに、なぜ求婚をされているの?
「あの、ディーン卿。しばらく結婚を考えるつもりはございませんので、突然そのようなことを言われましても――」
困る。そう言おうとしたが、ディーン卿は極めて冷静な様子で言葉を続けた。
「すみません、驚かせてしまいました。ただ、私の提案は本気です。あなたは私が出会ったどの女性よりも聡明な方です。婚歴は気にしませんので、どうかご一考ください」
「いや、ご一考も何も、妹がお慕いする方と結婚なんて――」
「政略結婚のご提案です。恋情はすぐに散るでしょうが、愛は結婚後にいくらでも育めると思います。どうかビオラ嬢のことは一度分け、家門同士の繋がりとしてお考え下さい」
――愛が育めなかったから、私はマティアス様と離婚したとも言えるのだけれど……。
それに、こんな風に言われてもビオラを気にしないなんて無理だわ。
結婚のことについても、私自身そんなに直ぐ考えられないし……。
「ディーン卿。やはり、結婚というのはあまりにも突飛な話のように思います。わざわざ私でなくても女性は他におりますので、申し訳ありませんが今回はお断りさせていただきます」
気まずさに耐えきれず、深めに頭を下げる。
直後「そうですか……」と呟くディーン卿の声が耳に届いた。その声は、何か考え事をしているようにも聞こえる。
――今しかないわね。
彼が考えている隙を生かさない手はない。その判断の下、私は次の予定のために動き始めることにした。
「あの、そろそろお暇させて頂こうと思います。お忙しい中お時間を割いていただき、ありがとうございました」
私から申し出るのは多少強引だと思ったが、ここに居続けるわけにはいかないと思い告げる。
すると、ディーン卿はハッとした様子で部屋の一角に置かれたホールクロックに目をやった。私も釣られて時計に目をやると、想定よりも針が一周多く回っていることに気付いた。
「こんなにも時間が経っていたのですね。失礼しました。では、お見送りいたします」
次の予定を考え内心焦る私に、驚いた様子のディーン卿が見送りを申し出た。そして流れるように、ディーン卿自ら部屋の扉を開けてくれた。
――こんなにもあっさり帰れるのね。
さっきまでの話が嘘みたいで、何とも言えない気持ちよ……。
でも、とりあえず断れて良かったわ。
そう思いながら、私は卿と共に馬車までの道を歩き始めた。来たときは先陣を切って歩いていた卿だったが、帰りの道のりは私と横並びだった。
そして、馬車の前に辿り着いた瞬間、私はディーン卿の方へと振り返った。
「ビオラの件、改めて大変申し訳ございませんでした。帰り次第、すぐにビオラに教育し直します。……本日はありがとうございました。それでは、これにて失礼いた――」
「ここでお別れではないですよ」
「え?」
「ブラッドリー家までお送りいたします。さあ、どうぞ」
私を馬車に載せるエスコートをするように、ディーン卿が手を差し出してきた。いつもだったらその手を取るかもしれないが、非常に取りづらい。
だが、うだうだして時間を潰すわけにはいかないと、卿の手を取り馬車に乗り込んだ。
すると卿は私に続くように、身軽な動きで馬車に乗り込んできた。
それから間もなく、ディーン卿も共に乗った馬車はブラッドリーの邸宅に向かって進み始めた。
◇◇◇
「目安箱をすべて確認していたのですか?」
「はい。そのようにして、領民視点で健全な領地経営が出来るよう取り組んでおりました」
「では、農作物の生産性が一気に上昇したのも、目安箱がきっかけなのですか?」
「左様でございます。領民が言ってくれたからこそ気付けましたし、案が奏功するという運の良さもあったと思います」
「なるほど……。非常に面白い……」
「そういえば、ディーン卿の領地はずっと冬でも他領に供給できるほど、食料が豊かですよね? どのように乗り越えられているのでしょうか?」
「それは――」
ディーン卿が何か続けようとしたが、馬車が突然停まった。それからすぐ、御者がブラッドリーの邸宅に到着したと伝えてきた。
――もう着いたの?
ちょうど聞きたい話だったのに……。
予想外に盛り上がったから、時間の計算を間違ったわね。
でも、カリス殿下との約束の時間には間に合ったから良かったわ。
馬車に乗ってすぐ、ディーン卿は領地経営や事業に関する話題について話し始めた。
最初は結婚の話を掻き消そうと、乗り気に見えるよう意識して出された話題に飛びついた。だが、本当にためになる話が多く、いつの間にか私はそれらの話に本気になっていた。
「さあ、エミリア嬢。お手をどうぞ」
先に降りたディーン卿が、車内にいる私に向かい手を差し出した。私は素直にその手を取って馬車から降り、ディーン卿と向かい合うとすぐにお礼を告げた。
「こちらが謝罪をする立場ですのに、我が邸宅までお送りいただき誠にありがとうございます」
「いいえ、お気になさらず。最後は楽しい話が出来て良かったです。非常に学びになりました」
「こちらこそ、大変学ばせていただきました」
馬車での話を思い出し、新たな学びが得られたんだとつい頬が緩む。すると、突然正面に居たディーン卿が私の右手を掬い上げた。
「ただ、結婚についてはもう一度考えていただけると嬉しいです」
その言葉の直後、私の右手の甲に柔らかく暖かい感触が伝わった。
「えっ……」
「敬愛の証です。またお会いしましょうね。いつでもご連絡ください。では、本日は失礼いたします」
端正な顔に小さく笑みを浮かべた彼は、自身の言いたいことだけ言い終えると颯爽と馬車に乗り込んだ。
わざとらしいリップ音が、余韻のように頭の中をグルグルとリフレインする。
――何て人……。
ちゃんと断ったのに。
どうして私なの……?
困惑しながら、動き出した馬車に目をやる。すると、そんな私の背後から予想外の声が聞こえてきた。
「エミリア、今のは……」
間違えようのない人物の声を聞き、慌てて振り返る。するとそこには、まだここにはいるはずの無いカリス殿下の姿があった。
とんでもない人間の好きな人は、だいたいある意味とんでもないです。




