89話 終わりの始まり
ヴァンロージアでの引継ぎをすべて終わらせ、とうとう王城まで戻ってきた。そして現在私は、カリス殿下たちに出迎えられていた。
「心残りなく帰ってきたか?」
「はい。きちんと整理をつけてきました」
「それなら良かった」
凛々しい表情で私を見つめるカリス殿下は、安心したように僅かに口角を上げる。するとその背後から、陛下の側近秘書官が姿を現した。
「到着早々となりますが、陛下が謁見の間でお待ちでございます。荷物は使用人が預かりますので、御同行をお願いできますでしょうか?」
「承知いたしました」
こんなにもいきなり呼ばれるとは思っていなかったため、内心少し驚いてしまう。だがすぐに状況を飲み込み、私はティナの方へと振り返った。
「ティナ、この荷物はあなたに任せるわね」
「もちろんでございます」
決して王城の使用人たちの仕事への姿勢や技量を疑っているわけではない。ただ、ヴァンロージアの使用人たちからの贈り物は、本能的に信頼のおけるティナに管理してほしかったのだ。
ティナもそんな私の胸中を察し、快く引き受けてくれた。そのため、私はそのことに関する不安なく、陛下の側近秘書官とカリス殿下と共に謁見の間へと向かった。
「来たな。無事戻って何よりだ。もうすぐで辺境伯とマティアス卿も到着する」
室内に入ると、椅子に座った陛下が顔を上げて私の顔を確認した。すると、立ち上がるなり流れるような足取りでこちらに歩み寄った。
陛下は「覚悟は良いな」という声が聞こえてきそうな表情を向けてくる。そのため言葉にはしないが、当然だと陛下へ答えるように私も頷きを返す。
すると、陛下は受け取ったと言うようにスゥっと息を深く吸い込んだ後、鋭い視線で扉を一瞥した。
――あの扉が開けば、私の未来が変わる。
マティアス様と会うのも、今日が最後になるかもしれない……。
結婚の話を出された日のこと。夫が不在のまま行った結婚式。初めてヴァンロージアに行った日のこと。ジェリーとの出会い。
ヴァンロージアの人たちとの新たな繋がり。人生で初めて感じた楽しさ。苦悩した日や達成感を覚えたあの日。
さまざまな思い出が、まるで絵物語のように脳内を駆け巡る。
決して楽な生活ではなかった。迷子の子どもながら、そう見えないように必死に取り繕って、がむしゃらに向き合い続けた。
でも、その先には確実に満たされる感覚や充足感もあって。
――白い結婚だとしても、離婚した私を良い目で見ない貴族が大半でしょう。
だけど、ヴァンロージアでの生活は決して私の人生の汚点にはならないわ。
これまでの思い出や経験は決して忘れない。
新たな道を進みだしても、それも私の一部として糧にするのよ。
これからの新たな人生を覚悟すると共に、心で密かに自分自身への誓いを立てる。そのときだった。
「陛下、カレン辺境伯とご子息のマティアス卿が到着なさいました」
「通せ」
陛下の言葉に心臓が震える。ゆっくりと開かれる扉を見つめる私の胸は、今にも駆け出してしまいそうなほどの速さで鼓動を打っている。
そして、ついに彼が視界に映った。
――マティアス……さま……?
どうしてこんなにも生気の無い顔をしているの?
今にも倒れてしまいそうじゃない……。
約十日の間で、彼の身に何が起こったと言うのだろうか。
何日も寝ていない人のように目の周りの皮膚が赤く染まっている。凍てつく氷のような炯炯たる瞳も、今では虚ろさを纏っている。
恐怖を感じるほどに威風堂々とした態度の普段の彼と比べると、まるで別人だ。弱り切っているという言葉がぴったりなほどの今の彼の雰囲気は、まさしく異様だった。
すると、そんな彼に続くようにお義父様が入り、その数秒後にはお兄様がブラッドリーの代表として入室してきた。
「皆揃ったな。それでは、離婚承認を行う。二人ともこちらに来なさい」
マティアス様に気を取られていたが、陛下の呼びかけにより我に返る。
腰ほどの高さの台の近くにいる陛下へと近付くと、その台の上に離婚承認証書があることに気付いた。
――ついにこの日が来たのね……。
身が引き締まる思いでいると、感情が抜け切ったように無表情のマティアス様が私の隣に並んだ。すると、陛下はそんな私たちの目の前に小型のナイフを差し出した。
「固い決意だということを示す証書にするため、今回は血判してもらう。まずは私が押そう」
そう言うと、陛下は自身の指先を軽くナイフで切り、先陣を切る形で血判を押した。先に書き込まれていた陛下のサインの隣に、少量の血がジワリと滲む。
「どちらからでも良い。署名をしたらここに押しなさい」
血判が終わった陛下が顔を上げ、私たちに声をかける。
どちらが先に押すのか様子を見ようと、マティアス様を横目に見る。すると、予想外なことに彼もこちらを見ていた。
「俺が先にやろう」
「は、はい……」
何を考えているのか分からない彼だったが、先にやると申し出てくれた。そして、彼は署名欄にサインを書き記した後、ナイフで指先を軽く切り血判を押した。
もちろん、こうなることは望んでいた。だが直近の彼の姿と一転した様子で、あまりにもあっけないほどに事を淡々と済ませるマティアス様に動揺する。と、彼が私に声をかけてきた。
「……エミリアの番だ」
その言葉に慌てて、ペンを手に取る。そして、震えを必死に堪えながら署名欄に名前を書き、光を受けキラリと反射するナイフを視界に捉えた。
――ナイフで手を切るだなんて初めてだわ。
陛下もマティアス様も何の躊躇いもなさそうに切っていたが、ちょっと怖くなってしまう。だがこれは決別の儀式なんだと思いを振り切り、そっとナイフを手に取り、息を止めながら自身の指先に刃を突き立てた。
そして、マティアス様の血判の下に、血が流れ出した自身の指を力強く押し付けた。
「よし、これで証書は完成した。ゆえに……今この場を以てそなたらの離婚は承認された。今日からそなたらは他人同士だ」
血判を押し放心しかけている私に、陛下の声が届く。
それにより、一気に意識が現実へと引き戻され、胸には痺れるような感覚が一気に広がった。
――本当に……本当に離婚したのねっ。
そのことを実感するため陛下の顔を見ようとしたが、陛下は証書を持って背後にいる辺境伯とお兄様の元へと既に移動していた。
そのため、私もお兄様の元へと足を運ぼうとしたその瞬間、有り得ない声が耳に入り込んできた。
「……エミリア」
ドクンと心臓が跳ねる。
まさか、マティアス様が私に話しかけてくるわけがない。そう、きっと気のせいだ。
そう証明するため、声が聞こえた右隣に目をやる。するとそこには、私の居る隣ではなく、真っ直ぐに正面を見つめたままのマティアス様が居た。
そう……彼は私の方を見てはいなかったのだ。
――なんで変な勘違いをしてしまったのかしら。
やっぱり、マティアス様に限って有り得ないわよね。
というか、この距離でちゃんと見たから気付いたけれどこの肌……どうしたのかしら?
マティアス様は、戦場から帰って来た人とは思えないほど綺麗な肌をしていた。だから、生まれつき肌が強い人だろうと思っていた。
しかし、今のマティアス様は何故か、服で隠れていない肌は赤みを帯びており、ところどころ内出血している箇所や、ひっかき傷のような瘡蓋も見受けられる。
少なくとも、私と最後に会った彼にそんな症状は無かった。いったいこの数日間で、彼の身に何が起こったのだろうと考えざるを得ない。
「エミリア」
またも私の名前を呼ぶ彼の声が耳に入る。今度こそ幻聴ではないと思い、身体ごと彼の方へと向けると、彼は視線だけをこちらに寄越していた。
「……お前にもっと、優しくすべきだった」
今更なぜそのような言葉を言うのかと、耳を疑う。そのうえ、奥歯を噛み締めるようにマティアス様の顎関節が動くのに気付き、私の心には尚更の動揺が走る。
なぜ今になって、そのようなことを伝えてきたのかと……。
だがそんな私の心とは裏腹に、彼は言い逃げるように視線を正面へと戻した。そしてとうとう私の視線が煩わしかったのか、辺境伯や陛下のいる方へと歩き出してしまった。
「陛下、このたびはお手を煩わせる事態を招き、大変申し訳ございませんでした」
「何度も謝るな。今日は一先ず邸に戻るといい」
何とも言えぬ気持ちが心に引っかかり彼の後を追えば、謝り続ける辺境伯に観念した様子の陛下が帰宅を命じる声が耳に届く。
マティアス様はというと、そんな陛下に歩み寄り声をかけ、忠誠の意を示すように陛下の目の前に片膝を突き跪いた。
「陛下、このたびは私の愚かさゆえご迷惑をお掛けし、大変申し訳ございませんでした。此度の寛容な対応に感謝し、国のため、そして我が罪を贖うべく、西の辺境にて持ち得るすべての力を尽くして参ります」
「ふむ……。西の辺境で学ぶことも多いだろう。心身ともに研鑽に勤めなさい。頼んだぞ」
「御慈悲に報えるよう、粉骨砕身して努めます」
翳りを纏わせながらも落ち着きある様子のマティアス様。そんな彼が、言葉の終わりに苦悶のような表情を見せた。
だが、それはほんの一瞬の事。
先程の表情は見間違いかと錯覚するほど一瞬で表情を切り替え、彼は何事も無いといった様子でスクっと立ち上がる。そして、機械仕掛けの人形のように無表情のまま、辺境伯と共に足を扉の方へと向けた。
――本当にこれで終わり?
あんなに感情の起伏がある人が、こんなに大人しいなんて変よ。
このまま別れたら、気味が悪いわ……。
「マティアス様」
得も言われぬ危うさを感じ取り、気付けば私はあんなに怖かったマティアス様に声をかけていた。すると、彼は無視することなくこちらに振り返った。
「っお元気で……」
「……ああ」
確認のために勢いで声をかけ、極めて無難な内容になった一ラリーの会話。その間の彼は、鉄仮面を被っているのかというほどに無表情だった。
しかも当然、こんな会話で彼の心情なんて探りようもない。
そして、五秒ほど目が合っただろうか。彼は、もう用事は済んだだろうと言うように踵を返そうとした。
その瞬間、私は偽善者や猫かぶり、独善的だと思われても仕方ない。余計なお世話過ぎるのも重々承知だ。そんな気持ちで、確認云々は関係なく、ついでとばかりに彼に最後の一声をかけた。
「以前お渡しした傷薬は、まだ持っていますか? どんな傷にも効くので、よければ使ってくださいね」
最後の最後に何を言っているんだと思われるだろう。そう思いながらも、僅かなしこり一つ残したくない思いで告げ、ギュッと拳を握り傷まみれの彼を見つめる。
するとその瞬間、彼はポーカーフェイスを崩し幽霊でも見たかのような表情になり、そのまま私の目を見つめ声を漏らした。
「っ……ああ」
たった一言。ただそれだけが返ってきた。
その直後、彼は顔を隠すかのように前髪を一掻きした。そして、最後に一瞬だけ私を一瞥してから、そのまま退室のための歩みを再開した。
彼らが出て行き、開かれていた扉がゆっくりと音を立てながら完全に閉まりきる。
その瞬間、私とマティアス様が扉により隔絶したことにより、私たち二人の関係が完全なる終焉を迎えたのだと痛感した。




