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88話 因果応報〈マティアス視点〉

*ご注意!

今話は、読む方によっては非常に不快感を抱かれる内容があります。

直接的な表現は無いですが、刺激が強い描写がありますので、無理だと思ったらその時点で読み進めないでください。

 陛下が離婚を承認すると宣告してから、十日以上が経過した。その間、俺は父上の指示により邸宅内で謹慎を命じられていた。



 俺以外の人間は誰一人いない自室。そこにずっと籠り、俺は王城に行った日のことを振り返っていた。

 そして、自身に下された判決や置かれた状況に対し、不満と鬱屈とした怒りを燻らせていた。



――俺がミアを想うことはそんなに罪深いことだったのか?

 あの人が本当に悪女だと言うのなら、俺は何を信じればいい……?

 それに、離婚したら次期領主権剥奪なんてっ……クソっ……。



 ミアが亡くなって以降の俺の未来設計は、辺境から帰還し、未婚のまま領主になり、ゆくゆくはイーサンか甥にその後を継がせるというものだった。

 だが、俺のそんな夢は父上の勝手な行動により、崩れ去ってしまった。



 俺は長男として、このカレン家に生まれた。元来、男が三人以上生まれた家の貴族たちは、それぞれの役回りが決まっているというもの。



 まず、長男は家門を継ぐ存在として、領地経営等に関する仕事をする。次いで次男は、長男のスペア的存在として、いざというときに死なれていたら困るため、聖職者や文官になりがちだ。そして、三男以降の男は大抵の場合軍人になる。



 辺境伯という特殊な立ち位置だからこそ、俺やイーサンは特例として戦場に身を置いていた。だが、本来長男である俺は、領主としての役回りを果たすべきなのだ。



 他の国は知らないが、ここでは家督を継げぬ長男は貴族の恥だと言われる。

 だからこそ廃嫡だってごめんだが、俺にとっては廃嫡されていないにも関わらず、家督を継げないことの方が生き恥を晒す苦痛なことだった。



 西の辺境に行けと言われたときは、戦場にいる代わり、これを口実に一生結婚の話も無くミアを想い続けられると思った。

 だが、何日も冷静に考えれば、本来領主になるはずの俺が、エミリアと離婚するというだけで領主になれないことが解せないと思えてきた。



 いくらミアを想う気持ちはあれ、ストレスのかかる戦場には極力行きたくはない。それに、あいつと離婚になって、俺の人生がこれ以上狂うことだってごめんだ。



 どうしたら、俺は領主権を継げるのか。

 そのことについてずっと考えたが、結局出てくる結論はただ一つ。エミリアと離婚しないこと、それだけしかないのだ。



――どう足掻いても、領主権を継ぐにはエミリアと離婚しない道しかないのか……?



 エミリアのことは気に食わないし好かないが、憎悪という感情はここ数日で消えていた。というのも、考えれば考えるほど、あいつの言動は終始一貫しており、自分本位なことばかりを言っているわけではないと思い知らされたのだ。



 それに、勝手に嫁いできたことに違いは無くとも、拒否権の無い女が父親に強制された結婚だと言われてしまえば、そうだと肯定するほかない。

 エミリアの多大な努力と貢献によりヴァンロージアが発展を遂げたことも、認めたくは無いが事実なのだ。



――だから俺はエミリアに歩み寄った。

 なのに、どうしてここまでのことにっ……。



 このまま何もせずにいたら、俺の人生はお先真っ暗だ。

 それも、あのときエミリアと婚姻関係が続いていたらと、悔やむ日が来る可能性が考えられるほどに……。

 ならば、それを避けるためにやはり行動するしかない。



 そう思った時だった。

 自室の重厚な扉をノックする音が、部屋に響いた。かと思えば、俺の返事を待つ間もなく、ロベル卿が室内へと足を踏み入れてきた。



「マティアス様。明日、離婚承認を行うため王城に来るようにといった旨のお手紙が、王城から届けられたため、御伝達に参りました」

「明日だと!?」

「はい。そのように伺っております」



――明日ということは、今日の夜にはエミリアは王城に戻っているに違いない。

 となれば、チャンスは今日しかないっ……。



「分かった。……一人になりたい。下がってくれ」

「承知しました」



 一瞬だけ頭を下げると、ロベル卿は無駄のない動きで一直線に扉から出て行く。その直後、外鍵を閉めるカチャカチャという音が室内にまで聞こえてきた。



 その音を聞き、俺はつい鼻で笑いそうになってしまう。俺にとって解錠など造作もないことだからだ。



「本気で俺を閉じ込めたいなら、室内に物一つ残すんじゃなかったな」



 律儀に鍵を閉める。そんな卿に対してご愁傷様と思いながら、夜になり俺は外から施錠された自室の扉を解錠した。

 目的はもちろん、エミリアと落ち着いて二人で話をするためだ。



 エミリアは俺が対話をしてくれないと言っていた。ということは、対話の姿勢を示せば、エミリアの気持ちも変わる可能性がある。あいつはいつも俺に対して、言葉よりも行動で示せと言ってきたのだ。



――それなら、今度こそ望み通りそうして見せようじゃないか。

 背に腹は代えられん。



 何だかんだ、あいつは優しい性格をしている。きっと情にも絆されやすいだろう。だから、分かってくれるはずだ。

 俺は、こんなところで躓いて人生を駄目になんてしたくない。



 これは、一世一代の賭けだ。

 そんな気持ちで部屋から抜け出し、俺に気付いた使用人は全員眠らせながら、邸宅を抜け出した。



 ◇◇◇



――ここまで来たものの、エミリアはどこにいるのか見当がつかないな……。



 屋敷を抜け出し、王城の開放庭園まで来たのは良いものの、エミリアの滞在先が分からない。

 そのため、勢いで来たことを少し後悔しながら、一番可能性が高いと思った第三王子宮に向かうことに決めた。



――第三王子宮は、こっちだな……。 



 第三王子宮は南東側にある。そのため、北を向いていた俺は方向転換しようと後方寄りに振り返った。

 するとその際、視界の端に井戸で作業する人影が入り込んできた。



――人がいるな……。

 よし、ちょうど良い。

 あそこにいる人物を最悪買収でもして、エミリアの場所を吐かせよう。



 エミリアを探すにあたり、行き当たりばったりにならずに済みそうなことにホッとしながら、井戸に居る人影へと近付いて行く。そして、とうとう月明りとランタンの光により、その人物の姿があらわになった。



「マーロン夫人……?」



 まさかの人物に驚き声を漏らすと、夫人も肩を跳ね驚きの反応を示した。



「マティアス卿? どうしてこちらにっ……!?」



 驚き戸惑いの声を漏らす、酷くみすぼらしい姿になった彼女を見て、なんて幸運なんだと期待が募る。そして、俺は勢いのままに彼女に頼みを告げた。



「夫人、どうしても聞いて欲しいお願いがあるのです。俺の妻のエミリアがここにいるんです。話がしたいので、部屋まで案内していただけないでしょうか?」

「えっ……私がですか?」

「はいっ!」



 早くうんと頷いてくれ。そう思いながら夫人を見つめるが、夫人は俺の期待に反しますます困り顔になった。



「すみません。御滞在のお部屋は分かりますが、私の所轄ではありませんので、ご案内は出来ません」

「分かっているんでしょう!? でしたら、部屋の場所だけでも教えてくださいっ……。私だけで行きますか――」

「万が一のリスクを考えると、口頭でお教えすることもできません」



 そう言うと、夫人は先程までの困惑の表情はどこへやら、いかにも疎まし気な表情になり、俺をあしらうように「お諦めください」と言い放った。



 だが、俺はここで諦めるわけにはいかない。これからの人生が懸かっている。

 その思いで、ポケットからあるモノを取り出した。



「いくらだったら良いですか? 言い値を書きましょう」



――小切手でも渡せば、教えてくれるだろう。



 折りたたんだ小切手を開き、持ち運び用の特殊なペンを取り出し夫人の顔を見る。すると、またもや予想に反し、呆れ顔でこちらを見る夫人と目が合った。



「私がお金に困ってるとお思いでしょうか? まあ、こんな見た目になったからそう思われても仕方ありませんね。でも生憎、今はお金に困っておりませんので、お断りさせていただきます」



 あまりにも予期せぬ発言だった。

 母上には美容に金をかけている話ばかりをしている印象があったからこそ、金に困ってこんな見た目になったのかと思っていた。



 金すら要らないと言われ、どうしたら良いのかといよいよ困る。

 だがそんな俺の脳内に、マーロン夫人についての情報が過ぎった。



――待てよ……マーロン夫人は確か、不倫をしてここにいるんだったよな?

 マイヤー夫人の話のときに都合が良い女と言われていたのは、絶対に夫人のことだ。

 万が一、もし万が一あの手が使えるんだとしたらっ……。



 本当は絶対に嫌だ。だが、最後に残るのはこの手しかない。

 俺は全く望んでいないが、エミリアと会うためにはこうするしかないんだ。



 そう自身に言い聞かせ、バクバクと鳴る心臓を抑えながら、動揺を悟られないよう必死に耐える。そして、いよいよ腹を括ることにした。



「マティアス卿、お金は結構ですので帰ってください。見つかって怒られたくないですし――」

「……私があなたの相手になりましょう」

「えっ……?」

「それでしたら、願いを聞いてくださいますか?」



 自分で言い出しておきながら、嫌だ嫌だと心が悲鳴を上げ始める。自身の意に反し、武者震いのように身体も勝手に震えてしまう。

 だがその一方で、先程まで帰れの一点張りだったはずの夫人の表情が変わった。



 まず、月明り程の光でも分かるほどに、頬を紅潮させた。そして、獲物を見定める獣のように、冷静でありながらも興奮しているような様子で俺の目をジッと見つめてくる。



 その視線を受け、俺はまるでヘビに囚われた小動物のように動けなくなってしまう。

 すると、夫人は唐突にニュッと手を伸ばし、抵抗できない俺の首筋をスッーと撫でるように、手指を這わせてきた。



――気持ち悪いっ……。

 む、無理だっ……やっぱり無かったことにっ……!

 ミア相手にもまだなのに、こんな母親よりも年上の女なんてっ……。



 そう思ったが、時すでに遅し……。

 夫人の目を見た瞬間、俺は逃れられなくなっている自身の状況を悟り、理解してしまった。



 恐らく今、俺から夫人を拒絶すれば、夫人は今の出来事を誰かに訴えるだろう。俺が彼女を襲ったと、話をでっちあげる可能性だってある。



 いくら切羽詰まっていたからって、なぜこんな提案を自分から吹っ掛けたのかと、十秒前の自分を殺してやりたい。そんな後悔の念に苛まれている俺の耳に、夫人が口を近付け囁いた。



「良いわよ。でも、こっちが先。その後なら、居場所を教えてあげるわ」



 妖しげに輝く三日月の目が、恐怖で固まる俺を吸い込むように見つめてくる。

 その空気に呑まれ否めなかった俺は、夫人の導きのままに、開放庭園から離れた人気のない建物の一室へとやって来た。



「こ、ここはっ……」

「使用人部屋が空いてないけれど、貴族用の客間は使わせないって言われて、来週までここを使わないといけないの。ここは使用人部屋よりも、ずっと憫然たる場所よ。でも……幸運だったわ。人生でもう二度と、こんなこと無いと思っていたから」



 悲劇のヒロインのような語り口で部屋を歩きながら告げる彼女は、最終的にベッドに腰掛け、立ち竦む俺を誘うように見上げてきた。

 劣化したベッドの酷く軋む音の生々しさも相まり、その行動を見て本能的に身体中に悪寒が走る。



「あの、やっぱりこんなこと無理で……」



 逃げたさのあまり、夫人の良心に一縷の望みを賭け、無理だと声を漏らす。

 だが、そんな俺の言葉は今のマーロン夫人を前にしては、全くの無意味だった。



「やっぱり何? 男でしょう? 早くこっちに来てちょうだい」



 その言葉に逆らえず、ゆっくりを時間をかけ夫人の方へと一歩、また一歩と足を踏み出す。すると、痺れを切らせたのか、手の届く範囲に来た瞬間、夫人は俺の手を掴み引っ張って隣に座らせた。



「もしかして……あなた初めてなの?」

「っ……」



 恐れのあまり自身の唇を噛み締めると、夫人はそんな俺を見て嬉しそうに笑い出した。



「あらっ、可愛いじゃない! いいわ、私がぜーんぶ教えてあげるから」



 その言葉を最後に、俺は後戻り出来ないところまで来てしまったのだと酷く痛感した。



 ミアに対する申し訳なさが、心臓を抉るかのように襲いかかってくる。

 そんな中、エミリアに会うためここまでの事をしているんだということ、己の未来のためにしているんだということ、この二つを自身に言い聞かせ続け、俺は己の心を徹底的に殺した。



 こんなことになるなんて、思いもよらなかった。

 こんな思いをするくらいなら、エミリアにもっと優しくするんだったと、本気で後悔するほどに辛い時間だった。



 そして今日のことは、死ぬまで忘れられないであろう最悪な出来事として、脳裏に色濃く刻まれることになった……。



 ◇◇◇



「……エミリアは、どこにいるんでしょうか?」

「第三王子宮の二階の、南側の突き当りの部屋よ」

「ありがとう、っございます……」



 絶望的な気持ちで告げ、俺はすぐさま建物を後にした。そして、エミリアの居るという部屋の前に辿り着き、鍵を開けこっそりと音を立てないよう気をつけながら中に入った。



 そんな俺に待ち受けていた現実は、あまりにも残酷だった。



「嘘、だろ……」



 夫人の言っていた場所は、決して偽りではないだろう。王子宮内に入ってから分かったが、南の突き当りの部屋は、二階で一番か二番目に良い配置のようだった。

 だが、入った部屋の中には人影が一つも見当たらない。



「エミリア……」



 周囲にバレないよう、小声で彼女の名を呼ぶ。しかし、彼女の声は返って来ない。

 だが、そんな現実を受け入れられるはずもなく、俺は優しさを意識して語り掛けるように再び口を開いた。



「……っ隠れてるのか? 何もしないし、怒鳴ったりしないから、俺ともう一度話をしてくれ。エミリア……。お願いだ。返事をしてくれっ……」



 本心では分かっているが、その事実に抗うように声をかけるもやはり結果は変わらない。



――なぜいないんだ?

 明日離婚承認をするんだろう!?

 こんな、こんなことありえないっ……。



 そう思い、俺は必死で王子宮内を探そうとしたが、王子宮の警備は厳しく、侵入をバレたくなければ諦めざるを得ない状況にまで追い込まれた。

 こうして俺は結局、何の収穫も無いまま、絶望だけを携えカレン家の邸宅へと戻ることになってしまった。



 ◇◇◇



 邸宅に着き次第、真っ先に井戸へと疾走で向かった。そして、冷や水だろうが構わず、何回も何回も井戸水を汲み全身にかけまくった。

 それと同時に、肌が赤くなり血が滲むほど、何回も何回も身体中をくまなく擦る。



 こうして洗い始めてからしばらくすると、ふと鳥肌が立った自身の肌に気付いた。

 その瞬間、あの苦痛の時間が脳内をフラッシュバックし、その記憶をかき消そうと、再び肌を強く擦りながら、何度も何度も水を被る。

 その繰り返しをしていると、俺の身体には新たな症状が出始めた。



「うっ……」



 急な温度変化のせいかも知れない。しかし、おそらく精神的な気持ち悪さが極地に達したのか、その場で反射のごとく込み上げたものを吐き出してしまう。



――ミアではない時点で最悪だが、エミリアでもない、よりによってあんな奴とっ……。



 恐怖や不快感、絶望がずっと心を支配する。まるで、奈落に落とされたようだ。

 そんな抱えきれそうにない絶望を抱え、俺は必死に井戸水で身体を洗い続けた。

 すると、気付いたころには東で太陽が頭を出し、空が白み始めてしまっていた。



 まだこの気持ち悪さは、一ミリも拭えてなんかいない。

 だが、俺がここに居るということが、使用人、ましてや父上にバレるわけにもいかない。

 そのため、俺はもう少し穢れを濯ぎたい気持ちを堪えながら、隠れるように泣く泣く自室へと戻った。



 そのとき滴り落ちた水は、井戸水なのか涙なのか、もう何なのかすら分からなかった。

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